【コラム】宗教・民族から見た同時代世界

インド・ナーランダ遺跡に未来を見据える国際大学

荒木 重雄


 かつて釈尊が活躍したマガダ国の首都ラージャグリハ(王舎城)はいま、ラージギルとよばれる小さな田舎町である。その近郊に、ナーランダという、古代から中世にかけて栄えた広大な大学と僧院の複合施設の遺跡がある。
 仏教に関心をもつ人なら誰もが知るこの仏教遺跡の近くに、いま、「21世紀のアジア・ルネッサンス」を謳う壮大な計画の国際大学院大学、ナーランダ大学の建設が進んでいる。
 「アジアの学術・文化の中心として、アジアの各地域を結び、アジアと世界を結ぶセンター」を展望するこの国際大学は、この地に建てられてこそふさわしいとされる。その背景を、釈尊の時代にまで遡ってひもといてみよう。

◆◆ 古代・中世の文化の中心、ナーランダ

 釈尊が活動した前5世紀頃のインドは、16の大国が割拠していたといわれるが、その中でもガンジス河中流域を占めるマガダ国とコーサラ国が経済と文化の中心であった。マガダ国の首都ラージャグリハ(王舎城)、コーサラ国の首都シュラーヴァスティー(舎衛城)は商業や手工業で賑わい、のちに「六師外道」とよばれるさまざまな思想家や文化人が自由に議論を戦わせ闊歩していた。釈尊の活動もそのような場においてであった。
 マガダ国の王ビンビサーラ(頻婆娑羅)もコーサラ国の王プラセーナジット(波斯匿)も釈尊に帰依し、釈尊の教団のために、王舎城には竹林精舎、舎衛城には祇園精舎が設けられた。

 釈尊は45年に亙る布教活動の間、コーサラ国・舎衛城の祇園精舎には6回、マガダ国・王舎城の竹林精舎には22回、雨期の滞在をしたと伝えられるが、その回数はともかく、王舎城には、東に釈尊が法華経を説いたとされる霊鷲山が、西には釈尊入滅後、弟子たちが第1回の結集を開いたといわれる七葉窟があって、仏教とのゆかりでは王舎城の方に軍配が上がる。
 ナーランダはその王舎城に隣接する、当時の開かれた都市文明の息吹きと、仏教が極めた知的・思想的高みに深く馴染んだ土地柄である。

 この地では、釈尊がマンゴーの樹の下で説法をしたとか、ナーガルジュナ(龍樹)が講義をしたとかの伝承もあるが、現在に遺跡が残る古代ナーランダ大学の創建がはじまったのは、5世紀(427年?)、グプタ朝のクマーラグプタ一世によってとされる。この創設は、エジプトのアル・アズハル大学(970年)や欧州のボローニャ大学(1088年)、パリ大学(1150年)などよりはるかに早く、世界最古の大学と誇りにされる。

 9階建ての校舎を中心に6つの寺院と7つの僧院で構成されていたと伝えられるキャンパスでは、2千人に及ぶ教師が、仏教学に加え、哲学、法学、言語学、歴史学、建築学、彫刻術、天文学、数学、薬学などを教え、1万人を超える学生が、インド各地のみならず中央アジアや東南アジアからも集まっていたと伝えられている。中国からは、7世紀前半には玄奘が、同世紀末には義浄が、ここを訪れて学んだことが知られている。

 唯識派のダルマパーラ(護法)やシーラバドラ(戒賢)、チベット仏教を興したシャーンタラクシタ(寂護)など著名な学僧を輩出し、8世紀以降は密教の中心道場として教学を主導したが、1193年頃、侵入したイスラム勢力によって破壊された。同様に総合大学の機能をもったヴィクラマシーラ僧院の破壊とともに、その消滅は、以後、知的探求の拠点が東から西へ移転した象徴的な出来事とされている。

◆◆ 未来をめざす国際大学でナーランダを復興

 アジアの人々を共通の文化で結びつけた学問の府の現代的復興は、2006年、当時のインド大統領アブドゥル・カラーム[注]の提案ではじまり、翌年、フィリピンのセブで開催された第2回東アジア首脳会議(EAS)に諮られて賛同を得た。
 この経緯に示されるように、新生ナーランダ大学の構想は、インド政府とビハール州政府が主導しながらも、アジア・大洋州16カ国の協力のもとに進められる一大国際プロジェクトである。同年、早速、ナーランダ賢人会議(NMG)が組織され、具体化が進められた。議長は1998年のノーベル経済学賞を受けたアマルティア・セン。ジョージ・ヨー・シンガポール外相(当時)など多国籍の学者・政治家が委員となり、日本からは京都市立芸術大名誉教授・中西進が加わった。2010年、ナーランダ大学法という特別法のもとに、「知的・哲学的・歴史的・精神的領域の探求を行なう国際的機関」として正式に建設がスタートした。

 特徴の一つは、「人と協調し、自然と協調し、自然の一部として生きる」をモットーに掲げ、キャンパスの建設に当たっても、池を掘る過程で出た土で煉瓦を焼き、それをもって建物を造るとか、空調は気化熱を利用するなど、省エネ・省資源、環境への配慮を徹底していることである。

 研究・教育の領域では、歴史学や哲学・宗教学、生態学・環境研究、国際関係学・平和研究などに重点を置く。先端技術の産業化など大学の実学重視、企業化・商業化が顕著な昨今の趨勢の中で、人間や世界のありようを根底から追究する人文科学重視は同大学の大きな特徴であり、卓見である。さらに、情報通信技術を活用した遠隔教育がもてはやされる風潮に抗して「寄宿制大学」を志向する点も、教育の原点を見据える勝れた見識というべきであろう。

 今後4年間を見込む第1期工事として、450エーカーの敷地に数千人の学生が学ぶキャンパスが建設される予定だが、すでに仮校舎で約60人の学生が学んでいる。
 だが、懸念も尽きない。まず、資金問題。第1期工事完了以降も、長い年月をかけて徐々に全体を完成させていく壮大な計画だが、諸外国からの資金援助があるとはいえ、必要な財源を確保しつづけられるのか。建設地のビハール州はインドでも最も貧しい州である。大学施設は造られても、周りの社会基盤整備が著しく遅れた地域に、勝れた学者・研究者や学生を国際的に集められるのか。などの問題である。加えて仏教の立ち位置がある。

 ナーランダ大学は非国家・非営利とともに非宗教を標榜する国際学術機関だが、ナーランダに立地する以上、仏教の伝統のイメージが付随することは免れない。そこで問われるのがインドにおける仏教の位置づけである。インドで仏教は、宗教的には、ヒンドゥーの一支流として容認されるが、社会的には、カースト最底辺のいわゆる「不可触民」が信仰する宗教、とりわけ、ヒンドゥーがもつカースト差別に反抗してヒンドゥーから離脱した少数者の宗教として、仏教徒は、他の宗教的マイノリティーであるイスラム教徒やキリスト教徒とともに、多数派ヒンドゥー教徒からは、えてして蔑視と抑圧、ときには敵意と暴力の対象となっている。インド社会に潜在的なこの状況をいかに超えるかも課題であろう。

 日印関係が経済と安全保障に偏りがちな昨今であるが、それだけに、アジアの平和と連帯の象徴としてのナーランダ大学の行方を、我が国の関わりを含め、見守っていきたいものである。

[注]インドでは、実権をもつ首相職はじめ政治権力は北インドの有力ヒンドゥー・カーストにほぼ独占されているが、名誉職的な大統領には、南インドのドラヴィダ系など民族的少数派、イスラム教徒、シク教徒、被差別カースト、女性など、社会的弱者層からの出身者が多い。社会的公正へのエクスキューズであろう。ナーランダ大学を提案したアブドゥル・カラーム元大統領は南インド出身のイスラム教徒で、核物理学者。

 (筆者は元桜美林大学教授・オルタ編集委員)


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