■エッセー

「クマと森とひと」の話               高沢 英子

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  緑の季節となった。私の住んでいる地域は戦中戦後にかけて大企業の工場があ
ったところで、周辺に小さな町工場も沢山あったらしく、大半は住宅地に変貌し
てしまった今も、あちらこちらにちょっとした空き地の多いところである。春と
もなると、土のあるところ、陽のさすところ、どんなすきまにも芽をだす野草が
葉を伸ばし、白や、薄桃色や、紫、黄とつぎつぎ可憐な花を咲かせ、六月になる
と眼にしみるようなみずみずしい若草が風になびいていたりする。
 
条件が変らないかぎり、毎年繰り広げられるこうした自然の営みに目を楽しま
せ、季節の匂いに包まれると、大自然は老いるということがないのかしら、とし
みじみ思ったりするのである。
 
子育てならぬ孫育てと家事支援に関わって五年の歳月がすぎた。加齢に加えて
、無理を強いてきたからだがそろそろ悲鳴を上げ始めている。新しい固有名詞や
人名がなかなか出てこない脳のほうはともかく、体の仕組みを作っている骨や筋
肉のあちこちが、急に変調を来たし始めた。八十歳を目前にして、内蔵の衰えよ
り前に、そろそろ体を支え組み立てている構造そのものが軋み始め、死後硬直な
らぬ生前硬直をきたしてきたらしいことに気づかされて、あわてている。そして
最近知人が紹介してくれた整形外科医院に通うようになったが、患者は当然老人
たちが多い。怪我や骨折と違い、老化による支障は変調をきたしてもレントゲン
や血液検査ではっきりわかるものではなく、昔ながらの老練なマッサージ師や鍼
灸師の経験と直感のほうが、てっとり早く効果が上がることのほうが多いようで
、こと老化に関しては結局医療は手探り状態なのではないか、と思うようになっ
た。
 
医院ではホリスティック医療を理想として目指しているらしい。リハビリテー
ションに力を入れているばかりでなく、心理的ケアにも配慮しているので、診断
と発言にはときどき、スピリチュアル療法らしきものをとりいれた、少々ゆき過
ぎと思う点もあるから、こちらもそうそういいなりに納得は出来ないときもある
。東洋に始まり、いまや世界的にひろまって、西洋でも注目し始めた漢方の総合
治療や、気の概念は奥が深く、先生自身ももまだ手探りの状態らしいから、理屈
をこねる老人をなだめすかしながらじれったそうにひきさがる。

 この医院では、待合室にある受付カウンターの下や、壁に沿って置かれたブッ
クケースに医療に関する本や雑誌がいろいろ並べられていて貸し出しもする。医
療ばかりでなく、教育や環境に関するリーフレットや雑誌もある。坐ると自然に
目に付くので,手にとって読んだり借りて帰ったりしているが、先日ふとカウン
ターの片隅に積まれていた小さなパンフレットが目に入った。
 
「クマともりとひと」という表題の小冊子である。副題に日本くま森協会の誕
生物語、とある。表紙の図柄は女の子がクマの膝に抱かれている絵で、内容は日
本熊森協会の森山まりこ会長の講演スピーチをもとに、何枚かの写真、資料など
をあつめ、随所にコメントをつけた説得力のあるものだった。それによると、こ
との発端は1992年兵庫県尼崎市の中学生が1枚の新聞記事に目を留めたこと
から始まった。記事には射止められた熊の写真と、「オラこんな山いやだ、 雑
木消え腹ペコ眠れぬ、真冬なのに里へ、 射殺」という見出しが掲げられていた
。そして、生徒たちは当時その中学の理科の教師だった森山まり子先生を動かし
、行動を始める。最初にまず子供たちが助けてやろうや、と動き出した、という

 以下、掲載されたスピーチを元にところどころ紹介してみよう。

 クマは確かに体も大きく怒ると危険かもしれないが、本来草食動物で臆病、森
の奥にひっそり棲み、人を襲うことはまずないといわれている。
  しかし近年の人工林の拡張で野生動物たちは餌を失い、里にさまようしかない
ことを、長い間人間は気づかずにきた。野生動物や生物たちはうろのある巨木が
切られて塒を失っていき、代わりに植えられた杉やヒノキの葉は苦くて食べられ
ず、栄養のある美味しい実もならないというわけで、食べる餌さえ失っていった
。そしてまず大きい動物から滅び始め、それがクマだったというわけである。
  こうした拡大造林が最初に始まった九州ではクマはもう絶滅。四国では十数頭
という結果が出てしまっているらしい。野生動物は百頭を割ると,近親結婚によ
り絶滅への道を辿り始めるそうである。
 
それにつけても思い出されたのは、5年くらい前のことであろうか、嵯峨の竹
林で射殺された熊の仔の話であった。保津峡の奥から出てきて、川を泳ぎ下り、
嵐山で陸に上がると、よほど空腹だったのであろう、嵯峨の竹林で筍を夢中で食
べているところを、追ってきた猟友会のメンバーに仕留められた。まだ幼い熊の
仔で、うしろ脚を投げ出して坐り、両手に抱えた筍にかぶりついている幼い姿が
テレビでも放映され、「熊坐りして、夢中で食べていたところを・・」と見てい
た娘はあわれがった。
 
協会は主張する。野生動物たちを滅ぼせば、やがて、日本から森は消えるであ
ろうと。そして、日本の豊かな森作りにはクマたちが必要、と。自然林に棲息し
ていた野生動物たちは木の枝を折って森に光をいれ、虫を食べ、土をかき混ぜ、
糞をばらまいて肥料にして下草を生やし、鳥は実をついばんで種を落とし、虫は
受粉をする、こうして保水力満点の豊かな山野が今日まで保たれてきた。それを
人工的に開発した結果、結局膨大な人件費その他の捻出に行き詰まって多くの山
が荒れたまま放置され、獣たちが里にさまよい出る事態を招いて、もはや手が付
けられなくなり果てている、というのが現状という。こうした現状にさらに追い
討ちをかけているのが、地球温暖化現象で、あちらこちらで紅葉ならぬ山焼け現
象が起こり、樹々が枯死している。
 
実際に独自の調査に乗り出して知ったのは、山は荒れ放題で雨が降るたびに表
土が流出し、水はその日のうちに海に流れ、川の水位は低下し、台風や大雨のた
びに土砂崩れが起きる。放置された人工林は外から見ると青々とした人工林が三
角形に整然と並んでいるが、林床には1年中日が射さず、草1本生えていない。
雨水で表土は流され、あちらこちらで土砂崩れがおき、瓦礫がむき出しになって
いる。生き物の気配が全くなく、虫一匹いない、という驚くべき現実だった。 
 
人工林は人が手を入れ続けないと維持できないのに、林野庁は目先の経済性の
みを考えてスギ畑作りに走ったが、結局人手も維持費も賄えず破綻して、広大な
面積の人工林を放置してしまったのである。こうして山に塒を失い、餌もなくな
った動物たちは田畑に出てくるしかなくなった。里に出るのはクマばかりではな
い。息子の住んでいる鈴鹿山麓では狸とサル、いのしし、さらに鹿などの出没に
住民は悩まされている。息子の家でも収穫間近の菜園のスイカをそっくりサルに
食べつくされたことがあった。熊森協会のひとたちにしても、クマはいわば自然
林を再生させる為のシンボルにすぎないといっている。

 地道な調査や勉強を始めた中学生を中心とした熊森運動はやがて、署名を集め
、地元の県庁から営林局、、林野庁から環境庁へと訴えを繰りひろげるが、反響
は殆どないに等しく、試行錯誤と蹉跌を経験したのち、結局自分たちで動くしか
ないと、1997年熊森協会を結成し、以来荒れた奥山に自分たちの手で植林を
し、腰の重い行政への提案や働きかけを続けている、という。写真には兵庫県戸
倉や富山県のトラスト地が紹介されているが、二つあわせても800ha足らず
で、まだまだ道は遠いと考えさせられた。
 
2008年、熊森協会は文部科学大臣奨励賞を受賞しているが、そこに至るま
での途中経過をみる限りでは、関係当局は賞でも出してなだめておこう、くらい
にしか考えていないのでは、と疑いたくなるほど、役所の対応や回答にはやる気
も熱意も感じられず、何一つ動き出していないようだ。
  会ではこの運動をもっと広げ大きくしたい、と会員を募集しているので、私は
早速登録する事にした。
 
  この春東北を旅して目を瞠る思いをしたのは、人があまり手を入れていない山
々の芽吹きの緑のみずみずしい美しさであった。それは西のほうではもうあまり
見られない遠い昔の里山の風景だった。
  「かつて森を消した文明は全て、滅びている、しかし日本列島はまだまだ緑の
山脈が続いている、と人工林の豊かさを見て日本文明は大丈夫、と安心していた
」と自らの迂闊さを、ふりかえりつつ訴えているのは兵庫県出身の森山まり子会
長である。
  わたしはいま整然と続く北山杉の森の小暗さを想起し、関西の広大なヒノキや
杉の山々を思い出し、いっぽうでかつて旅をしたギリシャの、延々とつらなる赤
茶けた禿山を目に浮かべている。

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