【オルタの視点】

「安保法制」成立後を考える

羽原 清雅


 戦後70年のうちでも、今後の政治、社会の状況を大きく変える契機となる「安保法制化」が、大きな反対の動きをよそに具体化した。「違憲」指摘の高まるうえに築かれる法制度であり、抽象的で変わりやすい政府答弁は、運用にあたって解釈の広がる可能性があり、しかも「外交」努力よりも軍事力拡張を重視するなど、大きな問題を抱えるままでの「数」による推進だった。
 この仕組みによってもたらされるものは今後、さまざまなかたちで論議されようが、いったん決まれば戻ることはむずかしく、長期的には不穏な展開も予測せざるを得ない。ただ、ジタバタせざるを得なかった政権を生み出したのはだれか、その責任を負うべきはだれか、この点を忘れてはなるまい。(2015.9.17現在)。

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 長期化する安倍政権
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 安倍晋三自民党総裁の無投票の続投が決まり、政権はさらに3年は続く見通しになった。内閣と自民党の人事はこれからだが、単一思考的「お仲間」統治が続くことは間違いない。首相自身が派閥を動員するなどして野田聖子氏の出馬を牽制、「造反は人事で干す」として「無投票」化に動いたのだから、今後も「この道しかない」わが道を進むだろう。政治家としての許容量が乏しく、非民主的だ。
 ということは今後、改憲の具体化、日米同盟の重視、中韓関係への慎重・消極姿勢の継続、戦後政治の見直し、歴史認識のそれとない修正、教育制度の統制的傾向の推進など、イデオロギッシュな政治路線が進められるだろう。
 あえていえば、首相の弁舌のうまさ、自公勢力の異論をさしはさませない一枚岩的体質、論理の辻褄合わせとそのゴリ押し、各種の五輪問題に見られるような責任隠しの政治姿勢にも引き続き付き合うことになるのだろうか。

 ただ、戦後70年談話で見せた、好まざる部分への言及に踏み切らざるを得なかった「バランス」のような判断と言動が出てくる可能性もあるかもしれない。長期政権可能、との思いから「時間をかける」という姿勢があるかもしれない。

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 不振・不信・不審の政党と国会
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●<自民党> 安保法制国会での議論、内閣・自民党人事の処理から見ると、安倍統治の根幹が揺らぐことはなく、内閣・党内の論争のない追随傾向は続くだろう。もちろん、ハプニング的な出来事があれば別だが。
 現状が続けば、自民党を揺るがしがちな総裁選挙は当分なく、谷垣禎一、石波茂、野田聖子氏らの動きも沈潜化したままだろう。まして、一般の議員たちがものを言い出す気配はない。権力者が、自己主張を通し、反論や批判を封じ込める不健全な手法を許す大政党には、将来的に危険を感じざるを得ない。論議が湧き上がり、それなりの修正、調整機能があればまだいいのだが、「数」を握る大政党が議論を抑圧して猪突するところが怖いのだ。
 次世代、改革、元気、といった小党が助っ人として国会決議、閣議決定を条件に自民党側についたが、こうした小手先の行動をとるレベルの政党の存在は寂しい。なぜ法案修正の要求に徹しなかったのか。

●<公明党> 与党としての公明党だが、立党時の憲法尊重、平和志向の姿勢は薄れ、まさに自民党の「下駄の雪」に甘んじている感が強い。
 創価学会関係者は大声は出さないものの、安保法制推進に首を傾げる空気はあり、その影響はどのように出てくるのだろうか。
 これからの焦点だろうが、消費税10%アップの条件としての軽減税率実施の公約にしても、これが果されない場合、どう説明するのか。安保法制は抽象的でわかりにくく、幹部の言いなりになりがちな学会の女性や若者でも、生活に直結するこの財務省案的実施を身近に感じればNOにならざるを得まい。まさに公党としての欺瞞ともなりかねない。
 自民体制に軽いジャブを打つ程度で、自己主張もせずに追随する姿勢の結果とその影響はどうなるのだろう。事柄の内側を考えずに、宗教的一枚岩体質に依存するだけでいいものかどうか、が問われよう。

●<民主党> 民主党は、こんどの国会でも「憲法」についての姿勢がまだらで、党内の乱れをのぞかせた。もともと党の指針について格差が大きく、党内がまとまれない状況のままなので、野党としての追及は迫力を欠き、勉強不足ものぞかせていた。
 二大政党制をつくる小選挙区制度に甘えて、野党としての責務を果たしていない。再度政権をめざすとするなら、強大ながら問題も多い自民党政治に対して、例えば「リベラル」「護憲」「民意重視」「少数意見尊重」「軍事軽減・外交強化」など、一元化した対立軸を明確にし、組織ある政党として、原理原則をわきまえた政党として、魅力度を高めるべきだろう。

●<維新の党> 分裂寸前。ひと言でいえば、橋下大阪陣営の乱であり、分裂後の両者にとっての焦点は、安倍政権との距離だろう。「憲法」という観点からすると、双方とも改憲方向にある保守勢力だ。「数」の政治からいうと、この分裂はトータルの政治の動きへの影響はそれほど大きなものではなく、赤じゅうたんのうえか、コップの中の嵐くらいではあるまいか。ただ、自民多数支配のもとでの右往左往は足元を崩すことになろう。

●<共産党> 安保問題で意気上がる共産党は、独自の闘いによる狭隘さから脱皮して、政治運動の核になりうるアピールをする組織になりうるのだろうか。厳しく言えば、自己満足政党から、価値観の多様化した社会において広がりを持てる集団になる意欲があるのだろうか。自治体の議会勢力はわずかに伸びる傾向にあることは事実だが、現状の路線にとどまるだけでは、新天地は拓けないだろう。

 国会自体は、各政党の所作で動くので、ベストはあり得ないが、もとはといえば国会議員一人ずつのモラル、信念、克己、少数を恐れず流されない誇りと自覚に頼るしかあるまい。もっとも、そのようなことができるとは、この小選挙区制度のもとで登場してくる議員の質から見て、期待もしてはいないのだが。

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 改憲問題と参院選
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 こんどの「安保法制化」の焦点は憲法問題だった。違憲の法案かどうか。解釈改憲を許せる範疇なのか。立憲主義に反していないか。法的安定性を確保しているか、などなど。
 憲法を改正する前に、まずは集団的自衛権を認めようとする安倍首相としては、憲法問題と正面から向き合う論戦になるとは考えていなかったのではないか。もともと不快な存在である現行憲法だから無視してもいい、との発想があり、しかも選挙で大勝したのだから、改憲前の強行もかまわない、といった思考ではなかったか。
 一方で、若い人を国会や各地の集会に呼び込み、多くの憲法などの学者、最高裁の判断を下してきた裁判官経験者、内閣法制局長経験者、さらに宗教界や演劇関係者など各界に広い発言と問題提起があり、予想以上の現象や高まりを見せた。これを「一部分の声」「一私人の見解」で済ます首相の説明では、国民世論は納得できないだろう。

 こうした動きは、来年夏の参院選にどのような結果をもたらすのだろうか。憲法を尊重する政治で平和を継続する道を進むか、改憲による新たな価値観の社会を形成しようとするか・・・そんな対立が各党間の争点となるのか、あるいはあいまいなままに投票されるのか。
 仮に政党が争点にしなくても、人々は安保法制化の新段階を憲法との関わりで見直し、安倍談話で提起されたような「歴史」の理解を点検し、外交よりも軍事増強を重視することが平和につながるのか、といった視点で考えるような選挙になることもありうる。
 こうした点の報道は世論にとっては重要で、メディアの姿勢が問われるところでもあるだろう。

 というのも、こんどの選挙はどこから見ても、衆院に続いて参院でも与党の3分の2議席を確保して、「改憲」のための国民投票を求める、というステップを踏むかどうか、の結節点であるからだ。結党以来の念願を果たそうとする意気込みの自民党と、平和・護憲の社会の持続と発展をうたってきた勢力との、アピールの激突の場になるに違いない。「自民、公明による3分の2議席確保は難しい」との見方もあるが、大阪維新の動向もあり、それほど楽観はできまい。
 こんどの安保法制化国会がなにかを残したとすれば、「憲法」に対する国民の判断力とその重要さへの認識を高めたことである。ただ、こうした意識の高揚は参院選の1票に投影されるかどうかは、また別の問題だろう。

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 違憲訴訟の行方
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 安保関連の法律がこの国会で成立したので、この法律と政府のこれまでの扱いが違法であるかどうか、その違法性をめぐって、各地の弁護士や活動家が訴訟を起こすだろう。
 砂川判決が突然よみがえり、集団的自衛権の論拠のひとつになって話題を呼んだが、この裁判が最高裁にまでのぼれば、その判断は極めて大きい波紋をもたらす。判決に加わった近江俊郎元最高裁判事が「自衛の措置はとりうる」が、「自衛の為に必要な武力か、自衛施設をもってよい、とまでは云はない」とのコメントを残していたことも判明した。
 最高裁は、判断を回避することもあるだろう。ただその際、最高裁長官を5年間務めた法律家や、歴代複数の内閣法制局長官たち、そして事後にものを言わないはずの裁判官経験者まで立ち上がった。この法律家たちの「違憲」判断の意義は重い。実権を握る政府・行政が、法律の解釈を変更して、議会勢力の「数」を頼りに法律を動かせば、いかようにもなるということが、許されていいものかどうか、この点を避けて通る裁判であってはなるまい。

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 軍事増強と国際情勢
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 安倍首相は、国民の安全と安心のため、日本の平和を守るための法制化であり、いざというときでは遅く、事前に対応しておかなくては、という。そして、国際情勢は緊迫しているとして、中国の軍事体制強化や尖閣周辺の緊張状態、あるいは北朝鮮の核・ミサイル開発などを具体的に上げる。
 だが、「国民の安全と安心」というなら、疑問がある。なぜ、緊張状態を醸す近隣諸国と「外交」的交渉や、双方民間の話し合いの機運を育てないのか。なぜ、双方国民の嫌悪感を高める状態を放置して、外交不在のままにするのか。なぜ、侵略の歴史を認め、率直におわびと反省を示し、危機回避の外交努力をしないのか。なぜ、靖国神社のA級戦犯参拝にこだわるのか。なぜ、違憲という懸念を黙殺して立法化を進めたのか。なぜ、これまでの法律を一つひとつ論議せずに、あれもこれもまとめて国会に提出したのか。議席の「数」さえあれば、なにをやっていいのか。それが立憲主義、民主主義なのか。対等な日米同盟を企図して戦争状態に関わるのではないか。

 今後とくに恐れるのは、法案の抽象的な表現、あるいは首相はじめ政府答弁のあいまいさが、将来政治判断を迫られたきに、拡大解釈を生むのではないか、という懸念である。中谷防衛相にしても「明白な危険」について、あいまいな説明しかできなかった。つまり、権力者が恣意的に存立危機事態であると判断できる余地が怖い。これも、憲法無視の姿勢から出てくる不安である。

 公明党案として盛り込まれた集団的自衛権行使の新3要件には、あいまいなところがあり、多様な解釈を許す一面があって、政府側が強引にこれに当てはめようとする場合、かなりのリスクを抱え込むことになる。チェック機能を持たせたはずの国会にも、米軍の武器類の防護のための出動などは承認不要だ、という。国会の「事前」ではなく、「事後」承認というケースもありうるような規定がある。国会討論でも、政府側の答弁の訂正、修正、変更などが多く、確たる説明もなかった点もあり、米国側の過重な要求にでも拡大解釈によって即応する懸念が大きい。国会によるチェックは、自公の多数与党の今日のような「一枚岩」ならほとんど機能しないこともありうるだろう。

 自衛隊による後方支援では、ロケット弾、戦車砲弾などの弾薬は米軍などに提供が認められており、政府答弁では「核兵器、ミサイル、劣化ウラン弾、クラスター爆弾は提供しない」という。しかし、そのような兵器の提供は「想定しない」というもので、法的な規制はない。
 この状態のままなら、紛争の渦中にある相手国としては、対日攻撃の「正統な理由」として挙げてくるだろう。政府の判断を超えて、戦闘時の後方支援などが反撃を招き、取り返しのつかない現実が起り得ることも想定しておかなければなるまい。
 また、紛争の後方支援などに派遣された自衛隊員が一触即発の事態にたまたま遭遇した場合、とっさに殺す・殺される、のケースも予想されよう。死者を出せば、自国民の戦争拒否感情だけではなく、相手国の対日憎悪感を増すだろう。これが、国民にとっての「平和」なのだろうか。

 GNP比1%以内の防衛費枠は中曽根時代に崩れており、不景気状態が続き、軍需依存の景気対策が取られれば、軍需産業などによる戦争期待のムードに傾きかねない。軍事費の増大は戦争を招き、そのエスカレートがとめどもなくリスクを招くことは、すでに戦前の財政事情と国民心理の動きが示している。
 中国の国防予算の伸びは毎年10%超、日本は2015年度でわずか2.2%といった比較論で軍事強化を進めるので、新年度には戦車に代る機動戦闘車を備え、オスプレイ12機や水陸両用車11両、無人偵察機3機、イージス艦や新鋭の潜水艦各1隻などを買い、あるいは建造することになる。軍備競争である。外交協議のない軍事競争は、一方が増強すれば、相手も同じ対応をして、際限もない。また、平和続きで戦争や紛争にはならず、消耗することがなければ、新型への更新ができず、軍事費期待の軍需企業は困って、政治にプレッシャーをかけるだろう。日本の軍需的企業の動きは静かなようだが、いつブレーキが利かなくなるかわからない。高まる国民の対外嫌悪感、憎悪感のうえに軍事競争が起れば、いずれとめどもない流れになるだろう。

 2016年度に向けての防衛予算の要求は尖閣などの離島防備に重点を置き、安倍首相は普天間基地返還の代わりに、恒久化を思わせる辺野古基地創設を強引に狙うのも、中国危険度の強調、嫌中韓の国民感情の醸成をテコに進めているように思えてならない。しかも外交不在、外交不要の政治、となると、「国民の安全と平和」のアピールが絵空事に思えてくる。
 こうした展望は悲観的に過ぎる面もあるが、しかし、安保法制化の憲法によらず、あいまいなままの議論からすると、懸念がないとは言えない。

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 日米同盟路線か、アジア重視路線か
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 おおまかな選択肢で恐縮だが、安倍的に日米同盟を重視し、敵対国を想定しながら米側の意向に極力沿うように取り組むか、あるいはアジアにおける平和的羅針盤を示しつつ、経済、技術援助などでの長期的な協力関係を築く方向に進むか、の二者を考える。もちろんミックスやバランスも大切だが、とりあえず日本の将来的な大きな路線としては、この両者の選択ではないか。
 アジアに位置する日本。技術はあるが資源の少ない日本。過去の戦争の悲劇を忘れてはならない日本。米中ロのような、いわゆる世界の大国ではない日本。国際的なマナーでは決して悪漢的ではない日本。戦争の賠償に代る、アジア諸国への経済的技術的支援で貢献する日本、であるだろう。そこに、日本という国・民族の個性がある。
 もう一度、こうしたおおまかな原点を見つめるチャンスを、「安保法制」紛争の中から汲み取れないだろうか。
 日米同盟の強化とはいえ、飲み込まれることはない。沖縄ひとつをとっても、本当に辺野古選択しかないのか、政府は沖縄県とともに、米国との真剣な協議をしてこその同盟ではないのか。日米地位協定は極めて不平等な取極めであり、そこまで卑屈な同盟関係でいいのか。
 そのような姿勢が、軍事傾斜と外交軽視、憲法改定機運の日本を生む。

 上で、権力・国家が「大義名分」をつくり、戦争を生み出し、組織し、遂行する。下で、人間・個人が盲従も抵抗も目くらましのもと、戦場・一線に駆り出され、殺し殺される。そのあと、権力・国家が美辞麗句に包んで「靖国」に送り込む。あるいは、戦場での残虐性が記憶から離れず、自殺に追い込まれる。
 「戦争」の論理は、簡単である。「戦争」を上で考えるか、下で感じるか、である。

 戦後70年にして、大きなカーブを切らざるを得なくなった今、このような観点から、来年の参院選の行方と憲法のあり方を考えてみてはどうだろうか。

 (筆者は元朝日新聞政治部長)


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