【アメリカ報告】

アメリカの裁くサウスカロライナの銃撃ドラマ

武田 尚子


 2015年6月17日、非常に多くの教会を持つことでホーリータウンとして知られる、サウスカロライナのチャールストンタウン市での銃撃事件は、オルタ138号で紹介したアメリカ警察の黒人に対する偏見射撃にも増して、アメリカ人の心を震撼させたように見える。

 黒人教会のバイブルクラスは日曜の礼拝に比較される聖なる時間である。それは彼らが、キリストの教えの真髄を求めようとする人々のコミュニティを通して、日々の暮らしの困難に慰藉を与えられ、一人の人間としての尊厳をフルに回復して、新しい活力をよびさます貴重な時間であるという。

 ドアのノックに答えた会衆の一人は、聖書講義を聞きたいという、まだ10代とも見える青年に快くドアを開いた。サウスカロライナ最古の黒人教会であるこのエマニュエルAME教会のバイブルクラスに、白人の訪問者を迎えることはめったになかった。青年は空席に腰を下ろし、その講義に耳を傾けるようにみえた。

 1時間ばかり静かに座って講義を聞いていた訪問者は、突然立ち上がるとピストルを取り出し、会衆に向けてめちゃくちゃな射撃を始めた。倒れる者、悲鳴をあげる者の続出する混乱のさなか、青年は逃げ出して身を隠す。彼がその傍に座っていた、ここエマニュエルAME教会の主任牧師クレメンタ・ピンクニーをふくむ9名が死亡した。異常な出来事であった。

 13歳で説教者、18歳で牧師になったピンクニー師は、彼が入場するだけで「未来がやってきたと感じる」と評されるほど、会衆に慕われていた。また彼がやはり勤めていたサウスカロライナの州議会議員の間では46名の議員のなかで最高の人という定評もあった。
 ニュースは瞬く間に全米に伝わり、Mother Emanuel の愛称でも知られたこの教会が、なぜこれほどの仕打ちを受けねばならないかが全米のあらゆる職業や階層の人たちに議論されはじめた。かえりみれば154年前、南北戦争の第一弾は、この街で発せられているのである。

 襲撃の容疑者(以下襲撃者)は、翌日結婚式を予定されていた彼の姉の通報で、ディラン・ルーフという21歳の青年と特定され、逮捕された。
 逮捕後初めて彼が襲撃者として被害者家族の前にヴィデオを通して姿を現わしたとき、思いがけないことが起った。家族の一人エセル・ランスは、母を失った悲しみの中から、絞り出すような声で言った。「あなたは私の本当に大事な人を奪ってしまった。私はもう、彼女と話すことも、二度と彼女をこの腕に抱くこともできなくなりました、、、、、それでも、私はあなたを許します、、、」涙にむせびながらの言葉であった。

 この言葉が、人々の間に呼び覚ました感動を伝えることは筆者にはとてもできない。しかしキリストの教えを生きようとするその人の心は、静かなさざ波のように、多くの人々の胸に染み通って行った。

 襲撃者の逮捕とともに、様々な事実が明るみに出た。ディラン・ルーフは9年生を二つの学校で過ごしているが、結局高校を卒業できないまま、庭師の仕事などのアルバイトをしながら、浪人のような暮らしをしていた。彼の着ていたジャケットの胸には、南北戦争の南部連邦の戦闘旗と、アフリカのジンバブエの独立以前の、人種差別の激しかったローデシアの国旗のラベルが2枚、縫い付けられていた。

 彼に近い友人の話によると、この5年間に彼は非常に変ってきた。近年はことに、黒人差別をあらわにした発言が多くなり、人種的無差別や平等などではなく、黒白の分離こそがアメリカの取るべき道だと、なにかというと論じたてるようになった。「黒人は頭脳が悪く、暴力的だ」と言いもし、書きもしているのが事実なので、今回のエマニュエル教会の襲撃が、黒人憎悪から出たのはいうまでもないと見えた。

 彼の犯罪が“hate crime”という個人的な憎悪犯罪であるのか、あるいはグループを背後にしたテロリズムという政治的な犯罪であるのかが、アメリカのメディアで大きな問題になった。彼は州法でなく、連邦の司法制度で裁かれることになったが、イデオロギーの影響を受けてはいても、背後で糸を引いた政治集団はみあたらず、これは現段階(7月初旬)ではヘイトクライムとみられている。ヘイトクライムは、政治的テロリズムよりも厳しい罰を受けるというが、彼はいずれにせよ9人を殺しているのだからどちらに転んだとしても、刑罰にあまり差異はないだろうとも言われている。

 ディラン・ルーフが襲撃に使ったピストルは、父親が350ドル、母親も同額を出して、彼の21歳の誕生祝いに買ってやった、45口径のハンドガンである。21歳にして高校も卒えず、なんら将来の方針もなさそうな息子にガンを手渡す危険を、両親はまったく想像できなかったとしか思えない。またガンの販売には個人の背景をチェックする必要がある。彼は麻薬の所有で逮捕歴があり、普通ならガンなぞ買えない客だった。しかしそれが背後チェックの手違いか複雑さのために曖昧になり、彼は通常のチェック期間の3日がすぎるとガンを入手していた。ディランの叔父は、この事件が明るみに出たとき、激昂して「もし許されれば、私自身が死刑執行人になる」とワシントン・ポスト紙に電話している。この叔父もまた、いつも自分にとじこもってばかりいる内気なディランの暴挙を、夢想もしなかったのであろう。

 この大事件に揺さぶられたサウスカロライナでは、またもや思いがけない事件が起った。この州の庁舎の庭に掲げられた南北戦争の南部連邦の軍旗を降ろすべきだという声が上ったのである。17日の銃撃事件から5日後、6月22日のことであり、わずか1週間前にはそんなことがここで政治的に可能であるとは思われもしなかったという。しかし、州知事の2期目を務める共和党のニッキ・ヘイリーは、多くの南部人の崇敬の的であった南部連邦旗ではあるが、ことに、チャールストンの虐殺事件後には、残酷で不愉快な過去を象徴するものだから、この機会に降ろすべきだと力説した。

 6月22日、ヘイリー知事は、午後のニュース会見にあたって、共和党のリンゼイ・グレハムや黒人上院議員を含む民主党の立法者たちに囲まれて語った。「今週の出来事は、この旗について我々がこれまでとは異なった見方をすることを要求しています」。インド系アメリカ人である彼女は、少数民族の、また女性の州知事としてはこの州に初めての存在である。「今日我々は、(この悲劇のために)南部連邦旗をどうするかはまことに厄介な問題であり、これまでの知事としてわれらの州の統一という決定的な瞬間を経験しています。なんら悪意を持つことなく、州会議事堂の庭からこの旗を降ろすべき時がきました」。

 この5年間に彼女は触れたことがなかった。しかし彼女の新しい立場は、エマニュエル教会の銃撃が、アメリカの高位の政治家たちに与えた衝撃の大きさをまざまざと物語るものであった。同日、22日には、オバマ大統領が26日にサウスカロライナにきて、エマニュエル教会の射殺された主任牧師であり州の上院議員でもあったクレメンタ・ピックニー氏に弔辞を捧げる知らせが届いた。
 銃撃の与えた政治的な衝撃はミシシッピにも及び、共和党の州議会議長は、22日夜には、「南部連邦旗を含むミシシッピの州旗は今や怒りの発火点になった。とり降ろすべきだ」と語ったのである。

 ヘイリー知事とのニュース・インタビュウをきくと、彼女の立場の急速な転換が読み取れる。銃撃者の険しい表情を写真で見たときの怖れ、教会の会衆との会話、サウスカロライナのビジネスリーダーたちからの、過去の遺物である旗を降ろせというアドバイス、彼女自身の属する共和党からの呼びかけ、その中には大統領選挙の大物候補者もいて、この際、一気に旗を降ろしてしまえという勧告もあった。

 選挙を前にした候補者たちの政治的な顧慮から、一個人としての被害者の悲しみへの同情や共感に至るまで、あらゆる思考や感情の渦巻く中で、彼女は南部の伝統的な価値観〜信仰、家族、忠誠心などを、連邦旗をとり降ろして生み出そうとする、州民の調和と統一、悲劇の痛みからの治癒と甦りの期待に結びつけたのである。それは政治的人種的なドラマであり、ヘイリー知事の人柄を浮き彫りにした、彼女の正念場であった。
 彼女は言った。「サウスカロライナ人の中には、南部連邦旗を差別主義の象徴としてではなく、先祖への崇敬と考えている人たちがいます。しかし、あの旗は、我々の過去の完全な一部分ではあっても、この偉大な州の未来を表現してはいません、、、」

 銃撃事件の実行者であるディラン・ルーフは、南部連邦旗(南部軍旗)を持った自画像を(ソーシャルメディアに)提供している。銃撃後、市中の、あるいはソーシャルメディアのプロテスターたちは、この旗はこれを最後に除去されるべきだと要求した。実は1962年に黒人市民権の拡張が問題になったとき、この旗はとり降ろされたことがあったのだが、再び揚げられていたのである。
 弔問者が何千という花を捧げた教会の外側の大きなサインには書かれていた。「ヘイリーさんよ、あの旗を破り捨ててくれ!」

 こうした感情は黒人と、大多数のリベラルなサウスカロライナ人のものだった。しかしヘイリー知事の言った通り、南部の白人投票者にはこの旗を彼らの祖先が南北戦争で捧げた犠牲のシンボルだと考える人たちが多数いて、これは人種偏見とは別物だと主張する。旗への尊敬や誇りや親愛感、それは長年にわたり、彼らの子供時代から培われた感情であり、根が深い。その裏面にあった黒人への偏見も、比例して根が深いのである。

 南部白人は全体として共和党に投票する。そして彼らの多くは、自分は差別主義などではないと言いながらも、これまでは、この旗の顕著な存在感を低下させようとする政治家を追い落とす助けをしてきたのである。

 サウスカロライナ州の州都コロンビアの州議会議事堂における南部連邦旗とり降ろしの討議は、州と南部と家族の歴史のミックスで、時間とともに熱狂的になった。共和党の州議会議員クリストファー・コーリーはこの討議を、わが州の取り上げる、もっとも感情的な問題と呼んだ。議会での雄弁や個人的な思い出のもちだされた長時間の討論で、議員たちは多くのサウスカロライナ白人が長らく抱いてきた南部連邦旗への尊敬と親愛感が、そのまま、6月17日のエマニュエル教会での虐殺事件に苦しむ黒人教会員への侮辱にひとしいという相克に直面して、容易でない議論を進めたのであった。

 「私はあの旗を抱いて育ったが、それというのも、祖先たちが、あの旗を持って戦闘にのぞんだという話を聞かされていたからです。」と言ったのはこの州でも保守的な、9200人の人口を持つ町の出身であるマイケル・ピット議員だった。彼は南部軍旗とり降ろしの議案を潰すか、その方向転換をさせるかに心を決めていて、大小いくつもの改定案を出していた。この討論では何度となく発言して、ときには自分や妻の補聴器の冗談やら、祖父の人種偏見のなさ、あるいは1861年の南北戦争のとき、貧しい南部人はそれが州の権利に関するものか奴隷に関するものかさえ知らず、何でも屋(General Store)で聞いた、北部が南部に戦争を仕掛けているという話が、この戦争に関する知識のすべてだったということなどを面白おかしく、ときには20分に及ぶ熱弁で披露した。

 またヨーク郡の共和党員ギャリー・シュミリルは「若干の活動家は、これを旗を超えた問題にしようとしている。つまり南部の歴史から何一つ、痕跡さえも残すなというわけだ。これじゃまるで、文化的な大量虐殺ではないか。」と息巻いた。あの旗を降ろすという議論ではいつも改定案を出すことで反対してきた人物である。
 実質的には、共和党の改定議案はかなり穏健なものであり、南軍旗を、9つの州が遵守する南部連邦の記念日に、1年に1日だけ全国墓地に掲げることを許す。また、全米の公園サービスのガイドラインに則って、南軍旗を記念品として売ることを許容するというものだった。

 76歳のウエルドン・ハモンドは1960年代の被差別運動に携わったサウスカロライナの黒人だ。「あの旗は侮辱だけじゃない、肉体的な苦痛ですよ。とりわけ彼らが、あの旗が伝来の遺産だなどというのは」ハモンド氏はそれからこう付け加えた。「あの旗は確かに私の生涯の間じゅう、我々が遺産どころか、決して受け継が無いことを求めてきたものですからね」。妻とともに彼は、庁舎ギャラリーのフロント席で、彼にとっては遅すぎる変化の来るときを待っているのだった。
 「連邦政府の土地には、南部軍旗を展示する場所はどこにもない。」といったのはジョージアの民主党員で、市民権運動のリーダーとして、1965年にはアラバマのセルマで、棍棒を持ったポリスたちに危うくぶち殺されそうになったジョン・ルイスであった。ポリスの中には南部連邦旗—つまり南軍旗の絵をヘルメットに描いたものもいた。「この旗は分裂と憎悪のシンボルとして、暗い過去を象徴しています」少数派の心情を代表して、ルイスは言った。

 ジョージアの共和党員リン・ウエストモーランドはいった。「誰かのお墓に私が旗を立てるとすれば、人種偏見などの問題とは全く関係なく、ひたすら先祖記念の意味からするのです。すでに起こってしまったことに言い訳はできません。だけど市民戦争の時、南部軍側は実際、奴隷のことなど考えてもいなかったと思うのです。あの戦争で死んだ人たちは奴隷なぞ所有していなかったのですよ。彼らはただ、自分たちの州のために戦っていたのです」。

 夜半をすぎてなお討議の継続の決まった後で、チャールストン郡のデヴィド・マック議員がいった。「そうだ、クー・クラックス・クランがやってくるときには旗が揚がるぞ。」7月18日にはクランの集会があるのだ。『サウスカロライナ サウスカロライナ、South Carolina よ、自分たちはこれよりはましだと思っていたのに。我々はまたもや同じ誤りを繰り返そうとしているとは』

 多数の共和党員が、旗の運命について、サウスカロライナ人は2016年の総選挙のとき一般投票で決定するという改定案を出したが、通らなかった。
 民主党員は少数派であり、この日の話しあいには低姿勢で臨み、旗を降ろすことを主張する者も少なかった。しかし投票の結果は多数の共和党員が、次々に改定案に反対して議案を通さなかったことを示していた。なぜなら議案の改定には日数がかるのに州の上院との新しい交渉が必要であり、その結果が、今の成り行きでは、共和党の評判に好結果をもたらさないだろうという思いは確かに彼らの頭にあったのだろう。

 ピッケンズ郡の共和党白人であるギャリー・G・クラリーは議員たちに「世界が俺たちを見守っていますよ」といい「旗はとり降ろされるべきだ、経済発展と仕事の増加と、我々がここでしたいと思っているすべてを実行するために」と続けた。クラリー議員はまた、同僚の議員たちに、昔の教会の歌を思い出させた。『赤色黄色、黒と白、我らすべては誰もかも 大事な立派な人間だ。イエスは世界のありとある 小さな子供を愛される』

 冷房の効いたギャラリーの内部では、保険代理業のトニー・アンダーソンが、興味を持って討議を聞いていた。その胸には彼が南部連邦の老兵の子孫であることをあらわすピンが光っていた。彼は言った。「そもそも州庁舎に南軍旗が掲げられなかったら、こんなことは問題にもならなかったはずです。しかし考えてみてください。それを取り降ろすことが、この期に及んで南部連邦の先祖への大きな侮辱と思われていることを」「私には自州のために働いた先祖が1ダースもいます。今日一旦緩急あらば、自分の州と家族を守るために立場を決めて働かないものがいるだろうか?」。

 感情の波は24日午後8時には頂点に達した。チャールストン地域の共和党州議員、そして弁護士のジェニー・アンダーソン・ホーンが、改定案は通らない可能性がある、改定したりしないで、旗降ろしの議案をパスさせてくれと、涙ながらに訴えたのである。
 「チャールストンの人たちには速やかな、即刻の旗降ろしをしていただく値打ちがあります」声を震わせて彼女は言った。「私にはこの州議会の皆さんが、憎悪の象徴である旗を取り除くという、大きな意味のあることをするハートを持っていられないとは信じられません。」彼女はチャールストンの州議会で同僚議員だったエマニュエル教会の故クレメンタ・ピンクニー師が、教会襲撃で殺されたことを語った。ピンクニー氏は州会の議員の多くに、47名の議員中最高の人、最善の人とみなされていたという。「旗を揚げ続けることは、彼の妻にも、彼の二人の愛娘にも痛みをいや増しさせるでしょう」。そして締めくくった。「あの旗がみなさんのご家族の遺産であることについては十分ご意見をお聞きしました」「実は私はジェファーソン・デイヴィスの子孫なのです。いいですか。でもそれはこの際問題になりません」と。

 旗降ろしに反対する共和党員はほとんど皆が、先祖への尊敬から、降ろすことに賛成できないといってきたのだから、彼女の言葉は強烈にひびいた。ジェファーソン・デイヴィスは、アメリカの戦ったメキシコ戦争の英雄であり、のちにはミシシッピの上院議員、南北戦争の間は、南部連邦の大統領であったのだ。そしてこれが、多くの代表者を説得して、翌日の重要な決定につながる糸を引くことになったのである。

 さて共和党員の州知事ニッキ・ヘイリーが旗のとり降ろしを最初に要求したのは6月22日だった。差別論議のたけなわだった1960年代からずっと、旗はそのグラウンドにかかげられていたのである。そしてこの日、7月9日「南部連邦旗は、サウスカロライナの州庁舎のグラウンドから取り去られます」議員たちとツーリストとポリスで埋まったロビーで法令にサインしたヘイリー知事はいった。「今日はサウスカロライナにとって、素晴らしい日だ、偉大な日だと申し上げられることを、私は非常に誇りに思います」。

 またそこには、旗の引き降ろしのきっかけになった、チャールストン銃撃の9人の被害者の遺族も出席していた。家族はヘイリー知事が議案に署名したペンを1本ずつ受け取ることになっている。この優美な19世紀の州庁舎の庭で、へんぽんとひるがえる南部連邦旗は7月10日・金曜日の午前10時に降されることに決まった。

 「私は権力のある人々がこれを黙って見ているように、あるいは大多数の人たちが見ているように、私自身がこの旗を見るようになれるだろうとは思ってもいなかった。ということは、この旗は人々を結びつけたのではなくて、分裂させたからだ」と漏らしたのは黒人の民主党員、マックナイ氏であった。
 そしてうまれたての法令の約束通り、旗は2015年7月10日、万感を胸に秘めた観衆の前で、願わくばこれを最後に、引き降ろされたのであった。

 一つの大きなドラマは終わった。一観客として筆者は、このドラマを超党派の立場で裁いたニッキ・ヘイリー知事にも、最後の解決の端緒をつけた共和党員ジェニー・アンダーソン・ホーン氏にも、心から喝采を送りたい。たまたま両人が女性であり、自らの信念を通す勇気と粘り強さで、何世代も解決できなかった困難な問題に立ち向かって成功に導いた事実にも、未来のアメリカに、明るいものを感じる。

 オバマ大統領が、銃撃後の国民的な反省の雰囲気の中で語った言葉が思い出される。「神は不思議な方法で、我々を正しい方向に導こうとされる」。
 キリスト者でない筆者には、それをそのまま首肯する信仰はないが、サウスカロライナの州議会で、実に多くの共和党員が、旗の取り下げに賛成した情景の一端は、ごく普通のアメリカ人の正直な心を表しているに違いないと思える。それは今後の政治に生きつづけてほしい貴重な人間的資源であり、政治の場でありながら、私欲や党利党略を超えての清々しさを感じさせた。

 まだまだ宿題は多々ある。サウスカロライナの旗が降りたと思ったら、こんどはノースカロライナの、少数派に対する実に不公平な選挙投票制限の事実が明るみに出た。これを解決するために、マザー・エマニュエル教会の悲劇がふたたび必要であるとはぜったいに思いたくない。ポリスの、少数民族に対する想像を超えた暴力が不可欠ともけっして考えたくない(オルタ138号参照)。では私は何をすれば良いのか。移住アメリカ人である私にいったい何ができるのだろう?

 筆者自身もこうして大きな宿題を与えられたことを意識しながら、本稿をここで閉じさせていただく。

 (筆者はニュージャージー州在住・翻訳家)


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