「なんでだろう」と言える勇気

徳泉 方庵

 中国では毎年六月、大学受験生にとっては避けて通れない中国全国大学統一入学試験が行われる。

 日本で言えば、大学入試センター試験に当たるが、中国ではこの試験だけですべてが決まる。通常は三日間にわたって行われる試験の結果で、志望大学を含めて本人の意志に関係なく、教育部(日本の文部科学省)が各省に配分した各大学の配分人数に照らして、成績順に全国の大学に振り分けて合格通知を出す仕組みである。

 しかしその一方で、各大学所在地出身者が有利で、入学枠も多く、合格ラインも低い。そのため地方保護主義との批判は絶えずあり、逆にこの地域格差を利用しての不正入学も後を絶たない。さらには保護者の金や地位を利用しての裏口入学の連鎖は相当の数に上り、こうした不平、不満、不正への批判は年中行事と言ってよく、だが政府の改善への取り組みは緩慢である。

 ところで今年はこの統一試験で出題された作文題(ジョージ・バーナード・ショウの名言「なぜこうなってしまったのか・・・なぜああならなかったのか」に倣って作文せよ)に書いた一人の受験生の文章がインターネット上で広がり、注目された。

 この作文は中国の安徽省の一試験場から出たものだった。
 受験生が書いた作文内容は「老百姓」と中国語では表現される“一般庶民”のほとんどが日常生活で見たり、感じたり、体験している事柄で、どれも決して目新しいことではない。それにもかかわらず注目されるのは、作文が自分の人生を確実に左右するとわかっている統一試験の回答として書かれたからである。
 ネット上に流れているこの受験生の作文を紹介しよう。

 なんでだろう? なんでだろう?
 ぼくの自転車がBMWにちょっと触った。傷もつけていない。なのに一万元
 (大学新卒初任給の5倍ほど)も請求された。しかもビンタ付きで。
 なんでだろう? なんでだろう?
 李啓銘は校庭でカーレースをして、二人の女子学生を死なせたのに、取り押さ
 えようとした人たちに親爺の名前を出しただけでもうおかまいなし。
 なんでだろう? なんで同じ人間なのにこんなに差があるのか。
 李啓銘の親爺は政府高官だからさ。

 なんでだろう? なんでだろう?
 ぼくはまだ十九歳。なんでこんな理不尽な試験を受けなければいけないのだ。
 汗まみれで、頭痛もするのに。
 なんでだろう? なんでだろう?
 郭美美も十九歳。超高級車を乗り回し、ブランド品だけを身につけて。
 なんでだろう? なんでぼくにはそれができないのだろう。
 あっ、そうか。彼女は全国名門組織会長のご令嬢だった。
 
 なんでだろう? なんでだろう?
 なんでミスチャイナは目をそむけるほどの不美人なのに、ミス韓国は目を見張
 るほどの美人揃いなのか。
 なんでだろう? なんで十四億の中国人にはできなかったのだろう。
 韓国の整形技術が超素晴らしいからか。いや、中国の審査委員はみな袖の下な
 のだ。

 なんでだろう? なんでだろう?
 なんでぼくは汚染食品、偽飲料を口にしなければいけないのか。彼らは「特貢
 食」(汚染されていない、特に品質のよい贈答品)しか食べず、すっぽんスー
 プばかりを飲んでいるのに。
 なんでだろう? なんでだろう?
 なんでぼくの家は八平米の賃貸なのに、彼は二桁以上の高級マンションを持っ
 ているのか。
 なんでだろう? なんでぼくにはできないのか。
 彼らは特権階級だからさ。

 中国の大学入試は日本のように各大学が独自に試験を実施しているのはごく少数で、ほとんどが「高考」と呼ばれる全国大学統一試験一本で決まる。それだけに受験失敗は社会から負け犬の烙印を押されてしまう可能性が強まる。またたとえ合格しても自分の望んだ大学へ行けるとは限らず、予想もしない地方の大学に振り分けられることもあり得る。

 この受験生が書いた「なんでだろう」の内容は、どれも中国の深刻な社会問題に真っ向から挑み、告発していて、決して誇張でもでっち上げでもない。実際、この文章を裏書きするような事件がつい最近、中国で起きている。

 ある高級官僚の息子が酒に酔って、店主と口論になりその挙げ句に相手を刺殺してしまった。ここまでなら一つの刑事事件なのだが、判決結果は唖然とするものだった。殺人を犯した高級官僚の息子は「間歇性精神病」と診断され、無罪。ときどき精神に異常を起こす病気が殺人を犯させたという法制史上、前代未聞の判決。

 権力を握る官僚は法律を踏みにじるだけでなく、医学の常識までもいともあっさり曲げてしまうのだ。一方、社会の底辺を這いずり回る一般庶民は、受験生が言うように最低限の安全な食物さえも保障されていない。いや、人間の尊厳は奪われ、命そのものが権力者から踏み潰されているのである。

 貧富の格差はますます広がり、国家の主人公と位置づけられている一般国民は社会主義国家の「官」と「民」の天と地ほどの身分の差に喘ぎ苦しんでいる。それにもかかわらず「官」の身分や立場を利用した不正はエスカレートするばかり。権力者や金持ちの間には二号さん、三号さんを持つことが当たり前になってきている風潮等々を見れば、旗印は社会主義国家、中身は封建国家と揶揄されるのも当然かもしれない。

 こう見ると、受験生の文章は社会の底辺に生きる庶民の呻き声にも聞こえる。決して大げさではなく自分の人生を決める大事な入試で、新聞でさえ尻込みする内実の暴露そのものが「勇気」ある行為と言える。

 限られた貴重な受験時間で中国の抱える社会問題をきちんとまとめた受験生の鋭い目は賞賛に値するが、受験まっしぐらのはずの受験生からこれほどまでに中国の歪みに目を据え、ぶり出されたことに驚きを禁じ得ない。
 作文の最後はこう結ばれている。

 「なんでだろう? なんでだろう?
 ぼくはこの作文に自信があるけれど、ぼくの運命を決める採点官は零点をつけ
 るだろう。
 なんでだろう? なんでだろう?
 ぼくはこの国に傷つけられているのに、なんで先生は怒り出すのだろう。
 なんで中国はこうなんだろう!
 真実を言ってはならず、目をつぶって社会調和を謳う政府の方針に従うなんて。
 なんでぼくは自由に話せないのだろう?
 ぼくは零点でもいい、大学に入れなくてもいい、自由に話したいのだ」

 気になるのはこの作文の点数だが、なかなか確かめようがない。ただインターネット上ではこの作文は最低点だったと伝えられている。いずれにしろ中国の将来を担う若い世代を育てる責務を負っている大人たちには「多くの社会問題、矛盾から目をそむけ、ひたすら安定・調和を謳えようとする政府の方針に従い」「言論自由をただ夢の中の理想にして、現実にはまず保身によって口を閉ざす」のかというみずからに踏み絵を迫る勇気が問われているのではないだろうか。

 ところで近年、全国統一試験で一つの「珍現象」が起きてきている。それは各省の「高考状元」、つまり各省の成績一位者の中には北京大学や精華大学など中国トップクラスの大学へ入学できるのに、中国本土の大学に目もくれず、香港の大学を選ぶケースが著しく増加してきている。一国二制度下にある香港は中国であって中国ではなく、かつての統治国イギリスの制度がかなり維持され、個人の自由度も本土に比べればそれなりにある。彼らは大学卒業後を考えていて、機会あれば国外へ打って出るつもりでいるからにほかならない。若者がよりよい環境で学び、よりよい将来のためにと考えるのはきわめて当然だろう。

 そこで、ふと考えてしまう。日本はこのような優れた学生が四年後、日本へ行ってさらに学ぼうと思わせるような魅力ある迎え入れ体制を国策として布いているだろうかと。

 また日本の大学は大学の評価項目に「国際交流」があるからと、留学生数や交流協定校の数をいたずらに伸ばすことだけに汲々とするばかりで、有能な人材を海外から選抜し、優れた国際的人材の育成という面から留学生を迎え入れる体制を整えているだろうかと。

 留学生はいずれ国に帰る“お客さん”という認識はもはや捨てて、日本で育て、その優れた能力を日本で発揮し、日本を舞台に国際的に活躍する人材の育成にこそ本腰をいれる時期に来ているのではないだろうか。日本人学生にも強い刺激になるはずで、それこそが真の国際化ではないのか。

 どうやら日本という国、そして日本の大学も真の国際化のために、今回の受験生のような「勇気」と、確固とした「信念」を持つことが求められているようだ。

 (筆者は大妻女子大学准教授)
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