■連載 回想のライブラリー(13)         初岡 昌一郎

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(1)

 敗戦の年の8月15日。私は小学校4年生だった。ボックス型の木箱のラジオか
ら流れる、雑音の混じった天皇の重々しい言葉。よくわからないながらも戦争が
終わったことをさとった。
 岡山県阿哲郡神代村笹尾。私が生まれ、そして小学校2年生からの卒業まで、
幼年期の大半を過ごしたところだ。神代はカミヨではなく、コウジロと読む。こ
の村は今は新見市の一部となり、伯備線の無人駅にその名をとどめるのみとなっ
ている。笹尾はその村でも辺境にある、山に囲まれた小集落。笹尾小学校は全生
徒数60余名。私の学年は8名で、全校で2クラスしかない複式授業だった。母は
私の生れる前に離婚し、病んでいたので、母方の祖母によって育てられ、笹尾で
小学校卒業まで暮らした。

 私の教育のためだったと思うが、祖父母と母は私が生れてから笹尾を離れ、物
心ついた時は、新見市の借家に住んでいた。市内を貫流する高梁川にかかった橋
詰の家だった。そこから、町の中心にある幼稚園と思誠小学校に小学2年生まで
通った。体の弱い子どもで、学校の帰路、よく病院に寄って薬をもらっていた。
 太平洋戦争が始まって間もない頃、祖父の死によって新見から神代村に引き揚
げた。トラックの荷台に畳を敷き、横たわる祖父を囲み、山を越えて笹尾の旧宅
に帰った日のことは、終戦の日よりもよく記憶している。

 笹尾の須田家はその頃無住のままになっていた。母はこの家で生れた兄弟姉妹
九人の8番目だった。祖父は村で一番大きな地主で、村長もしていた。その子ど
も達は一定の教育を都会で受け、誰ひとりとしてこの村に帰ってこなかった。母
も神戸女学院を出ていたので、病を得なければ須田の家に帰ってくることはなか
ったであろう。
 祖父の大きな家は集落を見渡せる高台にあり、石垣の上に廻らされた築地塀の
中には、母屋の他に米蔵、味噌蔵など四つの蔵があり、本宅に隣接する長屋には
留守番の人が住んでいた。荒れてはいたが広い中庭があり、大きな池と築山もあ
った。夕方になると家の雨戸をしめるのが私の仕事だった。次々と雨戸をくり出
して押す感覚は、まだ私の中に残っている。幼年時代を振り返ると、暗く長い廊
下を伝って、夜中にトイレに行く恐怖感が甦ってくる。

 小学校へは10分ほどの距離で、家から下っていく道の向こうに小さな校舎と校
庭がみえていた。笹尾小学校はとうの昔に廃校となって、この敷地はもとの田ん
ぼに返り、今は跡形もない。生徒達は全員、ワラゾウリで通学しており、私もも
らってきた稲のワラを用いて自分で作っていた。お天気の日はよいのだが、雨が
降るとワラゾウリは水を含み、歩きにくくなるし、着物に水をハネ上げるので困
った。
 学校における授業の思い出はほとんどない。勤労奉仕で山から木炭を運んだり、
松の根を掘りに行ったことはよく憶えている。校内外で遊びの中心にいた私も、
作業になると日頃から慣れている農家の子ども達には歯が立たなかった。

 小学校は二つの教室と一つの小さな職員室があっただけで、図書室はおろか、
生徒用の図書は全くなかった。私の最初のライブラリーは祖父の家の2階にあっ
た書庫と書斎だった。これは私の隠れ家でもあり、真っ暗でカビ臭い部屋の雨戸
を手探りで開け、外の光がさしこむ机に長時間よく向かっていた。母や伯父、伯
母たちの教科書類も残っていたが、私の使っていた貧弱な教科書(戦争が末期に
近づくにつれ次第に、新聞紙を折りたたんだような薄っぺらいものになっていた)
よりはるかに立派だった。

 ほとんどの本は小学生の私には興味のないものであったが、『少年倶楽部』な
ど古い子ども雑誌のバックナンバーをよく読み、冒険ダン吉やのらくろの物語に
心をときめかせた。そのうちに『新青年』というミステリーなどが載っている雑
誌や、仏教雑誌の『大法輪』など戦前の大人用雑誌類が愛読書となり、これらを
繰返し読んだ。大法輪には、上杉謙信と武田信玄の戦いが連載されていた。

 いまだに鮮烈に想い出すのは、徳富蘆花の『思い出の記』だ。これは単行本だ
った。自伝的な要素の強い小説で、阿蘇山麓の小さな村で育った少年が峠を越え
て都会へと出て行く場面が印象に残っている。これは自分の願望と合致していた
からであろう。私の生まれ育ったところは中国山地の岡山県側の僻地で、四方は
山また山だった。一番近い鉄道駅、神代は山陰に向かう伯備線と広島県に通ずる
芸備線の分岐点で、そこまで約4キロの距離があった。汽車にも乗らず、新見町
にある玩具屋まで約10キロの道を山越えで歩いて行ったこともあった。

(2)

 この山の中の集落から突然抜け出す日が来た。それは、須田家の跡取りながら
武蔵野市に住む、母方の伯父が私を引き取ってくれ、東京の中学校に通うことに
なったからだ。はじめて夜行列車に乗って東京駅に着くと、伯父が丸ビル地下の
靴屋に連れて行き、革靴を買ってくれた。初めて履く革靴は履き心地の良くない
ものだった。
 その頃、伯父は武蔵野市西窪で花卉を栽培していた。住み込みの男と二人だけ
のあまり大きくない農園だった。温室でシクラメンやカーネーションを作ってお
り、グラジオラスやパンジー等を露地で育てていた。私も中学校から帰ると草取
りなど、ほとんど毎日仕事を手伝っていた。花を出荷するため、大久保などの花
市場にも伯父と一緒によく行った。
 市立武蔵野第一中学校は徒歩15分ばかりで市役所のすぐ裏手にあった。友達も
すぐでき、中学生活はとても楽しかった。不思議に「田舎っぺ」とからかわれた
ことは一度もなかった。それは同年代の生徒の中では、ちょっとした物知りだっ
たからかもしれない。読書量の差からくるものだった。その頃は発言力のあるも
のを評価する雰囲気があったので、1年生の2学級からすぐに学級委員長に選ば
れた。3年の時には全校委員長に当選して、生徒会活動と学校新聞の発行に熱中
した。

 鳥羽嶺次郎という東京外大卒の若い英語教師が新聞部担当で、この先生には傾
倒していた。しかし、市政の悪口を描いて新聞が発行停止となった時や、商店街
の広告を下級生にとらせて、その金で部のコンパを吉祥寺駅前の人気ラーメン屋
「特一番」で開催していたのがバレ、校長から大目玉を喰らった時には、鳥羽先
生に迷惑をかけた。しかし、先生から叱正されたことはなかった。この先生はわ
れわれが卒業する前に読売新聞外信部記者に転じ、後に同紙インド特派員になっ
た。

 中学校に図書室はあったが蔵書は限られていたし、借り手間の競争も激しかっ
た。そこで市役所から道を隔てて向う側にあった市立図書館の常連となり、いろ
いろな本を借りていた。その頃は、博識であることを目指して、手当たり次第に
雑読していた。歴史と地理、社会科的な時事解説、人物史論などが特に好きだっ
た。小説もよく読んだ。ゲーテの『若きウェルテルの悩み』やポーランドの作家
ヘンリック・シェンキーウィッチの『クオ・ヴァディス』などに胸を熱くしたこ
ともあった。

           ×  ×  ×

 読書が思想的なものに向かったのは、やはり高校時代だった。
 中学3年で進学期を迎えると私は進路に迷うようになった。伯父の花屋はどう
も行き詰まってきているようだった。それでも、商業高校に行けば就職までは面
倒をみると伯父、伯母達は言ってくれた。しかし、商業高校に行くのは嫌だった。
学区内の公立高校に行くものとみていた担任教師に、思い余って相談したところ、
この先生の仲立ちによって岡山の父親のもとに引き取られることに話が展開して
いった。

 もちろん父は再婚しており、私には母ちがいの妹弟が3人あった。父は岡山県
真庭郡久世町(現真庭市)で、孵卵、養鶏、製材、製パンなどをかなり手広く経
営しており、経済的には心配することはなかったものの、父の姉妹やその家族も
同じ敷地内に暮らす大家族制で、居心地はよくなかった。
 父の家から津山キリスト教図書館高校に通学することになった。家から駅まで
自転車で約15分、そして小一時間かかる汽車通学であった。6時20分の汽車に乗
るために、朝は5時に起床し、夕方は7時頃帰宅する日々だった。私にもこれは
きつかったが、私より早く起床しなければならない義母はさらに大変だったろう。
そこで、2年目からは津山で暮し、家にはたまにしか帰らなくなった。

 父の家で共に暮らした日々は短いものであった。形の上では長男だったが、父
は私に家業を継がせようとは考えていなかったし、私もその気はさらさらなかっ
たので、後顧の憂いなく、わが道を行くことができたのは幸いだった。
 私が津山の私立高校に行く契機は、自らの選択というよりも、中学卒業前にゴ
タゴタしているうちに、岡山県立校の試験期を逸したことによる。私は早稲田学
院に行きたかったが、さすがに父は東京での高校生一人暮らしを認めなかった。
 津山キリスト教図書館高校という、名前からして風変わりな学校に行ったこと
によって、オルタナティブな人生を選択する道が開けたといえよう。

 この高校は津山の篤志家、森本敬三が戦前に開設した図書館を基礎として、戦
後に義務教育修了後に進学する機会のなかった人達のために創設した夜間高校と
して出発した。昼間部はかなり後に開設され、私達はその一期生として入学した。
 森本家は津山藩の筆頭御用商人で裕福な家であり、明治維新期には津山城大手
門内にある城代家老の邸宅を買い取って居宅としていた。ところが森本敬三は若
くして内村鑑三の門下生となり、家業を辞めてしまった。それだけではなく、街
の中心に位置する大手門脇の自宅庭先に、津山随一の洋風ビル、十字架を頂く塔
のあるキリスト教図書館を建てた。これは大正時代の田舎町では極めてセンセー
ショナルなことだったに違いない。「預言者、故郷に入れられず」という言葉が
あるが、自分の生まれ育ったところで、伝統に背いた主張をすることがいかに難
しいことであるかは、私のような田舎生れのものには痛いほどよくわかる。

 津山キリスト教図書館高校は、文部省から補助金を受けていない例外的な高校
で、森本家の私塾のようなものだった。昼間部は普通科と商業科が一クラスづつ
で、普通科の教室は図書館のアネックスとして付設され、商業科は城の石段に通
ずる道の向こう側にある、教頭の謙三先生の庭の下に作られていた。図書館の講
堂が大教室であった。教頭である謙三先生は敬三先生の息子で慶応大経済学部卒、
奥さんの珠子先生は慶応大経済学部創設時の学部長だった人の娘さんで青山学院
の出身だった。敬三先生が聖書講話、謙三先生が英語、珠子先生は音楽(といっ
てもて賛美歌の斉唱だったが)の担当で、他は非常勤の先生が多かった。
 外部からの講演者が多かったのは私にとっては良い刺激だった。前東大総長南
原繁、当時の東大総長矢内原忠雄をはじめ錚々たる人達が内村鑑三同門のよしみ
で津山に来訪し、この高校で講義をした。

 高校時代の後半期、森本謙三先生自宅の門長屋に書生のように居住して、朝夕、
先生ご一家と食事を共にさせていただいていた。ほとんど塾頭のように振舞って、
同級生や下級生に一目おかれていた(あるいは顰蹙を買っていた)。
 一番満足していたのは図書館を自由に使えたことだった。新しい本はそれほど
なかったが、宗教や思想に関して古今東西のものが充実していた。ルナンのイエ
ス伝や、フォイエルバッハの諸著作などを読みふけった。内村鑑三の著作は和英
両文でよく読んだ。その思想だけではなく、歯切れの良い文体に惹かれた面もあ
った。マルクス・エンゲルスの著作や同じ岡山県出身の片山潜や山川均など社会
主義者の本にもこの図書館で初めて接した。高校生として受験勉強はほとんどし
なかったが、読書の量と範囲では他の同世代の学友達からは抜きん出ていたであ
ろう。県立津山高など市内の高校生仲間と平和運動のサークルを作ったり読書会
をしていたが、常にリーダーを持って任じていた。
 当時、読書会を共に組織し、一緒に文集を作ったりしていた親友、田外敦郎君
を昨年失った。彼は津山高校から大阪外語大に進み、岡山で山陽新聞記者となっ
た。しかし、彼は組合活動の挫折から職を辞して津山に帰り、世間からみると世
捨人として生きていた。津山に帰るといつも一晩は彼と語り合うのが楽しみだっ
た。3年前には森本先生が逝去され、津山も遠くなるばかりだ。

(3)

 森本先生のすすめによって、東京の三鷹に新設された国際キリスト教大学を迷
うことなく選択して受験した。入学したのは1955年の春だった。私の人生で受験
の経験は、この時が最初で最後となった。この他に大学受験も、就職試験も受け
たことがない。父は森本先生を尊敬していたので、先生のすすめる大学への進学
を快く認めてくれた。中学時代の友人も多く、思い出の多い武蔵野周辺で暮らせ
るのがとてもうれしかった。

 三鷹市牟礼の井の頭公園裏にあった井上良雄神学大学教授の閑静な邸宅に、縁
あって大学一年生の夏から寄宿させていただくことになった。井上先生は戦前若
い頃には芥川龍之介の評論で世に出た左翼的文芸評論家、奥さんは仲町貞子とい
う戦前の女流作家であった。戦争中の獄中体験からキリスト者となった井上先生
は、その頃、高名な神学者バルトの研究家として知られており、厖大なバルト全
集の翻訳に打ち込んでおられた。平和運動にもコミットしておられ、先生はその
面でも知られていた。文学者唐木順三が井上良雄を「昭和期インテルゲンツィア
の一典型」と評する人物論を書いているように、非常に知性的で端正な容姿の人
だった。この井上家には二回の海外生活中の期間をはさんで、結婚1年後に横浜
に引っ越すまで、のべ10年以上もお世話になった。

 大学(ICU)は英語教育を非常に重視しているところで、一年生当時はほとん
どの授業時間が英語の学習と訓練にあてられていた。語学の学習には反復と暗記
が不可欠なので、予習や復習に時間をとられる。反面、大学生活に期待していた
ような知的刺激はあまりなかった。その反動もあって、クラブ活動と読書にのめ
りこんだ。
 私の所属したのは「リベルテ」と名乗る社会科学研究会だった。顧問は天皇制
と近代思想の研究者、武田(長)清子。当時は、まだ若き助教授だった。私は思
想的にはそれほどラジカルではなかったが、行動派だったので、先生にはかなり
ご心配をおかけした。
 特に、学外から講師として砂川基地反対闘争で前面に立っていた山花秀雄(地
元の社会党代議士)や、社会党国際局長佐多忠隆参議院議員などを呼んだとき、
大学における政治活動の自由、つまり政治的文書の配布や掲示、政治的集会と大
学が助成するクラブ活動との関係から一定の緊張関係を生じたが、当時は学生部
などとの理性的な話し合いを通じ、ルールの拡大的適用でクリアすることができ
た。

 リベルテというクラブは、社会科学研究会として読書会や討論会を行うだけで
はなく、仲良しサークル的な面も強かった。夏の軽井沢(大学寮)での合宿、ピ
クニックやコンパなども随時組織された。クリスチャンのメンバーや女性も多く、
他大学の社研に比較するとイデオロギー色は薄く、華やかな雰囲気があった。し
かし、ICUの中では一番左翼的なクラブで、学内では政治色が強いとみられてい
た。
 リベルテでは並行的に読書会が様々なテキストを中心に行われていた。ソ連の
『経済学教科書』という、当時のベストセラーをとりあげた読書会もあった。こ
れにも一応参加してみたが、あまりの教条主義と単純論法に愛想がつき、すぐに
やめてしまった。その後には、黒田寛一を講師とするマルクス主義研究の会もで
きたが、これには参加しなかった。
 私が参加したものは、猪木正道『共産主義の系譜』をとりあげた読書会で、こ
れをめぐっては参加者間で激しい意見が闘わされた。猪木はこの論文の中で共産
主義とナチズムを政治独裁として同じカテゴリ-でとらえ、ナチズムを共産主義
の「鬼子」だとしていた。これは西欧の社会民主主義者の観点であったが、当時
日本のインテリや論壇はまだソ連型共産主義に大きな幻想があって、猪木の主張
はとても受容されるものではなかった。私なども、ソ連共産主義には距離をおい
ていたものの、そこまで徹底した理解はまだなかった。
 後に京都大教授となる若き日の安場保吉助教授(近代経済学)をチューターに
して、マックス・ウェーバーの『社会科学および社会的政策の認識の客観性』を
読んだ。なかなか難解でてこずった。安場先生はわれわれの"左翼小児病的思考"
のアク抜きをしようとしたのだろうか、私などは徹底的にやり込められた。しか
し、こちらは"論理"というより、"動機"が先行しており、それによって理論を選
択しようとしていたのだから、「客観性」に屈するものではなかった。むしろ、
ますます「主体的」決断を重視する実存主義的な"アンガージュマン"に傾斜して
いくのであった。この頃、あまりよく理解できたとはいえないのだが、サルトル
の著作もよく読んだ。

 鮎沢巌教授の労働問題・労使関係ゼミナールに席を置いていた。ゼミはよくさ
ぼっていたが、それでもG.D.H.コール『イギリス労働運動史』(河上民雄他訳、
岩波書店)やシドニー・ウエッブの著作は先生のすすめもあって熟読した。
 大学時代も雑読だった。ICU図書館はよく利用した。図書館は開架式で、自分
の好きな本を直接に手にとってみた上で借り出すことが出来たので便利だった。
新刊図書は毎週決められた棚に展示され、一週間後に貸し出された。予約制だっ
たので、月曜日の新刊展示の時間を見計らって図書館に行き、めぼしい本に予約
の札を入れていた。私があまりにも多くの本を一時に予約してしまうので、苦情
が寄せられたらしく、そのうちに上限を3冊に制限されてしまった。後にICU高
校校長となったリベルテの先輩、桑ケ谷森男から「初物喰一郎」だと私の新刊本
好きを揶揄されたこともあった。

(4)

 大学時代には多くの本を乱読するくせがさらに昂じてしまった。小説ではロマ
ン・ロランの『ジャン・クリストフ』は愛読書の一つで、その中でフランス社会
党指導者ジャン・ジョレスが戦争直前に暗殺される場面などはいまだに想い出す。
政治的に異なる立場の作家で、ドゴール政権の文化大臣をつとめたアンドレ・マ
ルローの作品もよく読んだ。『人間の条件』や『王道』が特に好きだった。
 トルストイの『戦争と平和』を忘れることができない。これはナポレオンのロ
シア遠征を背景とした長編小説である。雀ケ丘から炎上する市街をナポレオンが
眺めて、「みよ、これが東洋の町モスクワだ」という言葉を、初めてモスクワに
行ったときに思い出した。しかし、私にとってモスクワはどうみても西洋の街だ
ったが。

 ナポレオンと戦うロシア軍の指揮官クトゾフ将軍が対象的に賢い指導者として
描写されている。才気煥発なナポレオンは戦略戦術の天才とみられていたのだが、
トルストイの描くこの軍事天才はややカリカチュライズされている。ナポレオン
が綿密に立案する戦術指令は当時のメッセンジャーが馬で伝達する時には常に間
に合わず、それだからこそ前線指揮官と兵士は独自の判断で闘い、そのことによ
って勝利したように書かれている。
 その一方、クトゾフ将軍は馬上で寝てばかりいて、指令は「後退」だけ。しか
し、撤退する際に村を焼いていくので、後に入るナポレオン軍は食料調達に苦し
みながら前へ前へと進まざるをえない。そして、秋が過ぎ、最大最強の援軍、ロ
シアの冬将軍が軽装備のフランス軍を襲う。ロジスティックに弱いフランス軍が
モスクワから撤退を余儀なくされた時、クトゾフ将軍が温存していたロシア軍
(軍備の点では劣っている)は追撃を開始する。ナポレオンは、壊滅状態のフラ
ンス軍の先頭に立ってパリに逃げ帰る。このシナリオは、第二次世界大戦中の破
竹のごとく進撃してきたヒトラーの独軍の敗北と重ねてみることができる。もち
ろん、後者の方がより残酷で、悲劇的な戦争であった。後に、トルストイの『戦
争と平和』は、ショスタコビッチの作曲によって民族主義の昂揚を刺激するオペ
ラに仕立てられた。原作をかなり歪めたこのオペラを私もモスクワ滞在中にボリ
ショイ劇場でみたが、4時間を越す大作で、しかも社会主義リアリズム調の演出
なので、観ているうちにすっかりくたびれてしまった。

 歴史を背景とする大河小説が好きだったが、少し毛色が変わったところでは、
シュテファン・ツワイクを熱読した。最初に読んだのは、中野好夫訳で岩波新書
に入っていた『ジョゼフ・フーシェ』であった。権謀術数によって警察権力を手
中にし、フランス革命最左派から革命弾圧派へと、時流に乗って自らを変容させ
ていく男の非情冷酷な生き方を巧みに描いている。あまりに面白かったので、読
了した翌朝、同じクラブで仲の良かったガールフレンドにすすめたところ、彼女
から「こういう男の物語が面白いとは、そのメンタリティが理解できない」とい
う、手厳しい反応がこの本と一緒に返ってきた。
 ツワイクにはその後も入れ込み、『マリーアントワネット』『人生の星の輝く
時』『三人の巨匠』など、次々読んだ。後になってみすず書房から出たツワイク
全集も買い込んだ。しかし、初期の短編小説にはうんざりしてしまった。
 毎日新聞記者として長らくウィーンに滞在していて、後に防衛大学教授となっ
た塚本哲也が1990年代に書いた『エリザベート』は大部ながら一気に読み通せる
本で、大宅壮一賞を受賞したノンフィクションだが、その文体と描写方法はまさ
にツワイク調に他ならない。ハプスブルク家最後の皇女として生まれ、第二次大
戦後に社会主義者として死んでいくエリザベートのドラマティックな個人史とし
てだけでなく、第一次大戦前から第二次大戦後にいたる中東欧の歴史としてもこ
の本は一読の価値がある。

 歴史ということになると、大学時代にE.H.カーと出逢ったことによって歴史観
に大きな影響を受けた。最初に読んだ本は、岩波新書の『新しい社会』であった。
その後、やはり岩波新書で出版され、今も再版を重ねている『歴史とは何か』の
骨格となる考え方がこの『新しい社会』の中で示されている。両書の訳は共に清
水幾太郎で、非常に読みやすい名文だ。しかし『新しい社会』のあとがきに「新
しい社会は言うまでもなく社会主義社会です。フランス革命後の諸条件の発展と
変化が、この退引ならぬ地点に私たちを連れてきてしまったのです。思い切って
門を入らねば、私たちは亡びるほかはありません」と書いているが、これはカー
の意見とは異なっており、清水の当時の心情を吐露したものであろう。この数年
後に清水が『歴史とは何か』を訳した時、すでに彼は「精神の離陸」をとげてお
り、むしろその頃にはもっとE.H.カーの歴史観に接近していたのではないか思う。
全学連委員長だった香山健一を学習院大学に引っぱったのは、その頃の清水幾太
郎であった。 
 E.H.カーの代表的著作は何といっても『危機の20年』であろう。これは第一次
世界大戦から第二次大戦までの戦間期の国際政治を分析し、論じたもので、国際
関係を学ぶものにとって古典中の古典である。岩波書店よりこの復刻版が数年前
に出されたが、文章が旧カナと旧い漢字で書かれたままであるだけでなく、訳そ
のものもこなれているとは言い難い。私も後に英文の原本で読んで、はるかに容
易に理解できた。

(5)

 大学2年の時だったと思うが、私が呼びかけて結成された「いばらの会」とい
うサークルを主催していた。これは2年ばかり続いた。キリスト教、マルクス主
義、実存主義を知り、それぞれと向き合ってみようという趣旨だった。同級生だ
けでなく、下級生の参加もかなりあった。当時は、学生の間でこうした大思想に
たいする関心は高かった。
この頃、キリスト教の側からマルクス主義を理解しようとする動きもあり、その
代表的なリーダーが代々木上原教会の赤岩栄牧師であった。この人は共産党支持
をハッキリと標榜していたキリスト者で、社会的発言も活発だった。一期生で、
リベルテの先輩だった桑ケ谷森男のすすめで、赤岩牧師の説教を何回か聞きに行
ったし、彼が発行する月刊誌『指』も購読していた。

 マルクス主義には関心があったものの、『共産党宣言』などの政治的文書以外、
マルクスの著作はあまりとっつき易いものではなく、それほどのめり込まなかっ
た。しかし、社会党系理論団体では当時最も有力、というよりもほとんど唯一の
存在だった社会主義協会のマルクス主義学習会に参加し、雑誌『社会主義』を定
期的に購読していた。しかし、原論的なものよりも、山川均や清水慎三などの時
事的評論のほうをより関心をもって読んでいた。

 山川均の国際問題に関する評論が特に気に入っていた。山川のソ連や社会主義
圏にたいするやや批判的なスタンス、特にプロレタリア独裁を含む、独裁への批
判や、前衛政党ではなく共同戦線的大衆政党としてみる日本社会党論に共鳴した。
これにたいして協会主流の学者達、特に向坂逸郎は、日本共産党は批判するが、
ソ連共産党は基本的に正しいとみて、ソ連型社会主義を擁護していた。
 社会主義協会の事務所は当時、浜松町の合化労連会館の中にあった。最後まで
協会派として通した上野健一(後に衆議院議員)、後に協会を離れる関山信之
(前衆議院議員)が事務局にいた。私が所属した学習会は、総評書記局の中核に
いた九州大出身の三羽烏の一人、中村健治がチューターであった。非常に真面目
で親切な人だった中村さんにたいしてではなく、社会主義協会そのものに疑問と
不満を持つようになっていたので、この読書会からは1年前後で離脱した。

 その後、中村健治さん自身も社会主義協会に批判的となり、全電通東京地本委
員長の蜂谷寛治、都職労副委員長鈴木八郎、東京地評佐藤栄男事務局長などの労
働組合幹部と連名で、社会主義協会と決別を声明し、同協会を糾弾するビラを社
会党大会でまくというドラマティックな行動に出て、多くの人達を驚かした。中
村健治は一本気な人だったので、こうした行動に出たのだろうが、私の気質では
とてもできないことなので感銘を受けた。その後、中村さんに一回だけ会った。
その時には総評を離れ、東海大学で教鞭をとっていた。中村さんは挫折感を抱い
たままだったと思うが、大学定年に達するはるか前に惜しくも急逝した。労働問
題を専門として健筆をふるっている中村圭介東大教授は建治さんのご子息である。
去る8月の連合総研政策委員会で圭介さんの隣にたまたま座ったので、挨拶代わ
りにこの話を披露した。お宅にお邪魔したことも話したが、その頃は幼少のこと
で、もちろん憶えておられなかった。

 大学2、3年生の2年間は多くの時を学外での活動に費やした。一つは社会党
青年部の活動にのめり込んだこと、二つ目は大学社研の連合体である関東社研連
書記長となって学生運動とのかかわりが深まったことであった。社研連書記局は
駿河台の明治大学にあり、定期券は都心まで買っていた。明大食堂でわれわれが
よく注文していたのが、「カレー・ウドン・ライス」だった。それは、カレーウ
ドンをまず食べ、残り汁にライスを投入するという食べ方である。これが最も安
価に空腹を充たす方法だった。当時、私はアルコール類を一滴も口にしなかった
が、友人達も酒を飲むものはほとんどいなかった。それは禁欲的というよりも、
金がなかった故でもあるし、飲食への出費の優先度が低かったからであろう。

 後に開発途上国の労働組合幹部と多く友人となったが、彼等のほとんども酒を
飲まなかった。中には宗教的な理由(それも生活を破綻させないための教えだと
思う)によるものもいたが、ほとんどは酒を飲む余裕がないからだったと思う。
 この頃に出会って、大きな影響を受けた佐藤昇と松下圭一についてはすでに書
いたのでここではふれない。

 吉祥寺から三鷹の大学に行くことよりも、東京都心に向かう日々の方が増えて
いった。新宿三越裏にあった風月堂という喫茶店が気に入っていた。ここに開店
直後に入って新聞数紙に目を通し、次の行動に入るのが日課のようになっていた。
風月堂のコーヒー代のシステムは10時開店から11時までは30円、11時から12時ま
では50円、その後は70円であった。当時、10円だった朝刊を数紙読むとコーヒー
代がうくのが、この店を気に入っていた理由の一つだった。この喫茶店はクラシ
ック音楽を聞かせるところとして、若い文化人や学生に人気があった。全学連委
員長香山健一や、社学同委員長中村光男ら学生運動活動家と偶然に会うことも珍
しくなかった。この風月堂と有楽町駅前の「レンガ」(今はない)が運動上の友
人達との待合わせの場であった。

 学外活動にはやはり出費もかさむので、父からの仕送りだけでは不足するよう
になり、家庭教師をしていた。幸い中学時代の先生の紹介で相手をみつけたり、
中学当時の友人の弟を教えたりしていた。多い時には三口の家庭教師を引き受け
ていた。その頃は、今のようにアルバイト口は多くなかったが、その中では家庭
教師が一番割りの良い仕事だった。しかし、思い出すのは、「金を稼ぐのに多く
の時間を遣い、それを使うのに時間がいるのでは人生のムダ」と早くから喝破し
ていた畏友、仲井富の言である。
 一時は大学を中退しようと考えたこともあったが、友人達のアドバイスや支援
もあって大学を留年することなく、卒業できた。4年生の時には大学に全面的に
カムバックし、40単位以上も積み残していた課目の習得に精を出した。1年生と
一緒に、グランドを走り、出席不足で残っていた体育の単位もとった。

 ようやく卒業の見通しはたったが、就職活動をせず、将来は専従的運動家にな
ろうとぼんやり考えていた私の背中を押したのが、一篇の論文であった。それは
「工作者の思想」で、筆者は谷川雁。この論文は、復刊したばかりの『思想の科
学』1959年1月号に掲載されていた。
 谷川は「インテリには労働者の言葉」で、「労働者にはインテリの言葉」で語
るのが工作者の役割であると説いていた。インテリにも労働者にもなりきれない
思いを抱いていた私にとって、これは魅力ある示唆であった。こうして、「工作
者」としての道をさしたる見通しもなく歩み出すことになった。
                     (筆者は姫路獨協大学名誉教授)

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