【オルタ150号に寄せて】

『オルタ』主宰、加藤宣幸さんとの奇縁

初岡 昌一郎


 オルタ150号を記念する機会を利用して、これを主宰する加藤さんについて、いささか個人的な回想を記すことをご寛恕ください。『オルタ』は加藤さんの分身であり、不可分と考えているからです。

 私にとっての『オルタ』は、主宰者である加藤宣幸さんとの出会いを抜きにはない。初めてお会いしたのは1956年ごろ、私が学生の時だった。もう60年前になる。『オルタ』で沖縄問題と選挙分析など今も健筆をふるっている、郷里の同じ岡山県出身の仲井富さんを通じてだった。
 当時、仲井さんは左派社会党本部青年部長、青年部先輩の加藤さんは党本部組織部副部長(当時の部長は議員で非専従職)であった。お二人とも江田三郎の最側近で、時代に立遅れつつある社会党の革新を目指して闘っていた。

 私は1959年に大学卒業したが、就職活動すらせずに社会主義青年同盟結成準備に専念していた。のちに構造改革論の口火を切り、江田派結成の理論的な拠点となる「現代社会主義研究会」を、この時期に加藤さんたちが立ち上げており、当初からその下働きをしていた私は、非常勤事務局員として若干の手当てを貰っていた。食うや食わずの活動をしていたのを加藤さんが見かねて、心配してくれたのである。そのころの私は、マルクス主義的な構造改革論というよりも、西欧型社会民主主義に傾斜しつつあった。

 1960年の社青同結成後に本部専従となったが、構革派として集中攻撃を受けることになり、役員は3年で辞任に追い込まれた。1年ばかりのベオグラードとフィレンツェ滞在を経て、私は労働組合(全逓)に入り、国際担当として仕事をすることになった。これは東京オリンピックの年であった。
 このころ、社会党の党内闘争に江田派が敗北したことから、その中心的なメンバーだった加藤さんは党本部を離れ、「新時代社」事務所を水道橋に構えていた。全逓本部も水道橋にあったので、新時代社にはよく出入りするようになり、加藤さんとの関係が復活した。ソ連の東欧支配を批判的に検証した歴史書『東欧の革命』(セトン・ワトソン)の翻訳を出版してくれたのが、この新時代社であった。

 1970年代初から私は国際労働組合組織で専従することになり、多忙を極めるようになった。海外での仕事が非常に多くなったので、加藤さんだけではなく、昔の仲間とは次第に疎遠になっていった。1989年から新設の姫路独協大学に専任教員として赴任、国際労働組合活動との二足の草鞋生活を60歳まで継続した後は、大学生活中心の比較的に穏やかな第二の人生に入った。2006年春、70歳の大学定年を迎えるに際し、その昔、私の大学卒業式に父兄代わりに出席してくれた加藤さんを姫路にお招きした。これが親しい関係を再開し、退職後に『オルタ』を時々手伝う契機となった。

 その時、最初の出会いからすでに50年がたっていた。それからさらに10年。一世代も先輩の加藤さんが昔と変わらぬ立ち位置で、未来を目指す政治の再興に依然として限りない情熱を燃やしているのは大きな刺激となった。加藤さんの限りない好奇心と歳を感じさせないフットワークにはいつも驚かされ、そして励まされるばかりだ。『オルタ』を通じて多くの先輩・旧友や新しい仲間との意見交換や交流の機会に恵まれたことに対し、加藤さんにあらためて感謝する。

 (筆者は姫路獨協大学名誉教授・オルタ編集委員)


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