■回想のライブラリー(15)             初岡 昌一郎

────────────────────────────────────
(1)

 9月末から旧ユーゴの4カ国を駆け足で回ってきた。ベオグラードでの短い留
学生活を切り上げて1964年夏に帰国してから、実に42年ぶりのユーゴスラビ
アであった。最近は旧ユーゴにたいする関心も薄れ、二度と行くことはあるまい
と思っていたのだが、急に思いたったにはそれなりの契機があった。
 それは、今春、留学時代の旧友、田中一生がセルビア文化勲章(プーク・カラ
ジッチ賞)を受賞したことから始まった。田中君の教え子や、川崎で彼が長年や
ってきた市民講座の参加者などが、これを機会に旧ユーゴ訪問を計画した。もと
もとこの旅は今年3月に予定されていたのだが、田中君の健康状態から9月に延
期されたため、私にも参加のチャンスが生れた。
 
 田中一生は私と同年の1935年生れで、北海道美唄市の出身だ。1959年に早稲
田大学文学部露文科を卒業し、しばらくの会社勤めを経てユーゴに留学した。彼
がユーゴの国費奨学金を申請した時の推薦者は、日本・ユーゴスラビア友好協会
久留島秀三郎会長であった。久留島氏は同和鉱業社長当時、ユーゴの求めに応じ
て50年代に再三この国に技術指導に出かけた人である。技術畑出身の社長とは
いえ、社長自らが技術援助に出かけるということができた時代であったことにい
まさらながら感銘を受ける。今なら、社長自らが技術指導に行くというと「殿ご
乱心」あつかいになろう。この時代、戦後は若く、日本の経営者にはこのような
意気に感じて動く人がいた。
 
 ユーゴがすっかり気に入った久留島氏は、日・ユ友好協会を設立し、ユーゴと
の交流を支援した。今回の参加者の中には、久留島の援助によって、1962年に
ユーゴで行われた青年学生祭典に参加した二人の同年配者もあった。
 私や山崎洋君がベオグラード大学大学院に入った時には、田中一生は既に2年
間の大学院課程を修了し、自費の研究生として残っていた。田中君はNHK支局
の現地助手や、商社の仕事を手伝いながら自活していたので、多忙であり、私の
ように気ままに遊び回ってはいなかった。彼は露文出身でロシア語をマスターし
ていた利点もあり、語学能力は抜群で、ベオグラードの日本人社会で彼に並ぶも
のはいなかった。
 
 6年の滞在後、日本に帰国してからも彼はユーゴ文学の研究と翻訳・紹介に一
貫して打ち込んできた。なかでも、ユーゴスラビア初のノーベル文学賞受賞作家、
イボ・アンドリッチと国民的詩人であるニェゴシュの研究と紹介で高い評価を受
けている。彼はその間、定職にはつかず、出版社の編集やいくつかの大学での非
常勤講師をしながら、自分の研究と翻訳に没頭してきた。経済的には恵まれなか
ったが、彼は初志を貫徹し、頭を高く上げて生きてきた。
 今回の受賞後、朝日新聞や出身地の北海道新聞などの人物プロフィールでとり
あげられてから、にわかに彼の身辺があわただしくなった。天皇、皇后両陛下に
御進講を依頼されたり、9月末のNHKラジオで二回にわたり、40分ずつのイ
ンタビューを受けるなど、彼の業績にようやく光があてられるようになった。ま
さに、遅咲きの大輪である。
 
 田中君とは異なる分野に私が身をおいたために、帰国以来毎年の賀状を欠かさ
ず交換するだけの間柄になっていた。ところが、この連載の第8回でとりあげた
旧友山崎洋君の御母堂山崎淑子さんが、今年5月に91才で逝去されたために、
彼と一緒に横浜のご自宅にお通夜に行ったことから旧交が復活した。山崎淑子さ
んはゾルゲ事件で網走に獄死したユーゴ人ブーケリッチと結婚し、戦中・戦後期
を勇敢に生きてきた人で、その死は若き日の彼女が颯爽と銀座を闊歩している写
真と共に、7月24日の朝日夕刊で回想再録されていたので、目をとめられた方
もあろう。
 7月に山崎君がお母さんの身辺と遺産の整理に帰国した時、彼を囲んで田中と
私の三人が横浜でゆっくりと飲む機会があった。
 アンドリッチとニェゴシュという二人のユーゴ文学者の足跡を訪ねる旅を計
画している田中君のプランには山崎君も深くかかわっており、その組織に力を貸
しているという。私も即座に参加を申し込み、割り込ませてもらうことになった。
このような経緯から私は思いがけもなくセンチメンタル・ジャーニーに出発する
ことになった。

(2)

 ウィーンア経由でベオグラードに着いたこのアドリア会(会長田中一生)の一
行を出迎えてくれたのは、山崎君の次男、久君であった。これから私達がユーゴ
を去るまでの11日間、ガイド兼世話役としてずっと同行してくれた。ヒサシが
本当の呼び名なのだが、いつのまにか「キューちゃん」と皆に名づけられてしま
った。なかなかハンサムな好青年だ。私がアラン・ドロンに似ていると評しても、
彼にはピンとこず、そのような俳優は知らないという。世代の差だ。
 ベオグラードについたのは夜も更けていたが、早速街に出てみる。軍司令部本
部などいくつかのビルはNATO空爆による残骸をそのままにしているが、少な
くとも中心街には内戦の傷跡はあまりみられない。むしろ、街路はきれいに清掃
されており、西欧に比較すれば古い時代の静かなたたずまいを保っている。中心
街の下町には街路にまで店を張り出した飲食店が賑わっていた。しかし、どうも
こうした風景は私の記憶にまったくつながらない。若い時には他のことに気をと
られていて、街の風景にあまり関心を払わなかったためかもしれない。国会議事
堂やオペラ座など、いくつかの建物には思い出もあるが、街全体としてはどうも
まったく知らない町のようだった。
 翌日は、ホテルでの早朝学習会があり、この旅行の参加者にたいして「チトー
時代のユーゴスラビア」について解説するようにという田中君の指名を受けて、
私が概略、次のようなことを述べた。

 (1) チトーは本名はヨシブ・ブロズで、クロアチア人の父とスロベニア人の母
の間に生れた貧農の息子。少年時代より家庭を離れ、様々な仕事を経て機械工と
なる。たたきあげの苦労人で、独学でドイツ語などの語学や経済学などを勉強す
る努力家であった。第一次世界大戦にはオストロ・ハンガリア帝国の兵士として
従軍し、ロシアの捕虜となる。しかし、機械工(鍛冶屋のようなもの)としての
腕を見込まれてロシアの田舎で職を得、ロシア人と結婚、各地を放浪ののちに帰
国後、労働運動に参加するようになった。

 (2) ロシア革命の影響を受け、共産主義者となるが、ユーゴ共産党はコミンテ
ルンの指導を受けており、指導部は国外にあって、国内組織は弱体だった。チト
ーは早くから国内組織の強化とそれを主体として運動を重視していたので、国外
の指導部から離れ、帰国した。そして、厳しい非合法活動を経て、後に党の中核
となる同志を国内で育てていった。彼は逮捕と投獄を何回も経験したが、常に運
動の先頭に立っていた。

 (3) 第二次世界大戦前夜、ユーゴ王国はナチス・ドイツと同盟関係を結んだ。
しかし、1941年3月、独ソ戦開戦直前にユーゴでは軍人によるクーデターが発
生した。これは国内問題とめぐる対立を契機としていたが、ユーゴ国内の反独・
親ソの世論を懸念していたヒトラーはこれに過剰反応し、直ちにベオグラードへ
の空爆とユーゴへの軍事侵入を命令した。この予期しなかったユーゴ戦のために、
ロシア侵攻が予定よりも2カ月遅れ、独ソ戦は当初の予定の4月ではなく、6月
に開始された。この2カ月の遅延がロシアに攻め入ったドイツ軍は軍事作戦が終
了しないうちに冬将軍に遭遇することになり、敗北につながったとみることがで
きる。しかし、その後のソ連とユーゴが対立したために、ソ連はこの事実を無視
し、ユーゴの役割を非常に過小評価した。

 (4) ドイツ軍の電撃的進入にたいし、ユーゴ王国政府は何らの抵抗もせずに、
ロンドンに亡命。国内は無政府状態となり、レジスタンスが共産党の指導によっ
て開始された。だが、パルチザン部隊は武器に乏しく、軍事的訓練を受けたもの
も少なかった。当初の数は3、4000人程度であった。ヒトラーがユーゴが国家と
して亡びたと宣言、スターリンもそれを受けてモスクワにあったユーゴ大使館を
直ちに否認。

 (5) パルチザンは半年後の1941年末に4万人に増加し、1944年には40万人、
解放時の45年には80万人になっていた。第二次大戦中に最初にパルチザン闘争
に立ち上がったのはユーゴ国民であり、独力で国土を解放したのもユーゴだけで
あった。日本でよく紹介されていたフランスやイタリアのレジスタンスやパルチ
ザン闘争はユーゴよりもはるかに遅れて始まった。本格化したのはアメリカ軍の
介入により、ドイツの敗北が決定的となってからであるし、それらの国における
国土解放は米軍を主力とする連合軍によるものであり、国内のパルチザンの役割
は補助的であった。

 (6) ユーゴのパルチザンは軍事闘争だけではなく、解放地域に行政機能を組織
しなければならなかった。1943年11月に、チトーを議長として、国民解放反フ
ァシズム評議会が臨時政府を設立したが、国際的にはユーゴの山中で孤立して戦
う人達のことはほとんどしられておらず、国際的な認知と支持をうけるようにな
るのは解放直前になってからのことであった。戦後の1945年1月に制憲議会が
選出され、ユーゴスラビア人民連邦共和国が宣言された。

 (7) 他の東欧諸国では共産党指導部は戦争中はモスクワに亡命しており、ソ連
占領軍と共に帰国し、その軍事力を背景として政権を握ったのであって、国民の
過半数の支持を受けていた共産党は、ユーゴを除き、他にはどこにも存在しなか
った。戦後の国際共産主義運動の連絡調整機関であるコミンフォルムがベオグラ
ードに置かれることになった。しかし、水平的な国際関係を望むユーゴとソ連を
中心として垂直的な統合を求めるスターリンの抗争が公然化し、同機関設立の翌
1948年6月にユーゴスラビアが除名された。こうしてユーゴは共産圏から離れ
て、独自の道を歩まざるをえなくなった。そこから、外には非同盟中立路線が、
内には自主管理社会主義が選択されることになった。

 この短い要約的説明では、ユーゴ解放とチトー達のドラマに満ちた闘いの歴史
を活写することは到底できない。第二次世界大戦の最大の英雄的叙事詩をもっと
くわしく知るための手引きとして2冊の本を紹介しておきたい。一つは、既にこ
のシリーズの中で紹介したデディエ『チトーは語る』(高橋正雄訳、新時代社)
で、もう一つは、それよりも少し遅れて書かれたヴィンテルハルテル『チトー伝』
(田中一生訳)で、1972年に徳間書店より出版されている。しかし、両書とも
絶版となっており、古本屋で運良くみつけるか、図書館で探すしかない。
 余談だが、『チトー伝』の後書きで、田中君は次のように書いている。
 「私的なことになるが、わたしが早稲田大学に入った年にハンガリー事件が起
こっている。露文科というのは、年齢もまちまちで、一癖ありそうな輩の多いと
ころだった」
 「また露文科には変な不文律があって、この科に入ったものはそのまま「ソ研」
の会員になるのがノーマルである、といった雰囲気があった。政治的な理由があ
ったのかもしれない。そうした空気につよく反発した3、4人が、多少は判官び
いきも働いて「ユーゴ研」をつくったのは、3年も終り頃だったろうか。「ユー
ゴ研」といっても、もっぱら大使館員と接触して英文や露文の資料をもらってく
るだけ。それでも、ユーゴの立場は痛いほどわかるのだった。周囲が「ユーゴを
罵倒すればするほど、私達はユーゴが好きになっていったように思われる。
 ともかく、片寄った情報だけで皆かってなドグマを信仰した不思議な時代だっ
た」
 田中君も紹介しているように、この頃、社会党国際部書記だった山口房雄(後
に東海大教授)がユーゴ研究会を主宰し、玉城素と共にこの国について精力的に
紹介していたことを付け加えておきたい。

(3)

 さて話をベオグラード第二日目の朝に戻す。学習会の後、バスで街から少しは
ずれた丘の上にある旧チトー大統領官邸に向かった。今は記念館となっており、
一般に開放されている。私達が留学生活をしていた頃は、要人や国賓を除いて足
を踏み入れることのできないところだった。館内にはチトーの墓があった。大き
な墓石にチトーの名前と生年と没年だけが刻まれたシンプルなもので、彼にふさ
わしいものだと思われた。
 美しい林に囲まれており、よく整備された庭があって散歩によいところだ。し
かし、館内の展示は、大統領にささげられた各国や国内各地からの土産品や記念
品の類が主で、私は国内外を問わず、このような「お宝」には全く関心がないの
で素通りし、喫茶室でトルココーヒーをゆっくりと飲んでいた。
 その後、市内でアンドリッチが住んでいたアパート(現在はやはり記念館)を
見学し、その書斎や遺品の類を見学した。彼の小説は50カ国語以上に翻訳され
ており、田中訳の一冊も収蔵されていた。
 
 私はかって恒文社版の「東欧文学全集」でアンドリッチの『ドリナの橋』を読
んではいたが、旅行前に田中君より贈呈された『ボスニア物語』(田中、山崎洋
共訳、彩流社)と『サラエボの鐘』(田中、山崎共訳、恒文社)の2冊を読んだ。
そして、旅行中に三部作の一つ『サラエボの女』(田中訳、恒文社)を読んだ。
これは、一人の女性の風変わりな生き方を時代背景を織り込みながら描いたもの
で、ストーリーは他の小説に比して単純だが、ドラマ性があって面白かった。
 三日目の早朝、ベオグラードを離れて、貸切バスで一路、ボスニア共和国を目
指す。1000メートル近い峠を越えて、アンドリッチが育ち、小学校に通ってい
たヴィシェグラードを目指す。峠の先に国境があり、セルビア側とボスニア側で
それぞれパスポートを山崎久君が集めて、運転手と一緒に検問所に持参する。わ
れわれはバスの中で待っていたが、時間はかなりかかった。
 
 バスの窓からみると駐車スペースで長距離トラックの運転手が車体の下にと
りつけられられているキチネット(このような設備は初めてみた)で昼食を作り
はじめている。おそらく、食費を節約するために、彼はいつも自炊しているのだ
ろう。手際よく、フライパンを火の上にかけて料理している。
 国境を越えるとセルビア・ディナールは通用しないので、換金が必要となる。
ボスニア・マルクだ。六つの共和国が独立するとそれぞれ異なる通貨を独自に採
用したので、まことに不便きわまりない。
 ヴィシェグラードはドリナ河畔の小さな町で、人口は約4000人。内戦の傷跡
がまだ生々しく感じられる。一日がかりのバス移動の後に、疲れ切ってチェック
インしたホテルは、荒れた雰囲気で寒々しい。「ヴィリネ・ブラス」というこの
ホテルは四つ星をつけているが、どうみても三つ星以下だ。レストランにおりて
行っても、われわれ一行以外に客の姿はない。
 
 翌日は、ノーベル文学賞を受賞したアンドリッチの代表作の舞台である「ドリ
ナの橋」を渡って、彼が小学校に通っていた当時の家に行く。ドリナ川はこのあ
たりではゆっくり流れている。川幅が広く、満々たる水をたたえている。この川
はやがてセルビアに入ってドナウに合流する。
 1389年にセルビアがコソボの決戦でトルコに敗れて以後、ボスニアもその支
配下に入り、5世紀以上にわたってトルコ領となっていた。したがって、その非
ヨーロッパ的影響は根強く残っている。しかし、セルビア国境に近いこの町は内
戦後はセルビア人地区となり、回教徒はほとんど残っていないとのことである。
 トルコはその支配地の異民族の幼童を組織的に拉致してゆき、彼らに特訓をほ
どこして、忠実かつ最強の親衛軍を育成していた。これはイエニチェリと呼ばれ
る。この町から連れ去られた子どもの一人がイエニチェリとして頭角を現し、つ
いには宰相となって、故郷に錦を飾ってこの橋を建造したといわれている。
 16世紀に造られた橋は11のアーチからなる美しい石造りである。「第一次大
戦が勃発して橋の中央部が爆破されるまで、350年にわたる時の流れを、数多く
のエピソードで綴った一大叙事詩」(田中一生、『月刊百科』212号、平凡社、1980
年5月)がアンドリッチの『ドリナの橋』である。
 
 同じ一文で、この小説を「風変わり」という田中は、次のように書いている。
「一見したところなんの筋立てもないエピソードの集積が、この橋と国境の町を
めぐって展開されるからだけではない。橋とその中央部に設けられた「ソファ」
と称する石のテラスが主な舞台を提供し、小説の結構をたもつ役をはたすと同時
に、ついには橋そのものが主人公となってたち現れてくるからである。
 このテラスでは小さな絵や写真等の土産物を敷物の上で並べて売っている小
母さんがいるし、ソファの上ではセルビア人の老婦人達が雑談しており、われわ
れに気軽に声をかけてくる。一行の中には早速これを写真に収める人もいる。
 橋の向こう側にあるアンドリッチの家周辺は、以前、混住区ないし回教徒地区
であったのであろう。内戦で破壊されたまま、無住となっている家や建物が目立
つ。アンドリッチは早く父を失い、母と一緒に身を寄せていたのがここにあった
伯母の家だった。小さい家で「アンドリッチの旧家」を示す文字盤が掲げられて
いなければ見過ごしてしまう。この家はもう無住となっており、無断で裏庭に回
ってみたが、草茫々、よく見えるのはドリナ川の流れだけだった。
 
 アンドリッチはこの土地で小学校を卒業すると、サラエボのギムナジュームに
入る。われわれもその足跡を追って翌朝早くサラエボに向かう。サラエボまでは
遠くないが、11時にそのギムナジュームを訪問することになっている。休日に
もかかわらず、先生達がわざわざこの一行を待ち受けているという。サラエボへ
の途中、パルチザンが「ネレトバの戦い」という映画ともなった、ファシスト軍
と最大の激戦を行ったネレトバ河畔で一服。私はトルココーヒーだが、多くの人
は、粉が底にたまるこの煎れ方のコーヒーがなじめないという。
 ネレトバ川上流のスーチェスカにチトー達のパルチザン本部があった。1964
年春にそこで開催されたユーゴ青年同盟主催の青年学生シンポジウムに参加し
たことを思い出した。この後、高屋定国さんとアドリア海岸を回る計画を立てて
いた。前にも書いたが高屋は私達より年長で、既に京都精華大学の助教授であっ
た。しかし、気持の若い坊ちゃん気質の人で、あまり常人とはいえない私でさえ
も驚くような行動に出る人だった。ユーゴというとこの人を思い出さずにはおれ
ない。
 
 この時、スーチェスカに現れた高屋さんは、その愛車フォルクスワーゲンにど
こかで“拾った”という、日本人の若い女性を同乗させていた。それだけならい
いのだが、彼の新車の側面は大破しており、片側のドアが全く開けられない。若
い女性も軽いケガをしており、「死にかけた」と彼女がいう。しかし、高屋さん
は一向に気にせず、予定通り回ろうという。せっかく遠いところまで迎えにきて
くれた彼にノーともいえず、恐る恐るこの車に乗せてもらった。この時にはスプ
リトからアドリア海を下り、ドブロブニクを通過し、今回行く予定のコトルまで
行った。高屋さんのことや彼との旅はについて書くと、ますます主題から離れる
ので、ここまでにしておく。この高屋さん、まだ健在でお孫さんの相手をしなが
ら宝塚方面で老後を静かに送っているようだが、最近彼に会った山崎君によると
やや「鬱気味」だとのこと。信じられない。

(4)

 サラエボは人口50万人の都市で、内戦中は有数の激戦地であった。ボスニア
戦争(内戦)では20万人の死者と200万人の難民がでたといわれる(いずれも
正確な数は不明)。
 現在、この都市は基本的にはムスリム人地区となっており、われわれのバスの
セルビア人運転手君は、市内にバスを乗り入れるのを嫌がる。セルビア・ナンバ
ーの車は、国境を越えて他の共和国に入ると危険が伴うという。他の共和国でも、
セルビア人地区に入ると彼がリラックスするのがわかる。
 彼は以前に長距離トラックの運転手だったが、ウクライナまで長距離の仕事で
数日間留守をして帰宅してみると、その間に愛妻と3歳の愛娘が何者かに惨殺さ
れていたという。彼のケースは単なる犯罪か、エスニッククレンジングかわから
ないが、こういう悲劇は内戦中各地で繰り返されてきた。
 ボスニアのムスリム人の中では、アンドリッチは「南スラブ諸民族の大同団結
(ユーゴスラビア)を唱える大セルビア主義者」とみられているようだ。これは
あまりにも偏見にみちた評価であろう。
 
 アンドリッチの代表的三部作はいずれもボスニアを主たる舞台としているが、
彼は民族主義的作家というよりも、国際主義者であった。
 彼は大学と大学院の時代をザグレブ(クロアチアの首都)、ウィーン、さらに
ポーランドの古都クラカフで過ごしている。第一次大戦中には、ハプスブルグ家
皇太子夫妻をサラエボで暗殺したグループに関係していた容疑で逮捕され、投獄
の憂き目にも会った。戦後は外務省に入り、1941年まで外交官生活を送った。
大学時代からスラブ文学を研究していたが、外交官生活中にも三冊の短編集を出
していた。彼が本格的な執筆を行ったのは第二次世界大戦中で、この時期に代表
的三部作が生れた。戦後、ユーゴの代表的文学者とみられるようになった彼はベ
オグラードに住み、作家同盟議長や連邦議会議員として公的な活動を行った。彼
は1961年にノーベル文学賞を受賞し、75年に死去した。
 サラエボで存在感をなくしているのはアンドリッチだけではない。オーストリ
アの皇太子を暗殺した青年プリンチッペもセルビア人だったからであろうが、彼
が待ち伏せしていたミリヤッカ川沿道の街角からその足跡として記念されてい
た史実までも消されている。
 
 サラエボ市中心街の由緒あるホテル・オイローペもむごたらしい残骸をさらし
たままである。街の周囲の丘には、新しく作られた墓地があちこちに散見される。
これらは、内戦で死去した人たちの集団墓地で民族、宗教別に造られている。同
じような風景は他の場所でもみられた。このような集団墓地方式は、憎悪の記憶
を保存していくだろう。
 下町のスーク(市場)は再建されて活気を呈していたが、ほとんどが観光客目
当ての店で、地元の人達が買い物する場ではなくなっている。二日目には街に出
る意欲を失い、ホテルで半日のんびりしてしまった。
 次の目的地ドブロブニクに行く途中、モスタールに立寄った。ここの眼鏡橋は
非常に有名なランドマークであり、これをドリナの橋と間違える人もいる。実は
何をかくそう、私も以前はそのように思い込んでいた。この橋も内戦で爆破され
たのだが、お互いに相手側の故にしている。ここもムスリム地区だ。以前に高屋
さんと立寄ったのだが、橋と川だけは憶えているものの、風景がすっかり変化し
ている。
 
 ここで一休みしたので、この地で有名なワインを一杯飲もうとしたが、どの店
もアルコール類は売っていないという。自分達はムスリムだから飲まないのはわ
かるが、観光客にまでも売らなくなっている。これも様変わりだ。「売る店は爆
破されてしまうだろうな」とは田中君。
 ここから、ドブロブニクへの道は遠かった。なにしろ、アドリア海岸に直行す
ると、途中でクロアチアに入り、またボスニア回廊として休戦協定で海への出口
が確保されているボスニア領に入り、またすぐにクロアチアに再入国するという
複雑なことになるので、手続きが非常に面倒だ。これを避けて山の中を回り道す
ることになった。
 田舎道に入ると随所に破壊された家屋がみられる。無人となった集落もあちこ
ちある。それだけではない。狭い道端に「地雷注意」の立て看板がみえる。たま
に対向車があるとお互いスピードを落とし、舗装されたところからはみ出さない
よう注意しながらすれ違う。
 
 仲間の一人がもっている『地球の歩き方』というガイドブックを見せてもらう
と「この辺はハイキングに最適だが、地雷に注意」と書いてある。これでは何の
ガイドにもならない。ハイキングを勧めているのか、止めさせようとするのかわ
からないが、実際に風景を見た人が書いたとはとても思えない。
 ドブロブニクはこれで三回目。内戦中にかなり壊されたのに、すっかり再建さ
れている。ハイシーズンは終わっているのに、観光客があふれている。フランス
語、イタリア語、ドイツ語、それに英語もいたるところで飛び交っている。アド
リア海沿岸はいずこもイタリアの街によく似ている。ただ、イタリアよりも清潔
で静かだ。日本人団体観光客の姿をはじめてここでみかけたが、これからもっと
増加するだろう。クロアチア、特にドブロブニクはイタリアよりも物価ははるか
に安いものの、他の旧ユーゴの諸地方と比較するとかなり高い。
 ドブロブニクでは市庁舎で副市長に歓迎を受け、同じ建物の中にある古文書館
をみせてもらった。このアーカイブは有名で、大著『地中海』(全5巻、藤原書
店)で有名な、フランスの歴史家フェルナン・ブローデルもここでかなりの研究
を行ったという。
 
 ドブロブニクでようやく念願のギリツエにありついた。5軒のレストランを訪
ね歩いた後にこのレストランを見つけた。この街をはじめ沿岸部では海鮮レスト
ランは多いが、ギリツエという、子鰯のフライを出すところは意外に少なく、そ
れだけを出すところはほとんどない。安い魚だからかもしれない。
 ベオグラードにはギリツエ専門の大衆的レストラン『ポレット』があって、留
学時代よく行った。これをダルマチアの濃い目の赤ワインで食べる。ベオグラー
ドでの初日、この店のことを尋ねたが、今はより高級な魚料理専門店になってい
るという。それで断念。考えてみるとセルビアは海への直接のアクセスを失って
いるのだ。かつてベオグラードに旅行した友人に、このギリツエをすすめておい
た。その人が山崎洋君に話したところ、「青春の思い出でしょう」と笑って連れ
て行かなかった理由がわかった。
 
 ドブロブニク港に面した大衆食堂でギリツエを頼むと、大きな鉄鍋に沢山その
フライを盛り付けてきた。その他に、イカやエビもどっさりきたので、みんなで
頑張ったがとても空にするのは無理だった。数日ぶりの魚料理でみんな大喜びだ
ったが、わが運転手君だけは楽しまない。彼は肉しか食べないのだ。
 最後の訪問地、モンテネグロ共和国のコトルでは、横浜から帰ったばかりの山
崎洋君が合流した。この小さな街も「世界文化遺産」に指定されている。内戦で
かなりひどく破壊されたのだが、見事に復旧している。ベオグラード大学建築学
部の学生達が中心になり、昔の写真や絵をもとに復元したという。街は城壁で完
全に囲まれており、山にもめぐらされている外壁は夜になるとライトアップされ、
とても綺麗だ。
 
 モンテネグロ(黒い山の意味で、日本ではかつて黒山国と訳されていたことも
ある)は現地語ではツルナゴーラで、文字通り山国である。人口は僅かに60万。
セルビアとの連邦を解消して、最近独立したばかりだが、その独立した目的は早
期にEUに加入しようとすることにある。EUに評判が悪いセルビアと組んでい
ると加盟が困難と判断したからだ。EU未加盟で、もちろんユーロ圏にも加入し
ていないのに、国内通貨をユーロにしている。どうしてこんなことができるのだ
ろうと不思議だ。でも、旅行者にとっては換金の必要がなく、とても便利だ。わ
れわれはユーロを持参したのだが、旧ユーゴ各国で流通する主要外貨は圧倒的に
ユーロだ。ドルはすっかり影が薄くなっている。
 
 モンテネグロでは、その国民的詩人ニェゴシュを偲ぶ旅だ。彼は、1813年か
ら51年に生きた人で、その代表的叙事詩『山の花環』はほとんどのヨーロッパ
言語に翻訳されているが、日本語訳は田中、山崎共訳でこのほどようやく刊行さ
れた。美装の豪華本でセルビアで出版され、日本での販売は彩流社が担当してい
る。この書店は『バルカン入門』など、ユーゴ・東欧関係の本を最近、精力的に
出版している。
 田中、山崎両君は『山の花環』の翻訳に7年の心血を注いだ。この詩が中世の
セルビア語で書かれているので、彼らはこの訳文に当時の日本語を用い、しかも
七七調の詩文として訳すことを志したから大変だった。江戸中期の日本語をマス
ターするために、田中君は歌舞伎や浄瑠璃を勉強することから始める徹底振りで
あった。
 
 ニェゴシュは単なる詩人ではなく、ツェティネの修道院長であり、同時に聖俗
両界を代表してこの地方の君主ともなった。高い山の中にあるこの修道院に、田
中、山崎両氏に随行して、日本語訳の『山の花環』をおさめに行った。大歓迎を
受けた後に、院内の食堂で昼食をご馳走になった。院長をはじめ修道僧達とテー
ブルを囲む。メニューはトマトと玉ねぎのサラダ、レンズ豆のスープ、イカのリ
ゾットだった。修道院長が「日本からここまでの間で一番美味しい料理を作る私
の母でさえもほめた」と自慢するだけあり、とても美味だった。しかも、ワイン
も上等だ。ヨーロッパの修道院は、外から思われているほど禁欲的ではないが、
ここもその例にもれないようだ。
 
 コトルでの最後の夜は、町の博物館の広間を利用して、われわれを歓迎する民
族舞踊と歌の集いが文化協会の主催で行われた。ここでは、ニェゴシュの『山の
花環』の一節がセルビア語と日本語で披露された。これが地元テレビで中継され、
新聞でも報道された。日本語版の朗読者は山崎君。
 ベオグラードに帰った夜は、田中夫妻とわれわれ一行のために、永井駐セルビ
ア・モンテネグロ大使がその公邸で招宴を張ってくださった。永井大使はたまた
ま私の大学の後輩にあたる。折りしも中秋の満月。42年ぶりのユーゴの夜の締
めくくりの余韻を惜しみ、土田純二(62年のユーゴ青年蔡参加後、インドまで
スバルを運転して冒険旅行した体験談を後に出版し、話題を提供)と門井菊二(元
恒文社編集部、今はフリーの写真家兼編集者で、山梨の田舎で暮らす)の3人で、
ホテルのフロント横にある小さなバーが閉まった後も、ラキヤをちびちびなめな
がら、2時頃まで談笑した。まどろむ間もなく、5時起床で飛行場に向かい、ウ
ィーンを経由して帰国するという、高齢者にとってはかなり強行軍の旅だった。

(終りに)

 帰国した翌週のある朝、NHKラジオで山崎さんの奥さんの香代子さんによる
「ベオグラードたより」を聞いた。その中で、彼女はこの旅を「動く学校」と評
していた。行く先々で、メンバーが交互に報告したり、文学作品から関連部分を
読み上げて紹介したり、各地で関係者と文学と文化の交流を行ったからであろう。
山崎香代子さんは、青年同盟時代からの旧友ベリッチさんに連絡をとって、再会
を手配しようとしてくださった。しかし、私の知る青年ベリッチも今や老い、耳
がほとんど聞こえなくなっているという。彼は郊外の田舎に住んでいるので、残
念ながら訪ねる時間はなく、断念した。もう会う機会は二度とあるまい。
 ユーゴ内戦の原因について書く紙数はもはやここではない。ソ連・東欧の共産
主義体制が解体を始めたとき、ユーゴも脱皮を強いられるとは思ったものの、こ
のような内戦による分解に至るとは予想しなかった。
 
 チトーが1980年に死去して10年たち、後継世代は権力を引き継いだが、民
族的統一の理想や大義は受け継がなかった。権力を維持するために、彼らはいと
も容易に「自主管理社会主義」という衣を「民族主義」という流行の装いに着換
えたのである。民族や宗教を理由とする対立が顕在化し、戦争に向かったのは、
それを政治的手段として利用した者たちがいたからである。いかに可燃物がたく
さんあろうとも、それに火をつけ、油を注がなければ火事とはならない。
 「ナショナリズムは悪者の最後のよりどころ」という、サミュエル・ジョンソ
ンの警句を、旅の中でしばしば想起した。

 ユーゴ内戦についての経緯と分析をより詳しく知りたい人には、ごく最近出版
された月村太郎『ユーゴの内戦』(東大出版会、2006年9月)をすすめたい。こ
の本は帰国してから読んだのだが、この内戦は単純なセルビア悪者論に帰因でき
ないことを示している。大国の思惑、特にドイツやアメリカの身勝手な外交が、
内紛を激化させ、内戦を誘発させたことがよくわかる。筆者は「ユーゴ内戦が発
生、激化、拡大し、泥沼化していったのは、単なる民族間の反目によるものでは
ない。各民族の政治的リーダーが果たした役割が決定的だった」という。同感だ。
                (筆者は姫路獨協大学名誉教授)

                                                  目次へ