【北から南から】中国・深セン便り

『SARSの時のこと(3)— 板藍根 —』

佐藤 美和子


 前回、SARS流行初期に白酢に予防効果ありというデマが流れたときのことを書きましたが、SARSに関するデマはお酢だけではありませんでした。

 次に買占め騒動に発展したのは、『板藍根(バンランゲン)』という漢方薬です。

 板藍根とは、中国では非常にポピュラーかつ比較的安価な漢方薬で、顆粒状で売られているものが一般的です。解熱・解毒に鎮痛、発熱による喉の炎症、熱性の肺や胃の不調などさまざまな症状に効くとされ、風邪の初期症状が現れると、中国人はすぐに大きなマグカップにお湯で溶いた板藍根を服用します。

 話が少々脱線しますが、この顆粒状板藍根には蔗糖が加えられているため、いつまでも舌に残る甘ったるさと、後から口中にこみ上げてくるいかにも漢方薬的な苦味が特徴的です。私はこの甘いのに苦いというどっちつかずな味が苦手なのですが、私と同じアラフォー世代の中国人の友人にとっては、子供の頃に親に内緒でこっそり飲んだこともある思い出の味だそうで、いまでも大好物(!)だといいます。というのも、彼女が子供時代を過ごした70年代の中国は、首都北京でさえ甘いオヤツはそう頻繁に口にできるものではなかったのです。甘みに飢えていた当時の子供たちにとって、熱を出すと親が飲ませてくれるこの薬が楽しみで、この薬飲みたさに親に仮病を使った経験アリの人はけっこういるんじゃないかな〜と、友人は笑っていました。その友人自身も、熱を出した妹に与えられた板藍根、親に隠れて少し飲ませてもらったりしていたそうです(笑)。

 その後、この薬があまりにポピュラー化しすぎて、今日は天候が悪くて冷えるからとか、虚弱体質だからなどといって、風邪を引いてもいない子供に予防目的で日常的に服用させる親が増えた時期がありました。作用が比較的穏やかな漢方とはいえ、とうぜん副作用もゼロではなく、盲目的な板藍根の服用はアレルギー症状などを引き起こすことがあります。今では副作用のことも知られるようになり、むやみに服用させる親はもういないでしょうが、子供が飲みたがるほどの甘い飲み口といい、いかにこの漢方薬が中国で普及しているかがうかがい知れます。

 さてそんな漢方薬が、SARSに効く・予防効果があるという噂が、白酢騒ぎに続いて駆け巡りました。もちろん白酢のときと同じく、瞬く間に広東中の薬局から板藍根が消え失せました。

 この時は、件の目端の利く東莞人社長、買占めに走らなかったそうです。二匹目のどじょうはアリエナイ、とわかっていたんでしょうね、つくづく頭のいい人です。効果があろうがなかろうが、薬なんて買い占めたことが人に知れたら極悪人認定されそうですし、二番煎じは前回の白酢プレゼントの効果をも薄れさせかねませんものね。

 一方その頃、上海出身のとある心配性の友人は、板藍根の入手に躍起になっておりました。彼の勤務地である広州市はおろか、広東省全域で再入荷の予定はなくしばらく手に入らないと知るや否や、彼はすぐに上海の実家に電話をかけました。その時点では、上海にはまだこの広東省の新しい病気の詳細が伝わりきっておらず、耳にしていた上海の人たちがいても、どうせ千数百キロも遠く離れた南方での出来事だしと、どこか他人事だったのでしょう。上海では板藍根の買占めなんて起こっていないし、今も普通に売られているよという家族に頼み、たくさん買い込んできてもらったそうです。

 ところが、せっかく家族に買ってもらった板藍根、郵便小包で送れないことが分かったのです。医薬品は小包で送れない規定が元々あるのだったか、それとも大量だからダメだったのか、もしくは買占め騒動が全国規模に広まるのを恐れた政府が板藍根の郵送を臨時的に禁じたのだったか? 当時、郵送できない理由も教えて貰ったはずなのですが、どうしても思い出せません。すみません……。

 いずれにせよ郵便小包がダメなら、他の方法を考えるしかありません。広州⇔上海間は一日のフライト数も多いので、飛行機で週末にでも彼本人が実家へ取りに行くことも可能ですが、心配性の彼にとって、感染病流行期の大移動はリスクが大きすぎます。

 結局彼が選んだ手段は、中国国内線のパイロットをしているという、彼の弟の高校時代の同級生に運んできてもらう、というものでした。弟の友人のパイロット氏に連絡してみると、2日後にちょうど上海発広州便のフライト予定が入っているとのことだったので、急いで家族に電話し、上海で購入した大量の板藍根をパイロット氏宅へ渡しにいってもらいました。パイロットやキャビンアテンダントの場合、手荷物検査などがフリーのため、特に検査で引っかかりやすいものを運んで貰うのは好都合なのだそうです。

 日本人的感覚では、たとえ相手が自分自身の無二の親友であっても、相手を煩わせるような頼み事はあまりしませんが、中国では家族の友人という遠い関係でも、わりと簡単に頼んでしまいます。彼にこの話を聞いたときは、彼が弟の同級生にそんな面倒なことを頼んだということや、しかも頼まれた相手もあっさり引き受けてくれたということにも驚いたし、また弟の同級生なんていう他人の連絡先がなぜそんなすぐに知れてしまうんだろう?ということにも驚きました。

 長い中国暮らしのなかで、私もいろんなお願い事をされています。
 姉の親友が日本行きのビザを取りたがっているから、あなたのお父さんに招聘状を書いてくれるよう頼んで欲しい、ビザ発行には招聘人の所得証明も必要なので、あなたのお父さんの所得証明書も一緒にEMSで送ってくれ、と友人に頼まれたことがあります。その頃の私はまだ学生で、所得がなかったので招聘人にはなれず、ならばあなたのお父さんに頼みたい、と言われたときはビックリしました。

 子供が海外留学予定だという友人から、50万元を一日だけ貸してくれと頼まれたこともあります。留学ビザ取得には、親(スポンサー)の銀行口座の残高証明が必要で、親族からかき集めただけでは求められている最低金額に足りなかったから、とのことでした。留学途中で授業料や生活費を払えなくなって不法滞在に至ってしまう人や、労働目的で偽装留学してくる中国人学生をふるい落とすため、留学ビザ取得条件に残高証明を求めてくる国がいくつもあるのだそうです。

 求められている最低金額をクリアした残高証明さえ発行できれば、すぐにでもお金は返すからというこの手の依頼、頼まれる金額の違いはあれど、これまでに数人の人から頼まれています。もちろん、私にはそんな大金の持ち合わせはないのでお断りしますが、断ったからといって、友人関係が悪くなったりはしていません。中国人的には、身内の友人や友人の身内に何かを頼むことはタブー視されていないし、逆にもし自分が頼まれることがあったら、できる範囲で手伝えばいい、とりあえずダメ元でもツテを探して片っ端から頼んでみよう、という程度の感覚なのです。反対に、人に迷惑をかけまいと考えるあまり、他人に頼み事をしたがらない日本人を、中国人は人間関係が疎遠で冷たいと感じるそうです。単純に、文化の違いですね。

 家族や友人を煩わすことになりそうな頼み事をしてきた相手が、大事な友人だった場合、私は断るにも理由を正直に言うことにしています。私自身が何とかできる範囲ならば構わないけれど、私の家族はあなたと友人関係ではないので、私の家族にまで手伝いを頼むことはできない。これは日本人の文化だと思って欲しい、と。私の友人たちは、なるほど日本人的にはこれはNGだったのかぁと、あっさり理解・納得してくれています。

 さて、随分話がそれてしまいましたが、実は板藍根騒動は、SARSのときだけに納まってはいません。その後も鳥インフル、豚インフル、新型インフル、エボラ出血熱、直近では広州市のデング熱と何か新しい疾病が流行るたびに、必ず板藍根に予防効果アリとのデマが出回るのです。薬局でも、そのたびに一番目立つ大きな棚に板藍根を移し、予防効果を謳ったポスターや販促ポップアップを付けるのです。あまりに毎度のことなので、呆れて板藍根のことを「万能神薬」などと皮肉った呼び方をする人がいる反面、それでもやはり、デマに踊らされて買い込んでしまう市民もいるのです。

 板藍根予防効果のデマが出回るたび、私は北京留学時代の授業で習った、魯迅の『薬』という短編小説を思い出しています。人間の血を吸わせた饅頭(マントウ。味付けしていない中国の蒸しパン)を食べれば、結核が治るという迷信を信じた老夫婦の悲しい物語です。一粒種である跡継ぎ息子の結核を治すため、老夫婦はこつこつ蓄えてきた財産と引き換えに、公開処刑されたばかりの青年革命家の血を吸ったマントウを、処刑役人から手に入れます。人の血で赤く染まったマントウを恐ろしく思う一方で、これで一人息子の病が治るなどと無駄な希望を抱く貧しい老夫婦、金銭欲と自己顕示欲の塊のような処刑下っ端役人、大仰に経緯を吹聴する処刑下っ端役人や血饅頭を首尾よく手に入れられた老夫婦におべんちゃらをいって、迷信に迎合する周囲の人々……魯迅があれほど嘆いた当時の無知蒙昧な人々と、なんだか現代もあまり変わっていないような気がしてしまうのです。デマを流し、板藍根や白酢を高値で売りさばこうとする人は、さながら『薬』で血饅頭と引き換えに大金を手に入れる処刑役人のよう。そういう私も、SARSのときはつい雰囲気に流されて、必要もない日本製すし酢を買い、迷信を信じる人に迎合するその他大勢を演じてしまいました。
(次号も続きます)

 (筆者は中国・深セン在住・日本語教師)


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