【アメリカの話題】

ジェンダーの平等を目指して(7)

武田 尚子

 先ず、フェミニズムの定義をしておこう。フェミニズムとは、女性の、政治的、経済的、文化的、社会的に平等な権利を確立し、擁護する事を目的とする運動とイデオロギーの集成をよぶ。これには女性の教育と雇用の機会の均等の権利をも含む。フェミニストとは、女性の権利の平等を支持し擁護する人の呼称である。

 ボーボワールを読み解きながら、少なくとも西側の諸国の多くでは、可成りの成果を上げた女権運動—フェミニズムをみてきた。モダンフェミニズムとは、大体19世紀後半から、次第に力を増してきた第1、第2、第3の波のうねりを中心とした女権拡大の運動をよぶ。しかし、実はそれ以前にも、フェミニズムの前哨戦というべき女性たちの懸命な動きが有り、また第3波の後には、より広範な人間全体の問題として捉えられるようになったジェンダー問題との重なりが有る。

 本稿では、先号までのべてきた様々ないきさつが、はっきりとフェミニズムという強力な運動として開花するための、上述の前哨戦を初期のフェミニズムとして、より平等な社会の実現に向かおうとするこの時期の多様な努力が、歴史の流れを動かしてきたことを考察したい。

 フェミニズムという言葉はフランスとオランダで1872年に最初にあらわれ、1890年にイギリスで、アメリカでは1910年に登場した。

■初期のフェミニズム

 フランスの作家クリスチーヌ・ド・ピザン(1364−1430)は、‘女嫌い(*)’を非難し、両性の関係について書いた最初の文人であるとボーボワールは述べた。そのほかの初期のフェミニスト作家には16世紀に著作をしたアグリッパ、17世紀、英国のハンナ・ウーリー・フォルツ、英語で著述した公爵夫人マーガレット・キャヴェンデイシュ他があげられる。
(*)misogyny- 女嫌いは、女性蔑視、低級人間の意味にも使われる。

■18世紀 開明の時代

 ジェレミー・ベンサムはリベラルの典型的な哲学者。女性を法律上劣位におく事実が、11歳のとき彼に改革者のキャリアーを選ばせたゆえんであるという。彼は両性間の完全な平等を要求し、それには選挙権と政府参加も含めていた。男女間のモラル基準の差異に反対した。その著『道徳律と法律 序論』では多くの国が女性の頭脳の劣位を理由に、女性の権利を否定するのが当然になっている事を非難した。

 メアリ・ウオルストンクラフトは、その著『女性の権利の擁護』によってもっとも話題にされた作家である。これは歴然としたフェミニストの書であり、女性の教育としつけが、男性の眼によって培われる自己イメージに限界を与える事を指摘して、この本は女権思想の基礎となった。

 ウオルストンクラフトは、“ジェンダーの不平等に寄与しているのは男女両性である。社会的な態度の変化を起こすためには両性ともに必要な教育を受ける事だ”と説く。教育をさして受けなかった彼女の出自からみれば、達成した業績自体が彼女の決意のなみなみでない事を語っている。

 サミュエル・ジョンソンは彼女を“ペンを持ったアマゾン”と揶揄した。彼は女性が著述という男のなすべき領域に侵入してくる事をこぼしたが、彼女らの知性や教育には触れなかった。ウオルストンクラフトは多くの批評家に、開明期の女性として最初の、平等主張のフェミニズムを成文化させることになった。

 ウオルストンクラフトは『女性の権利の擁護』の男性版というべき『男性権利のための弁明』という小冊子を書いた。また、未完の小説『マリア、または女性の過失』で女性の性的欲望について論じたため、かなりの批判を浴びた。彼女が若くて死ぬと、哲学者の夫、ウイリアム・ゴドウインは、いち早く彼女の追想記を書いたが、彼の志しに反して、これは何世代にもわたって彼女の評判を台無しにした。2度目の恋愛から一児を得たが、未婚の母であった事が世間に知れた事へのきびしい非難があったというから、勇気有る有能な女性への残念なはなむけではあった。

■他の重要な著述家たち;

 1790年にメアリ・マコーレイは、女性の明らかな弱さは、誤った教育にあると論じた。「女性のための最初の科学教会」は、1785年から1881年まで南オランダで続き、1887年に解散した。この期間に、女性科学者のためのジャーナルがポピュラーになった。

■19世紀 女らしさの理想

 19世紀のフェミニストは、ヴィクトリア朝のイメージであり、広く受け入れられている女性の“しかるべき”役割とその限界を含む有毒害な社会的不公正に反発した。この女らしさの理想は、『ビートン夫人の家事管理読本』とか、サラ・スチックニー・エリスの本に代表されている。コヴェントリー・パトモアのベストセラー『家の中の天使』とその類書はヴィクトリア朝風の女らしさの理想を端的に示している。

■小説の中のフェミニズム

 19世紀始めの女性の窮屈な生活をジェイン・オースチンが綴っていた頃、シャーロット・ブロンテ、アン・ブロンテ、ジョージ・エリオットは女性のみじめさや挫折感を筆にした。一方、アメリカ人ジャーナリスト、ファニー・ファーンは、夫の不時の死に見舞われ、新聞のコラムニストとして子供を育てる苦労を描いた。ルイザ・メイ・オルコットは、重婚者であった夫を逃れ、独立する女性を主題に強烈なフェミニスト小説『A LONG FATAL LOVE CHASE』(1866)を書いた。

 男性作家も、女性に対する不正を認めていた。ジョージ・メレデイスや、トマス・ハーデイの小説、イブセンの戯曲は、同時代の女性の状況を浮き彫りにした。ある批評家は後に、イブセンの戯曲(人形の家?)をフェミニズムの広告だといった。

■マリオン・リードとキャロライン・ノートン

 19世紀の始め、フェミニストの声は社会的な変化を起こさせるには至らなかった。政治的社会的な秩序に変化はなく、これという女性運動の認められた様子もない。しかしこの世紀の終わり頃になると、マリオン・リード(後にはスチュアート・ミルも)が“女らしさ”と言及した、堅苦しい社会的なモデルと行動のおきての出現に平行して、女権運動への人々の関心が集まり始めた。女性の美徳をいやましに強調する事は、部分的には女権運動に刺激を与えたが、この女性観の二重性は女性に緊張を与え、多数の19世紀初期のフェミニストを懐疑と憂慮で苦しめ、逆の意見に向かわせる事にもなった。

 スコットランドでは、リードは1843年に『夫人たちへの懇請』をあらわしたが、それは大西洋を越えての、女性の投票権を含む女権の協議事項を提案するもので、影響力が大きかった。キャロライン・ノートンは英国法の変更を擁護した。彼女は女が虐待される結婚をしたとき、女性には法的な権利がないことを発見したためだった。彼女のヴィクトリア女王への訴えは公衆に伝わり、それに関連した活動は、既婚女性と子供の後見問題に適用すべく、英国法が改められたのである。

■フローレンス・ナイチンゲールとフランシス・パワー・コブ

 ノートンをふくむ多数の女性は組織運動には手を出したがらなかったが、彼女らの言動は往々にしてこうした運動を発足させた。
 ナイチンゲールはその一人であり、彼女は“女性には男性の持つ全ての可能性があるが、それを実現する機会は皆無だ”と確信し、かの世評に高い看護婦としてのキャリアに入った。その頃、彼女の女性らしさの美点は、彼女の想像力以上に強調されて評価されたが、それは1800年代の、女性の業績を認めたがらない、偏見からきていた。

 イデオロギーが異なっていると、フェミニストは必ずしも互いの努力を支持しなかった。ハリエット・マーチノーはウオルストンクラフトの貢献を危険だとし、ノートンの腹蔵のなさを嘆いた。しかしアメリカで目撃した奴隷制廃止のキャンペーンは、女性運動にも適用されるべきだとした。彼女の著した『アメリカの社会』は重要であり、女性たちの想像力を捉えて、アメリカ人の大義にならえと発奮させた。

 他には投票権の取得を支持し、保守のリーダー、ベンジャミン・デイズラエリに、ジェレミー・ベンサム同様の急進的フェミニストとみられたアンナ・ドイル・ウィーラーが居る。彼女は、初期のフェミニスト支持者で社会主義者であり女性に対する完全な平等権問題を英語で最初に書いたウイリアム・トムプソンに、女権思想についてのインスピレーションを与えている。彼の本は『人類の半ばの訴え』と題された。

 19世紀のフェミニストたちは、女性が教育から除外されているのは彼女らが家事に縛り付けられ、社会的な増進を否定されている原因だと考えた。しかも19世紀の女性教育は改善していない。提唱者の一人、フランシス・パワー・コブは、教育改革を要求した。それは結婚と財産の権利、家庭内暴力問題とともに注目を浴びた。

■ラングハム・プレイスの婦人たち(English Women' Journal)

 バーバラ・スミスとその友人たちは、1850年代、定期的に集って、改革を実行するための話し合いをした。その中にはベシーレイナー・パーキンズ、アンナ・ジェイムソンもいた。
 彼女らは、教育、雇用、結婚法に焦点を当てた。そしてその案の一つは1855年に、既婚女性の財産委員会となって結実した。スミスはまた。1848年アメリカでのセネカフォールズの大会にも出席した。

 スミスはまたパークスと図って、教育と雇用機会について多くの論説を書いた。
 1854年に『女性に関する英国法律の簡単な要約』と題して、法律的な不正の枠組を明らかにした。掲載したこのジャーナルへの反響のおかげで、彼女の意見は多数の女性に届くことができた。
 彼女らは女性の雇用促進協会を創った。スミスの既婚女性の財産委員会は26,000人の署名を集めた。

 エミリー・デイヴィーズもラングハムのグループを知ったが、独自に、エリザベス・ギャレットと、ロンドンの外にSPEWの支部を創った。
 ハリエット・テイラーは1851年にはその著『選挙権の賦与』を出版し、家族法の不正について書いた。1853年に、彼女はジョン・スチュアート・ミルと結婚し、ミルの『女性の服従』への材料を彼に提供した。スチュアート・ミルがこの時代の数少ない男性の女権擁護者の一人と目された事は既にボーボワールが指摘した通りである。

■教育の改革

 19世紀のフェミニスト改革においては、教育と雇用の相互障壁が、そのバックボーンをなす問題であった。デイヴィーズらの改革努力は、徐々に浸透し始めた。ロンドンのクイーンズ・カレッジ(1848)とベドフォード・カレッジ(1849)は、1948年から女性にいくらかの教育を与えるようになった。

 1862年までにはデイヴィーズは、総合大学が最近確立した試験制度で、女性が代表者となる許可を得るための委員会を創立し、1865年には部分的な成功を収めた。彼女は1年後には『女性のための高等教育』を出版した。

 デイヴィーズとリー・スミスは「女性のための最初の高等教育校」を創立し、5名の学生が入学した。この学校は1869年にはケンブリッジのグリトン・カレッジに、1871年にはケンブリッジのニューマン・カレッジに、そして1879年にはオクスフォードのレイデイ・マーガレット・ホールとなった。ベドフォードは1878年に学位を授与し始めた。これらの相当な進歩にもかかわらず、それを利用できる者は少なく、女子学生の生活は依然として困難であった。

 1883年にはイルバート・ビル論争があった。それは英国人の犯罪者をインド人の司法権で裁かせようとする法案で、この法案を支持するベンガルの女性は、彼女等はこの法案に反対するイギリス女性よりも教育程度が高いと主張した。そして当時はイギリス女性よりも、インドの女性の方が多くの学位を持っているとも論じた。

 イギリスとアメリカのフェミニストが継続する対話の中で、1849年にアメリカで最初の女医の一人になったエリザベス・ブラックウェル(1849)はラングハムの応援で、イギリスで講演をした。ラングハムグループはまた、強烈な反対にも関わらず、イギリスの医学教育を1870年にロンドンで受けようとしたエリザベス・ギャレットの試みを応援した。ギャレットは結局、学位をフランスで取得した。

 女性たちのキャンペーンは女たちに、彼女らの新しく得た政治的な技術と本質的に異なる社会改革グループを結合する事を試みさせた。彼女等のキャンペーンは既婚女性のための財産法(1882年に通過)、1864、66、69年の伝染病法の廃棄の成功を含んでいるが、これは女性グループとジョン・スチュアート・ミルのような功利主義リベラルが連携した結果だった。

 全体として女たちは、本来の不公正と法律の持つ女性蔑視に怒りを覚えていた。ここで初めて、女たちは大多数で、売春婦の権利を問題にした。
 この問題に関する現状への著名な批判家には、ブラックウェル、ナイチンゲール、マーチノー、エリザベス・ウオルストン・ホルムが居た。エリザベス・ギャレットは、その姉ミリセントと異なり、キャンペーンを支持しなかった。

 キャリズマあふれるジョセフィン・バトラーは、既に売春婦問題に関わった事の有る、経験豊かなキャンペイナーでもあった。彼女は伝染病法廃棄のための全国婦人同盟と後によばれるようになったグループで、1869年、自然にリーダーとなった。

 彼女の仕事は、組織されたロビーストグループ(院外提訴団)の潜在的な政治力を示威することになった。この同盟は、この伝染病法は売春婦を卑しめるだけでなく、あからさまな性の二重基準を促進する事によって、男女両性を卑しめていると論じた。

 バトラーの活動は多数のモダンな女性を急進的なキャンペイナーにした。伝染病法は1886年に廃棄された。

 スケールは小さいが、アニー・ベサントは、マッチガール—つまり女性工場労働者のためのキャンペーンをし、彼女らの労働条件の酷薄さを訴えた。彼女の仕事は社会問題に対する関心を集めるためのよい手段になった。

 こうして、いったん努力の成果が現れ始めると、女たちの運動は大きな力に結集してゆく。

 次号オルタ(126号)では、本格的になったフェミニズム運動のうねりが、社会をどのように変え始めたかを追求したい。

 (筆者は米国ニュージャージー州在住・翻訳家)


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