【コラム】中国単信(39)

中国、台湾での日本語・日本文化現象から思うこと

趙 慶春


 仕事上、留学生募集のために中国(台湾や大陸)へ出かけるが、日本で想像する以上に日本語、日本文化が生活の中に浸透していて、現地の人びとがそのような現象に少しも違和感を覚えていないらしいことに少々、驚かされるほどである。
 たとえば台湾での体験だが、その時は、台湾の南方地域への夜遅い到着だった。早速、町を小一時間ほどぶらつきながら食堂を捜すと、営業していたのは日本の居酒屋そっくりの店が多く、まるで日本に舞い戻ってしまったかのような気分になった。

 そして翌日の昼間。前の晩には気がつかなかったのだが、いっそう驚かされたのは、日本語の看板が次々に目に飛込んでくることだった。テレビを見ると、日本のテレビ局放送ではなく、台湾の放送局にも関わらず、日本語で放送される場合もあるし、日本のCMが翻訳されずに日本語のまま流されているのも珍しくなかった。

 台湾は歴史的に見ると、日本統治時期が長かったからか、日本的建築物や日本の文化的風土が色濃く残され、しかも現在でも日本文化の取入れに積極的といえるだけに、今や世界中でいちばん親日派が多いと言っても過言ではないだろう。
 それにしても台湾で日本文化がこれほど浸透しているとは想像を超えていた。

 ところが中国本土に行ってみると、台湾とは異なる現れ方ではあるが、日本語、日本文化の浸透が急速に進んでいることに気がつかされた。
 中国本土でも日本語の看板や日本の店もあるが、台湾ほど多くはない。ところがテレビなど公共放送の中身をじっくり聴いていると、〝あれっ、この単語、日本語じゃないの〟と言える言葉が少なくない。一例を挙げれば、
 「違和感」(weihegan)      「腹黒」(fuhei)
 「逆襲」(nixi)         「婚活」(hunhuo)
 「対決」(duijue)        「食材」(shicai)
 「素人」(suren)         「可愛い」(kawai)
 「宅男」(zhainan)        「萌え」(meng)
 「漫画喫茶」(manhuachicha)
等々である。

 これらの日本語を中国語で発音する(ローマ字発音表記参照)ため、いずれの単語も使われた当初は、中国人でも意味が理解できなかったと思われる。「可愛い」に至っては日本語の発音そのままであるため、いっそう不可解に思ったかもしれない。ちなみに「可愛」は、中国語にもあり、ほぼ同様の意味で使われるが、発音は「keai」である。
 しかし現在では、これらの単語はすっかり中国人の中に定着し、日本語であることすら気づかない中国人もいるのではないだろうか。言い換えれば、文化的背景が大きく異なれば、同じ漢字文化圏とはいえ、日本語が中国語に取り入れられる機会はそう多くなるとは考えられない。こうした現象が起きていることは、それだけ中国と日本の文化的背景がますます親近性を強めていることになるのだろう。

 その証左にもなると思われるのが、最近のテレビなどでは、司会者やゲストたちが「nani」(なに)・「nannde」(なんで)・「doko」(どこ)・「itu」(いつ)・「uresii」(うれしい)・「iya」(いや)・「watasi」(わたし)・「kirei」(きれい)などの日本語を会話の中にまじえて話すことが、ごく当たり前のようになってきていることである。
 しかも、なんの違和感もなく、これらの日本語がすらすらと口をついて出てくるだけでなく、誇らしげに使っているようなのである。どうやら日本語は「国際人としての格好いい」資格を判断する道具になりつつあるらしい。
 そう言えば、中国改革開放初期の1980年代、つまり国際化初期段階で、簡単な英語、たとえば「what」「why」「where」「who」などを日常で使うことが一時的に流行ったことがあった。ただ、現在の日本語の浸透現象は改革開放初期と違って、決して表面的、一時期的なものではないように思える。その大きな理由は日中両国とも漢字を使い、意味が同じ単語も少なくないからで、〈言葉の交流〉、〈相手国での定着〉の歴史は今に始まったことではないからである。

 政治的には日本と中国の関係は依然として緊張が続いている。しかし文化面では、今述べてきたように、日中間の緊張など、どこに存在しているのかと言いたくなるほど、中国では日本語や日本文化が受け入れられている。

 それはたとえば、国外からの留学生を一人でも多く獲得しようと毎年、日本の大学が一斉に中国やその他の外国に出かけ、大学説明会(留学フェア)が開催されるのだが、中国での盛況ぶりがこうした現象を教えてくれる。中国各地での留学フェアにはいつも多くの留学希望者や保護者が集まり、熱心に目指す大学、学部、あるいは学習希望領域について質問する姿などは、日本人学生に見せたいほどである。なぜ多くの留学生たちが日本での学びの姿勢が真剣なのかがわかるからである。
 また中国の多くの大学は日本への学生送り出しに非常に積極的である。たとえば、長春の某大学などは、留学協定を締結するのはどんなに急いでも半年はかかるのに、それが待てずに今すぐにでも学生を送りたいと申し入れてくるほどで、日本への関心と留学需要度はこちらの想像以上に高いと言える。

 こうした現象を筆者は非常に嬉しく思っている。なぜなら、相手国の文化の浸透、受容はすべての友好交流の基盤であり、それらが深まれば深まるほど交流はスムースに進むはずであるから。そして、文化の浸透、受容は政治や戦争の力さえ凌駕することは、歴史が証明している。
 例えば、中国で清王朝を建てた満族(女真族)は中国全域を統一し、政権を握ったが、文化の面では逆に漢民族文化に同化してしまい、結局、清王朝は倒れてしまっただけでなく、民族的な特徴が次第に失われ、今や満州語を正しく話せる満族出身者はほとんど存在しなくなってしまっているほどである。
 また百年間イギリスの植民地となっていた香港は、中国に回帰する際、中国政府は「一国二制度制」(一つの国に二つの政治制度を持つ)を採用した。イギリス文化が香港に深く根を下ろしてしまっていたからで、こうした制度を取り入れることで混乱を避けざるを得なかったのである。

 文化の影響力は政治や暴力的制圧にも勝る例であると言えるだろう。このような歴史を見ると、日本語・日本文化が台湾は言うに及ばず、中国本土にこれほど浸透したことは今までなかったことで、現在の冷え切った政治面での日中関係を改善するきっかけになるのではないかと密かに期待している。

 (女子大学教員)


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