【コラム】大原雄の『流儀』

『忠臣蔵』の“完全通し”上演で見えてくるもの(1)

大原 雄


◆ 国立劇場の50年

 国立劇場は、今年で開場50年を迎えた。1966年11月開場。この年の10月、当代の名優・中村吉右衛門が二代目を襲名した。1966年の日本では、飛行機の墜落事故が多い年だった。私は大学生だったが、歌舞伎を観るような趣味趣向はなかった。当時の学園生活は全学ストなど不安定な時代に突入していた。国立劇場周辺では地下鉄の半蔵門駅も永田町駅も開業しておらず、「不便なところにできた」という印象だった。50周年の国立劇場は、9月の人形浄瑠璃公演「一谷嫰軍記」から記念上演開始。歌舞伎の公演は、10月から12月までの「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」の3ヶ月完全通し上演を展開中である。

 知っている人が多いと思うが、「仮名手本忠臣蔵」とは、歌舞伎・人形浄瑠璃の三大演目「菅原伝授手習鑑」(1746年初演)、「義経千本桜」(1747年初演)、「仮名手本忠臣蔵」(1748年初演)の一つ。原作は、いずれも当時流行(はや)りの合作方式で書かれたが、実質的に軸になった立作者は、並木宗輔であった。1746年、47年、48年と3年続けて、いずれもヒット上演。この3年間は四百年以上の歌舞伎の歴史の中に、さん然と輝く。「仮名手本忠臣蔵」(以下、原則的に「忠臣蔵」という表記にする)は、時代ものの代表作の一つ。

 赤穂事件後、数多(あまた)の「赤穂事件もの」が上演され、それらを集大成するような形で、事件から半世紀後に「仮名手本忠臣蔵」は、作られた。事件から47年後の演目だから、世紀の大ヒット作の3番手として「四十七士もの」が提案された、と伝えられている。「47」に拘っている。「忠臣蔵」という外題(タイトル、「名題」ともいう)は、この時初めて使用された。以来、この演目は歌舞伎の「独参湯(どくじんとう)」と言われ、不入り続きの時にも上演すれば、客足は戻って来ると信じられて来た。

 その伝説は、今も生きていて、国立劇場開場50周年を記念して上演される歌舞伎の第一弾として、10月から12月まで、3ヶ月間「忠臣蔵」が三部制で上演される。それも、国立劇場が喧伝する「完全通し」という珍しい上演形態を採用した。「完全通し」というと、初演時、あるいはそれに近い同時代的な上演形態の「仮名手本忠臣蔵」のようなイメージがあるかもしれないが、それとは違う。そもそも、あまり馴染みがない「完全通し」上演とは何か、徐々に説明したい。

◆ 「赤穂事件」と「忠臣蔵」

 「仮名手本忠臣蔵」は、全十一段で構成される「時代もの」(武家社会をテーマにした芝居)の演目である。史実の「赤穂諸事件」(1701年、赤穂藩主・浅野内匠頭の江戸城松の廊下での高家吉良上野介への刃傷事件から、浅野家の浪士たちが主君の敵討ちにと吉良家の江戸屋敷に討ち入りし本懐を遂げ、さらに1703年、浪士たちが切腹をして果てた事件までをいうが、以下は、「赤穂事件」と表記する)を元にしながら、徳川幕府の御政道批判(赤穂藩主・浅野内匠頭の処分は、五代将軍・綱吉の裁定による)という誹(そし)りを避けるために、時空を変えて、室町時代の足利幕府(京都)での出来事とし、日本の歴史文学の古典『太平記』の世界として再構築している。従って、物語の「世界」をアナザーワールドに仮託し、登場人物を借りただけの芝居。劇中で対立する塩冶判官(えんやはんがん)家と高師直(こうのもろのう)家は、赤穂事件のエピソードを巧みに取り入れながらも、ここでは架空の話、フィクションとなっている。

 ただし、「赤穂事件」と問われて、それ、何?という世代も増えたかも知れない。でもそういう人たちでも「忠臣蔵」なら、一応は知っているのではないだろうか。あるいは、ノンフィクションドラマの「仮名手本忠臣蔵」に由来するタイトルに過ぎない「忠臣蔵」を冠して「忠臣蔵“事件”」とでも、思い込んでいる可能性もある。それほど、「忠臣蔵」は、日本人の肌に染み付いているかも知れないのだ。

 例えば、若い頃は小説も書いていた日本文学・日本思想史の研究者で評論家の野口武彦は、「忠臣蔵」について幾つかの著作を出している。1994年に「忠臣蔵———赤穂事件史実の肉声」を出した。ちくま新書で、私も読んだことがある。この書では、野口武彦は赤穂事件の象徴的な記号として「忠臣蔵」を使っている。野口武彦は、江戸期を軸にした文芸批評や研究書を刊行しながら、継続的に赤穂事件に関心を持ち続けた。野口武彦が書いた忠臣蔵ものの著作で、最近のものでは、『花の忠臣蔵』(2015年刊)という著書がある。赤穂事件を記述しているが、歌舞伎・人形浄瑠璃の忠臣蔵を論じたものではないのに、本のタイトルは「花の赤穂事件」ではなく、「花の“忠臣蔵”」である。

 さらに、記述に当たっても、「赤穂事件」と「忠臣蔵事件」という用語が混在している(例えば、39、42ページほかなど)。赤穂事件は、すでに述べたように、1701年から1703年までの諸事件である。五代将軍・徳川綱吉の生涯は、1646年から1709年、このうち、将軍在位は、1680年から1709年であり、赤穂事件は、まるまる綱吉在位の間の出来事である。しかし、「仮名手本忠臣蔵」は、すでに述べたように、1748年初演である。綱吉没後、39年も経っている。

 「綱吉は一所懸命に将軍政治をおこなった。忠臣蔵事件をいかに収束するかもそうだった」(野口武彦「花の忠臣蔵」39ページ)という記述はおかしい。綱吉在位の時に「仮名手本忠臣蔵」という芝居は、まだ生まれていないし、すでに述べたように、「忠臣蔵」というフィクションの物語のタイトルと「事件」という史実のタームを繋げて、「忠臣蔵事件」というのは、余計なことだが、やはりおかしいだろう。「赤穂事件」より「忠臣蔵」という方が、人口に膾炙していて、その方が、本の売れ行きも良いのだろうと、著者も編集者も考えたのかもしれない、と推測される。こういう発想で赤穂事件を「忠臣蔵」と同一視する向きは少なくないかもしれない。まあ、そういう人も多いかも知れないと思い、ここでは許容することとしようか。

 実際に「仮名手本忠臣蔵」では、赤穂事件は出てこない。塩冶判官と高師直の対立物語として、展開される。ふたりとも『太平記』の登場人物だ。塩冶の「塩」という字を選んだ背景には、赤穂の名産の「塩」という字への作者のこだわりもあるかも知れないし、高師直の「高」という字と高家吉良上野介の「高」という字にアナロジーを覚えたかも知れない。「高家(こうけ)」とは、江戸幕府の役職名で、徳川幕府の儀式や典礼(特に、朝廷と幕府間の諸礼)を司る役割を果たす。高家職に就けるのは、高家の家格を持つ旗本、「高家旗本」のみであったので、プライドが高かった。「仮名手本忠臣蔵」で、『太平記』の世界が色濃い場面は、「大序」の部分だろう。ほかは、芝居の展開とともに、赤穂事件の方が透けて見えてくることになる。

 日本の歴史文学では最長の作品『太平記』とは、南北朝時代を舞台に後醍醐天皇の即位から鎌倉幕府の滅亡、後醍醐天皇の崩御、室町幕府の内部の混乱、二代将軍・足利義詮の死去、細川頼之の管領就任までを描く軍記物語。南朝方の視点で描く。1370年頃成立か、といわれるが、成立時期、作者不詳が定説。複数の作者がいたか。足利幕府も関与しているのではないか、と言われている。

 「仮名手本忠臣蔵」全十一段という芝居は長いので、一日掛かりでも上演しきれないことから、よく上演される段とほとんど上演されない段が、区別されてきた。長編の演目の歌舞伎の上演は、通常、「みどり」(「選り取り見取り」という意味)興行というハイライトの「見せ場」という場面だけを切り取って上演する形式(一幕もの)と、幾つかの「段」や「幕」(普通は、歌舞伎では「段目」・「段」という名称より、「幕目」・「場」という名称を使うが、「仮名手本忠臣蔵」は、人形浄瑠璃が先行上演された「丸本(まるほん)もの」と呼ばれる演目なので、人形浄瑠璃の「段目」という名称を使う慣習がある)を繋げて上演する「通し」興行という形式がある。長尺の演目では、興行形態によって、「みどり」「半通し」「通し」などと分類される。今回は、3ヶ月公演ということで、「仮名手本忠臣蔵」を3つに分けて、毎月1部ずつ上演される。従来ほとんど上演されない「段目」も、今回は上演されるので、国立劇場は「完全通し」という名称を使っている。

◆ “完全通し”上演とは?

 今回の国立劇場で「完全通し」と宣伝されている「全十一段」上演とは、以下の通り。

 大 序:兜改め。(大序とは、序幕のこと、世紀の当り狂言ゆえに、「仮名手 本忠臣蔵」の場合のみ、特別に「大序」という)
 二段目:力弥使者・梅と桜、松切り。
 三段目:進物場・文使い(門前)、喧嘩場(刃傷)、裏門。
 四段目:花献上、判官切腹(せっぷく)、城明渡し。ここまでが第一部(10月)。
 浄瑠璃:道行旅路の花聟。
 五段目:鉄砲渡し、二つ玉。
 六段目:勘平腹切(はらきり)。大名を含め武士は、「切腹(せっぷく)」、浪人になった勘平は、「腹切(はらきり)」。
 七段目:祇園一力(茶屋場)。ここまでが第二部(11月)。
 八段目:道行旅路の嫁入。今回は、二つの道行(所作事)を上演。
 九段目:山科閑居。
 十段目:天川屋。
 十一段目:討入、広間、奥庭泉水、本懐焼香、引揚(実録風)。第三部閉幕(12月)。

 こうしてみると、私たちが、ふだん観る「仮名手本忠臣蔵」は、いわば、「剪定された」忠臣蔵であることが判る。「剪定」とは何か。これも徐々に説明をしたい。

◆ 「剪定された」忠臣蔵とは?

 「仮名手本忠臣蔵」に限った話ではないが、歌舞伎・人形浄瑠璃の上演では、興行主側の出し物(演目)の都合による、上演時間に伴う段組のバリエーションというのがある。

 例えば、歌舞伎座の昼の部、夜の部という2部構成で上演する、いわゆる「昼夜通し」の場合。二段目を省き、さらに三段目の「裏門」の代わりに後年、浄瑠璃:「道行旅路の花聟」を昼の部のトリとして上演するようになったなど。例えば、昼の部は、以下のような構成が考えられる。

大 序:兜改め。三段目:進物場(門前)、喧嘩場(刃傷)。四段目:判官切腹、城明渡し。浄瑠璃:道行旅路の花聟。

 あるいは、今回のように浄瑠璃:「道行旅路の花聟」から始まり七段目まで、いわゆる「おかる勘平物語」として、ひと括(くく)りするもの。

 「通し」での「道行」は、八段目の浄瑠璃:「道行旅路の嫁入」が本来のもの。繰り返すが、「道行旅路の花聟」は、本来、三段目「裏門」の場面のヴァリエーションである。

 先ほどの昼の部案に続いて、例えば、夜の部は、以下のような構成もあるだろう。
五段目:鉄砲渡し、二つ玉。六段目:勘平腹切。七段目:祇園一力(茶屋場)。十一段目:討入。

 この場合、昼の部の最後を飾る所作事の浄瑠璃:道行旅路の花聟と、夜の部の最初に演じられる五段目が、いずれも夜の場面だということが観客に印象付けられない弱みがある。今回の国立劇場では、全十一段を三部制にしたことで、第二部(11月)は、浄瑠璃:道行旅路の花聟と五段目が幕間の休憩を挟みながらではあるが、続けて上演された。実は2つとも夜の物語であるが、道行は、背景に富士山、満開の桜、菜の花畑が見える、という春爛漫の明るい舞台である。ただし勘平の科白に「昼は人目をはばかる身の上」とあるように、ふたりは夜間の逃避行中なのである。道行は明るい夢のようなシュールな夜という演出。五段目は、雷も鳴る大嵐の闇夜。大太鼓の音こそおどろおどろしいが、背景は、黒幕。暗い、手探りの闇の夜というリアリズムの演出。同じような夜の舞台なのに演出が違う。今回は続けて上演するので、その対比が面白い。でも、気づかない観客が多いだろう。

 このほか、「半通し」というバージョンで、例えば、五段目:鉄砲渡し、二つ玉。六段目:勘平腹切。という構成(「勘平物語」)もある。

 あるいは、また、八段目:道行旅路の嫁入。九段目:山科閑居という構成(「小浪・戸無瀬物語」)もある。それぞれ、一塊(ひとかたまり)として独立して上演されることもある。要するに、役者の顔揃い、上演時間次第で、融通無碍なのである。

◆ 東は鎌倉から、西は京都・堺まで

 各場面(段目)の舞台も融通無碍である。では、舞台はどこか。地理的な位置関係も知っておくと理解が早い。

 大序から四段目までは、鎌倉の各館。鎌倉は、事実上の江戸を想定している。
 将軍足利家の館=鎌倉の足利館(殿中とは、この足利館のこと)、師直、判官などの家臣たちの館(鎌倉在住。それぞれの館がある)、由良之助(塩冶家の国家老。国許=出雲(現在の米子市など)の責任者。史実の赤穂の物語という意識があるので、国許=赤穂と勘違いしやすい。つまり、「仮名手本忠臣蔵」は、赤穂藩とは関係ない。ただし、出雲も芝居では、ぼかされている)。

 浄瑠璃:道行旅路の花聟は、東海道から京都へ。
 五段目、六段目は、京都の山崎(お軽の実家など)。
 七段目は、京都の祇園。
 八段目は、東海道から京都の山科へ。
 九段目は、京都の山科(由良之助らが閑居している。モデルになった大石内蔵助も赤穂退去後江戸に出るまで、実際に山科に4ヶ月間隠棲していた)。
 十段目は、堺(天川屋)。
 十一段目は、鎌倉の高師直館。

これが「赤穂事件」の芝居なら、東は江戸から、西は播州赤穂まで、ということになるだろう。

 何回か「忠臣蔵」の舞台は観てきたが、今回の「完全通し」上演で新たに見えてくるものがある。従来の「忠臣蔵」とは違う光景。それは、何か。それを論じるためには、新たな紙幅を用意する必要がある。
 (続く)

 (ジャーナリスト/元NHK社会部記者。日本ペンクラブ理事、オルタ編集委員)


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