■書評:

「氷川清話」 勝海舟著   江藤 淳・松浦 玲編

      講談社学術文庫 1000円

                           加藤 宣幸
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  『氷川清話』とは勝海舟が晩年、赤坂氷川の自宅で歯に衣を着せず語った

  時局批判、人物評を1冊の本にまとめたもので、明治以来、幾つかの版元

  から刊行され、広く読まれている有名な本である。とくに吉本襄編『海舟

  先生―氷川清話』(以下吉本版という)は「読みやすくリライト」され、

  読者層を広げたので読んでいない人でも、このタイトルだけを知っている

  人が結構多い。

  なにしろ、幕末から明治にかけての歴史ドラマのなかでドラスチックな役

  回りを演じた勝海舟が自身の数奇な体験を語りつつ、西郷隆盛・横井小楠

  ・佐久間象山・藤田東湖・徳川斉昭・木戸孝允・坂本竜馬などなど幕末・

  維新で活躍した面々から清国の李鴻章・朝鮮の金玉均・フィリッピンのホ

  セ・ラモスなど東アジアの人々にいたるまでの人物論と明治政府にたいす

  る時局批判を歯切れのいい江戸っ子弁で語り・論じるのだから面白くない

  わけはなく、あらためて紹介するまでもない本なのである。

  ならば、なぜ紹介するのか。

  それは先月の「オルタ」11号で河上民雄先生が勝海舟の日清戦争反対論に

  触れられたからである。

  河上先生は、私たちが日本の近現代史を考えるとき、良くも悪くも日露戦

  争で勝利したことがその後、大正・昭和の日本を形つくり最後は1945年の

  敗戦でリセットされるという歴史観、俗に「明治はよくて大正・昭和は駄

  目だった」と理解されている「司馬史観」にたいし、『日清戦争から過ち

  は始まっていたのではないだろうか』と問題を提起された。

  先生は『日清戦争は近代日本が戦った始めての対外戦争であるが、良く知

  られているように日露戦争には非戦論があったが日清戦争には非戦論とい

  うものがなかった。とくに自由民権派は対外強硬論一色で尾崎行雄もそう

  であり、内村鑑三でさえ福沢諭吉の「文明と野蛮の戦争」という論理を使

  って賛成したくらいである。こういう状況の中で勝海舟だけがはっきりと

  反対し、さらにすごいのは戦争に勝ったあとでも「みんな喜んでいるけれ

  どとんでもない、戦争というものは勝ったり負けたりするもので、そのう

  ち日本が逆運にめぐり合うのもそう遠くないよ」と警告しているところで

  す』と指摘されている。

  勝海舟といえば最後の幕臣として西郷隆盛との談判によって江戸城の無血

  明け渡しを実現し、また咸臨丸の日本人艦長として始めて太平洋を横断し

  たことは、日本人なら誰もが知っている史実である。しかし、その勝海舟

  が日清戦争に反対したということは案外知られていない。

  私自身もだいぶ前に「氷川清話」を読んだ記憶があるのに、その印象が残

  っていなかった。

  河上先生の御指摘を受けた時、これは私の問題意識がなく読み流したもの

  と反省したが、ここに紹介する『氷川清話』 勝海舟著 江藤 淳・松浦

   玲編(以下松浦版という)の編者松浦玲氏の「解題」によって隠れてい

  た次の事実が解明された。

  驚くべきことに、明治以来もっとも広く普及していたと思われる「吉本版」

  では勝の「日清戦争反対論」は本文から削除されていたのである。

  「松浦版」の初版は2000年12月だから、それ以前に私が読んだのは当然

  「吉本版」ということになる。「吉本版」のリライト・改竄によって、な

  ぜこの重要談話が削られたのか。

  松浦氏はまず、「講談社版全集(勝海舟全集刊行会)21巻として編集し

  た『氷川清話』を基礎にしながら「吉本版」の勝手な書き換え、真意の歪

  曲などを徹底的に洗い直した」結果、吉本版には吉本が直接海舟から聞い

  た話はごく僅かしか含まれていなくて、大部分は明治20年代から30年代に

  かけての新聞や雑誌に個別に発表された海舟談話を寄せ集めて分類・編集

  し文面を自己流にリライトしたものであることを明らかにした。

  そして、リライトによって漢語調や文章体の談話を読みやすくした意欲を

  認めつつも、第一に吉本の力不足による読み間違いや悪意の無い書き換え

  、第二には意図的な計算ずくのつくりかえがあったことを指摘している。

  「日清戦争反対論」の削除は第二の種類の改竄すなわち意図的なつくりか

  えにあたるという。松浦氏はこれについて「海舟の痛烈な時局批判、明治

  政府批判はあらかた削りとられ、首相や閣僚を名指しで攻撃している談話

  が、まるで世間一般を訓戒しているような抽象的道徳論にすりかえられる。

  大臣の名前を差し替えて、別の内閣について論じているようにみせかけた

  ものもある。海舟の意見が、吉本のつごうで、吉本の思想や吉本の人物ス

  ケールに合せてつくりかえられてしまっているのだ。そうして思うように

  書き変えられない性質の談話は初めから収録を見合せている。日清戦争の

  最中に戦争に反対した談話がそうである。」と明確に論証されている。

  (詳しくは松浦版の解題に譲る)

  海舟という人物や思想を知る上では勿論、日本の近現代史の研究にとって

  も大きな影響をもつ発言を収録しなかった編者吉本襄氏の改竄は到底納得

  できない。

  なお、削除された「日清戦争論と中国観」には『日清戦争におれは大反対

  だったよ。なぜかって、兄弟喧嘩だもの犬も食わないじゃないか。たとえ

  日本が勝ってもドーなる。

  日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。

  一体支那五億の民衆は日本にとっては最大の顧客さ。また支那は昔時から

  日本の師ではないか。それで東洋のことは東洋だけでやるに限るよ。

  おれなどは維新前から日清韓三国合従の策を主唱して支那・朝鮮の海軍は

  日本で引き受くる計画をしたものさ』と談じているのは今日の情勢から見

  ても示唆の大きい発言である。

  北東アジアの連帯と平和の確立が模索されている今、現代日本人が先哲勝

  海舟に学ぶべきものは実に多い。是非、松浦版(講談社・2000年12月初刷

  ・2004年12月14刷) の一読を広く薦めたい。

                             加藤宣幸