宗教・民族から見た同時代世界              荒木 重雄

アルジェリア人質事件に見えた歴史のトラウマ

────────────────────────────────────

 1月にアルジェリアで起こった天然ガス施設人質事件では、事件発生から僅か2
日目にして軍が急襲し、日本人10名を含む多数の外国人犠牲者を出しながらイス
ラム武装グループの壊滅を優先した、人命軽視の強硬策が衝撃的であった。
 併せて、情報相が、外国からの協力申し入れについて「わが国はフランスの植
民地支配から独立を勝ち取った主権国家であり、外国の部隊が一歩たりとも足を
踏み込むことはあり得ない」と述べたこともまた衝撃的であった。

 すなわちこの事件とその処理には、アルジェリアの国家形成過程での誇りでも
ありトラウマでもあるナショナリズムとイスラムの複雑な関係が重苦しく影を落
としているのである。

 なにごともアルカイダと関連づければ事足れりとするような近視眼的なメディ
アによる表面的な報道が一段落したところで、改めてこの事件の背後にあるもの
を歴史に遡って見詰めたい。

============================================================
◆ 抵抗運動の軸はイスラム
============================================================

 オスマン朝の宗主権の下にあったアルジェリアを、そこから輸入した小麦の未
払い債務が膨らんだフランスが武力で占領・支配したのは19世紀初めであった。
これに対して最初に抵抗を展開したのは、イスラムの旗を掲げたカーディリー教
団やラフマーニー教団の地方豪族たちで、一時はフランス軍を脅かしたが、つい
には敗北し、降伏したり戦死したりの末路を遂げる。

 この間にフランスはアルジェリアをフランス領の一部と宣言。現地社会の伝統
的な経済、文化、政治機構を徹底的に破壊したうえ、フランス風の行政制度が導
入され、コロン(フランス人植民者)が優遇される一方、現地住民は原住民身分
法などで幾重もの差別や抑圧、不公正に置かれた。とりわけ農村の疲弊は著しく、
土地を失った大量の農民が貧民化して都市に流入した。

 このような人々を力づけたのもまたイスラムであった。フランス風の教育を受
けた一部の原住民エリートがヨーロッパ人との権利平等を求めて請願運動に走る
なか、第一次大戦後に設立された「アルジェリア・ウラマー協会」は、「イスラ
ムはわが宗教、アルジェリアはわが祖国、アラビア語はわが言語」と、フランス
文化とは異なるアルジェリア人のアイデンティティを高らかに謳い上げ、各地に
私立学校を建立して青少年の覚醒に努めた。

 一方、この頃には、独立を主張して急進的な政治運動を展開する「北アフリカ
の星」も創設された。この組織は非合法化されて、地下政党や、武装蜂起を準備
する組織に変転し、当局や穏健派と葛藤を繰り返すが、その民族主義的なイデオ
ロギーの柱も一つはイスラム防衛であった。

 こうして、ムスリム議員連盟の権利向上運動、ウラマー協会のイスラム復興運
動、「北アフリカの星」にはじまる独立運動と連なる長いナショナリズム運動の
歩みの中で育まれた若者たちが、1954年11月、ついに武器を取ったのである。

============================================================
◆ 犠牲者100万人の独立戦争
============================================================

 はじめ、ほとんど無名の青年活動家たちに率いられた「民族解放戦線(FLN)
」がゲリラ闘争を開始すると、フランス政府は武力で制圧をはかり、ここに「ア
ルジェリア戦争」がはじまる。
 モロッコとチュニジアには独立を認めたフランスだが、アルジェリアは、本国
の一部として多数の植民者が定住していたことに加え、折から天然ガスと石油が
発見されたことから、放棄は思いも及ばぬことであった。

 拷問や無差別殺戮も厭わぬフランス軍の攻撃と、植民者極右の軍事組織による
テロで、FLNは苦しい戦いを強いられるが、広範なアルジェリア民衆の支持と
アラブ連盟諸国の支援、国連はじめ国際社会の懸念と、ついにはフランス国内の
世論の支持も得て、62年7月、国民投票をもって独立を勝ち取ることとなった。
 男性戦闘員のみならず女性や子どもも参加した7年半にわたる戦いの、100万人
もの犠牲者の血で贖われた独立であった。

============================================================
◆ 挫折したイスラム国家への道
============================================================

 こうして成った独立ではあったが、権力闘争を繰り返し権威主義化したFLN
独裁政権は、社会主義政策を採る一方で腐敗に沈んだ。国家経済は破綻に瀕し、
エリート層(フランス語話者)と大衆・貧困層(アラビア語話者)の溝も深まっ
た。
 貧窮化した都市青年の不満は、ついに88年10月、軍・警察との衝突で500人以
上の死者と4000人以上の逮捕者を出す暴動に発展するが、ここに至って、政権も
複数政党制を導入。90年に行われた初の地方選挙ではイスラム政党「イスラム救
済戦線(FIS)」が圧勝する。
 
 FISが制した市町村では予算が貧者や失業者に重点配分されたのみでなく、
FIS議員や党員の公正で秩序ある誠実な活動が、権力のホグラ(大衆に対する
傲慢・不正・権利侵害)とチーパ(賄賂)に辟易していた国民には輝かしい未来
と映った。

 翌年末の国政選挙でもFISの圧勝が確実と見えたとき、突如、軍がクーデタ
ーを起こし、選挙を中断。FISは非合法化され、政権は軍=FLN(独立戦争
戦士)に復した。

 指導者を逮捕され四散したFISメンバーはやがて、数多くの小武装集団をつ
くってテロを開始した。これに体制側の民兵組織や軍・警察も絡んで、90年代を
通じて20万人ともいわれる犠牲者を出す社会の混乱が続いた。

 1月のアルジェリア人質事件を起こしたのは、このようにして疎外され社会を
追われたグループの一つである。そして、冒頭に記した軍=政府の異様ともいえ
る強硬姿勢や政府高官の頑なな発言も、このようなアルジェリアが経た歴史のト
ラウマを背景に置いたとき、はじめて理解されるものであろう。

       (筆者は社会環境学会会長・元桜美林大学教授)

==============================================================================
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップ>バックナンバー執筆者一覧