参議院選挙で国民は何を選ぶべきか

   岡田 一郎

 去る6月23日に執行された東京都議会議員選挙は、自民党・公明党候補の全員当選、共産党・みんなの党の躍進、民主党・日本維新の会の惨敗という結果に終わった。民主党は都議会第一党から第四党に転落、日本維新の会は石原慎太郎共同代表のお膝元である東京都議会でわずか2議席しか獲得できないという負けっぷりであった。

東京大学の菅原琢准教授は、自民党が大敗し第二党に転落した2009年都議会議員選挙と比べて自民党は得票をほとんど増やしておらず、公明党や共産党はむしろ得票を減らしており、投票率が低下したことやみんなの党と日本維新の会が候補者を大量擁立して互いに潰しあったことが、強固な支持基盤を持つ自民・公明・共産党を相対的に有利にし、これら3党の好成績につながったと分析している。(菅原琢「2013年東京都議選の簡単なデータ分析」http://www.huffingtonpost.jp/taku-sugawara/2013_1_b_3488128.html  2013年6月29日閲覧

菅原准教授の分析に異論はないので、この分析をもとに来たる参議院議員選挙の行方と現代日本政治の問題点を考えてみたいと思う。
2009年都議会議員選挙は、多くの有権者が政権交代による政治の変化を期待して民主党に投票した総選挙の前哨戦という側面が強く、民主党への支持がピークに達する一方、自民党への支持が最も落ち込んだ選挙であったと考えられる。

その選挙から自民党がほとんど得票を増やしていないということは、自民党はどんな事態になっても自民党に投票する強固な支持者を維持しているだけで、無党派層などにはほとんど支持が広がっておらず、投票率の低下は前回の都議会議員選挙で民主党に投票した有権者の多くが棄権にまわったことで引き起こされたと推測される。(もちろん、みんなの党や日本維新の会支持にまわった元民主党支持層も存在するだろう)おそらく、参議院議員選挙の投票日までに有権者の投票意欲をかきたてる事件が発生しない限り、参議院議員選挙でもかつての民主党支持層の多くは棄権にまわり、自民・公明・共産党が強固な支持基盤を生かして議席を増やすという結果に終わるであろう。

民主党への支持低下は明らかに民主党政権の迷走が原因だが、自民党への支持に回帰していないことから考えると、民主党政権の迷走を見て民主党支持から離れた層は「自民党に代わる政治勢力の台頭を望んでいたが民主党政権に裏切られたと思っており、民主党に代わって自民党から政権を奪うことが出来る政治勢力を望んでいるが、それを未だ見出すことが出来ていない層」であると推測される。この層が民主党に代わって期待するであろう政治勢力として真っ先に思い浮かぶのが日本維新の会である。そこで、昨年12月総選挙での日本維新の会の躍進は民主党支持層の一部を獲得する形で実現したものであると説明できる。

しかし、日本維新の会が安倍晋三政権に同調し、野党第二党としての役割を果たそうとしなかったことや従軍慰安婦などをめぐる橋下徹共同代表の一連の女性蔑視発言によって日本維新の会の党勢は急速に衰え、民主党に代わる政治勢力に成長する機会を日本維新の会は自ら失った。その帰結が都議会議員選挙での惨敗であろう。裏を返せば、これまでの民主党の躍進は政権交代に対する期待感から、日本維新の会の躍進は民主党に代わって自民党に対抗する二大政党の1つに成長するかもしれないという期待感や橋下徹共同代表に対する期待感によってもたらされたものと言える。

言い換えると、特定の政党の熱心な支持者ではなく、なおかつ自民党への投票をためらう有権者にとって投票先を決める決め手は政権交代のような「わかりやすいスローガン」か橋下徹のようなカリスマ的政治家への期待感ぐらいしかないということである。そうであるならば、これから参議院議員選挙までに野党が選択すべき戦略は「わかりやすいスローガン」を掲げるか誰かカリスマ的な政治家をリーダーとして擁立して一気に有権者の支持を集めることである。

だが、この戦略は指摘するのは簡単だが、実現するのはかなり困難だ。日本の有権者は気まぐれで、彼らが「わかりやすい」と考えるスローガンを設定するのがかなり困難だからである。例えば、昨年の総選挙では多くの政党が「脱原発」や「反TPP」を公約に掲げた。だが、こうした公約に有権者が反応したとは思われない。毎週金曜日の官邸前集会をはじめ、多くの人びとが脱原発集会に参加したにもかかわらず、勝利を収めたのはこれまで原発政策を推進してきた自民党であった。

また、JAはTPP反対の国民運動を起こし、日本医師会など多くの団体もこれに賛同したにもかかわらず、そうした団体が昨年の総選挙で自民党以外の候補を応援したという話はついぞ聞かない。TPP反対の主張を貫いて民主党を離党した国会議員が数多く存在したにもかかわらず、彼らは自分たちの主張を貫いたことに報いられることもなく、反TPP団体に見殺しにされたのである。

そして、発足した安倍晋三政権は政権発足から数ヶ月もしないうちにTPP交渉参加を表明し、TPP反対を唱えていた自民党議員も安倍首相の決断を黙認した。にもかかわらず、反TPP団体は自民党の公約違反を追及することもなく、今度の参議院議員選挙でも自民党を応援するという。民主党の反TPP議員が野田佳彦首相(当時)のTPP参加に邁進する姿勢を食い止めることが出来なかったとJAなどから突き上げを食らったこと(民主党の反TPP議員の多くは2009年総選挙でJAの支援を受けていなかったにもかかわらず)と比較すれば、JAは何と自民党に寛大なことであろうか。

昨年の総選挙で私が支援した候補は「脱原発」「反TPP」を訴えて選挙を戦ったが敗北した。選挙後、その候補は「『脱』『反』のつく政策ばかりで有権者に後ろ向きな印象を与えてしまったのかもしれない」と反省の弁を述べた。確かに、『朝日新聞』が私の地元、千葉県の大学生に選挙についてインタビューした記事では「『脱』『反』とか後ろ向きなことをいう政党に投票するつもりはない」と答える声が多かった。だが、それは非常に奇妙なことのように思われる。

「脱原発」「反TPP」を主張する候補は、福島第一原発において人類史上未曾有の事故を起こした原発を今後も推進することは、再び日本に災厄をもたらす可能性が高く、もう一度福島第一原発事故級の事故が発生した場合、我が国が亡国の危機にさらされるとして反対している。また、反TPP派はTPPがアメリカ主導ですすめられており、アメリカ主導の不平等な条件の下での競争を日本人が強いられ、日本の農業が壊滅し、皆保険制度が骨抜きになることを危惧している。

すなわち、原発やTPPは大きなマイナスをもたらすのでせめて現状維持(プラスマイナスゼロ)にしようと反対派は言っているに過ぎない。もし、こうした主張に反論するならば、原発やTPPが大いなるプラスをもたらすと推進派は主張するべきである。しかし、推進派も有権者も反対派に対して「プラスになる代案を提示出来ないのであれば、マイナスを選べ」と主張しているのである。これはあまりにも不当ではないか。来る参議院議員選挙でも「原発」「TPP」は争点となっているが、原発・TPPを大いなるマイナスと考え、現状維持を選ぶか、原発・TPPに利益を見出すのか、有権者は自分の胸に問わなくてはならない。間違っても「反対するのは後ろ向きな姿勢だから嫌だ」といった幼稚な基準で投票先を決めないことが必要である。

なお、TPPに関しては農業に関する問題点しかマスコミ等で取り上げられないが、アメリカの真の狙いは知的財産分野ではないかと言われている。アメリカ通商代表部はTPPにおける要求の内容を韓米FTAに準じるとたびたび示唆しており、韓米FTAの内容をもとにTPPの内容を類推すると、知的財産分野においてアメリカは日本に対して「著作権保護期間を50年間から70年間に延長すること」「著作権侵害の非親告罪化」「著作権侵害に対する法定賠償金制度の創設」などを要求してくると思われる。他国の著作権保護期間を延長させることによって、世界的に有名な古典的作品やキャラクターを有するアメリカは、長期にわたってコンテンツ使用料を海外から得ることが可能になり、莫大な利益を手にする。(アメリカが著作権保護期間を70年間に延長した背景には、ミッキーマウスの著作権保護期間が切れることを恐れたためと言われている。著作権保護期間延長法がミッキーマウス法と揶揄されるゆえんである)一方、そのような古典的なコンテンツを持たない日本は著作権保護期間を短めに設定し、海外の古典的なコンテンツを自由に使用することを可能にしたほうがはるかに有利である。

また、著作権保護期間をあまりにも長期に設定すると、一部の有名作品以外の作品を再発行したり、2次創作(ある創作物のキャラクターを利用して、他の作者が作成した独自のストーリーを持つ作品を創作すること)したいと思う人物が現れても著作権保持者の行方がわからなくなり、埋もれた作品を再び世に出すことが出来なくなるという弊害も指摘されている。(著作権保持者が不明な作品を孤児作品と呼ぶ)そのため、アメリカのマリア・パランテ連邦著作権局長は連邦議会で著作権保護期間の短縮を逆に提唱している。(中川隆太郎「マリア・パランテはかく語りき―米国著作権局長による著作権法改正提言を全訳する」『骨董通り法律事務所 For the Arts』2013年4月3日http://www.kottolaw.com/column/000527.html、2013年7月10日閲覧

この出来事の直後、現与党の某代議士が「著作権保護期間の延長は世界的潮流」とツイートして、著作権問題に関する無知をさらしたが、日本の政治家は著作権問題に無関心かつ無知な場合が多い。これからのTPP交渉を考えた場合、今度の参議院議員選挙では著作権問題に詳しい議員を1人でも多く選出したいものである。また、創作物の2次使用がフェアユースとして広く認められているアメリカと異なり、日本では著作権は厳格に守られている。そのため、著作権侵害を親告罪としたり、著作権侵害の際の賠償金を低く設定することによって、2次創作を黙認するという慣習が守られてきた。

しかし、アメリカのようなフェアユース制度を導入しないまま、著作権侵害の非親告罪化や裁判所が高額に賠償金を設定できる法定賠償金の制度が導入されれば、同人誌などの2次創作は困難になり、日本のコンテンツ産業の想像力は枯渇してしまう。韓国は韓米FTA締結にあたり、アメリカ式の著作権制度を導入したが、日本にはTPP加盟にあたり、日本の法制度をどのようにそれに適用させていくのかといった問題まで考えている政治家はごくわずかである。日本の優れたコンテンツ産業を活かしていくためにも、TPP加盟をにらんだ法体系の変更まで想定している候補を来たる参議院議員選挙で1人でも多く参議院に送り込んでいかなくてはならない。(TPPと知的財産問題の関係については、福井健策『「ネットの自由」vs.著作権 TPPは、終わりの始まりなのか』光文社新書、2012年参照)

改憲案が国民の支持を得ておらず、自民党が目指す第9条や第96条の改定には反対の声が多いにもかかわらず(日本世論調査会の調査によれば、第9条改正反対が55%、第96条改正反対が51%。憲法改正自体は63%。国民世論は憲法改正について「総論賛成、各論反対」の立場であることがうかがえる。『中国新聞』2013年6月16日付。http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp201306160098.html 2013年7月7日閲覧)、改憲案に代表される自民党の反動的な姿勢もまた、有権者が自民党以外の政党に投票する決め手にはなっていない。

自民党改憲案の問題点は最近、マスコミでも大きく取り上げられるようになり、そのことが第96条改正反対の声につながっていると思われるが、自民党支持率にはほとんど影響を与えていない。その理由は、安倍内閣誕生以後の株価高騰に満足して、有権者が憲法問題を軽んじているためなのか、有権者の多くが自民党がおかしな改憲をしないはずだと心底から自民党を信頼しているためなのか不明である。もし、前者であるならば、現行憲法が保障する基本的人権は一時的な株高と取引できるものではないことを強調しておかなくてはならない。

そして、さらに強調しておきたいのが、自民党改憲案の起草に参加した政治家たちは、明治憲法を起草した伊藤博文ですら理解していた立憲主義(憲法は国家権力を制限し、国民の権利を保護するために制定されるという考え方)を理解していないどころか、そんな言葉を聞いたこともないとうそぶいているという事実である。(「(追加あり)立憲主義を知らない自民党「憲法起草」委、事務局長、「礒崎陽輔」議員に関する法律関係者のコメント」http://togetter.com/li/311536 2013年7月10日閲覧)立憲主義を理解しない者達によって起草された憲法を私達が受け入れた場合、日本は先進民主主義国ではなくなり、民主主義や人権の意味すら理解していない野蛮な国家と世界から蔑まされることになるであろう。
 
多くの有権者が日本の今後の岐路を決定するTPPや憲法の問題から目を背け続け、政治に対して関心を持たないままでいるならば、今後も特定の政党支持者の意見のみが政治に反映され、自民党に不満を持ちながらも、青い鳥を探し求めるがごとく、自民党に代わる政治勢力を追い求める多数の有権者の意思はますます政治に反映されなくなる。そうなると、投票率はますます低下し、特定政党の支持者の意向のみがますます反映されるという悪循環に陥っていくであろう。この悪循環を断ち切るためには、多くの有権者が自民党に代わる政治勢力を自らの力で作り上げようという気概を持つことが求められるであろう。
 
そのような気概を持たない有権者の無関心さや無気力さが選挙それ自体を多くの有権者から遊離した出来事にしている。このことを映像として表現したのが、想田和弘監督の映画『選挙』である。この映画は2005年10月に実施された川崎市議会議員補欠選挙に自民党の候補者として立候補することになった想田監督の友人の選挙活動をありのままに撮影したドキュメンタリー映画である。この映画の中では選挙活動に従事する人々が、一般市民とは異なる言葉を駆使し(妻のことをあくまでも「家内」と呼ぶなど)、一般市民が違和感を持つような行動(幼稚園の運動会で園児を無視して選挙の話を始めるなど)を次々とおこなう。想田監督の友人はそんな「選挙」にとまどいながらも、運動員に勧められるまま、ただひたすら自分の名前を連呼してまわる。(通行人は3秒しか候補者の話を聞いていないので、名前だけを連呼して通行人の頭に候補者の名前を印象づかせるべきという理屈)
 
私はこの映画を見て、今や「選挙」が能や歌舞伎のような伝統芸能になってしまったのではないかという印象を受けた。その思いは私が実際にある候補者の選挙運動を手伝ってさらに強まった。ビラの配布の仕方から運動員に提供する飲み物やお菓子に至るまで事細かに公職選挙法で規定されているので、候補者も運動員も一挙手一投足に至るまで選挙に詳しい人物に指示をあおがなくてはいけない。(幸い、私が選挙を手伝った候補者の選挙責任者は気さくな人だった)まるで若い役者が師匠から演技を学ぶがごとくである。

他にも問題点を挙げれば、選挙で配布するビラにはすべて決められた証紙を貼らなくてはいけない。(証紙は告示日に選挙管理員会から配布される)掲示板にポスターを貼るのにも人員が必要だ。これでは特定の支持組織を持たない候補者は圧倒的に不利だろう。供託金も海外と比べるとはるかに高い。(例えば、参議院選挙区候補は300万円、比例区候補は600万円。フランス・ドイツ・イタリアには供託金制度がない。韓国の供託金は比較的高いがそれでも約150万円)これでは伝統芸能の担い手がほぼ世襲され、外部から新しい人材が入っていなかないように、選挙の担い手も世襲議員と選挙業者に占められ、新しい人材は入ってこないだろう。伝統芸能が一部の熱心なファンによって支えられているように、選挙も特定政党の熱心な支持者のみによっておこなわれる儀式と化すであろう。

選挙を伝統芸能の儀式から有権者の意思を正確に議会に反映させるための手続きに転換させるために、私たちは様々な規制にがんじがらめになりながらも、政治の決定権を特定の組織や政治業者から取り戻し、有権者の政治参加を推し進め、特定の支持者ではなく幅広い有権者の意思を議会に反映させようとする候補者を数多くの候補者の中から選び取らなくてはいけない。そのためには、私たち有権者が重要な政治問題に関心を持ち続け、候補者を見る目を養わなくてはいけない。

わかりやすいスローガンやカリスマ政治家の言動にのみ注目するのではなく、候補者が意見を表明する場があれば、候補者の意見に耳を傾け、候補者が書いた文章を読み、自分が政治に求めるものを少しでも実現してくれそうな候補者を見つけることである。中には「何が争点なのかわからない」「候補者の主張の相違がわからない」と反論する人もいるだろう。しかし、現代は様々な情報を入手することが可能になった時代である。わからなければ、自分で情報を集めれば良い。自分で何も情報を集める努力をせず、「わからないので投票できない」と自らの棄権を正当化する有権者は単なる怠け者ではないだろうか。

このような手間暇を惜しんだ結果が今日の日本における選挙の伝統芸能化であることを私たちは理解しなくてはいけない。映画『選挙』をベルリン映画祭で鑑賞したあるドイツ人は日本のテレビ局の記者のインタビューに対して次のような内容の答えをしていた。「この映画の中でおこなわれている行為は選挙ではない。選挙とは候補者が政策をうったえることだ。この候補者は自分の名前を連呼するばかりで政策のことは何も言ってはいないではないか。

なぜ、日本では政策以外の要素が選挙の行方を左右するのか」このドイツ人の言葉は候補者の政策の中身を吟味しようとしない多くの日本の有権者の怠慢ぶりを鋭く突いている。一方、2005年の郵政選挙の直後、ある有権者はテレビのリポーターに「私は福祉の充実を望むので小泉自民党に投票しました」と答えていた。かくのごとく、日本の有権者はムードに流されて、自分の願いとは逆のことを主張する政党に一票を投じるという悲喜劇を選挙ごとに繰り返している。私たちはこのような悲喜劇に終止符を打たなくてはならない。
(筆者は小山工業高等専門学校・日本大学・東京成徳大学非常勤講師)
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