落穂拾記(39)

土井たか子さんを悼みつつ・・・

                       羽原 清雅


 社会党委員長だった土井たか子(多賀子)さんが2014年9月20日、亡くなった。85歳。
 神戸に生まれ、同志社大学・大学院で田畑忍教授に憲法を学んだ。関西学院大学で憲法を教えているうち、成田知己委員長らに懇請されて、1969年の衆院選に兵庫二区から社会党公認で立ち初当選、以来36年間にわたって連続当選12回、社会党を支えてきた。
 「護憲・反戦・平和」を政治信条として、86年から2003年まで社会党の第10代委員長を務めた。
 話題になることが多く、初の女性党首になったときに「やるっきゃない」、88年に政府・自民党が消費税導入を切り出したときには「ダメなものはだめ」、89年参院選で消費税、リクルート事件などで社会党が大勝した時には「マドンナ旋風」といわれ、「山が動いた」という語録がムードを盛り上げた。 歯切れの良さ、一貫した政治姿勢、居酒屋の一杯やパチンコなどを楽しむ庶民的な日常などで、大型の政治家として好印象を残した。 

 筆者の政治部デスク当時で、時折酒席であれこれ話したが、率直さがよかった。
 最後にあったのは数年前、小さな勉強会である『日曜クラブ』に聴衆の一人として来られたことがあった。そこで、政治報道の話になると、すでに引退していた土井さんは質問した。「社民党の紙面の扱いが小さすぎる、もっと取り上げるべきだ、報道しないからさらに小党になる」という趣旨だった。

 土井さんは、社会・社民党の最後に光を放った党首だった。
 その死亡記事は各紙とも、その人柄をたたえ、いかに好かれた個性であったか、を示していた。それはそれでいいし、その通り、とも思っている。

 ただ、社会党時代からの取材をしてきた政治記者としてみると、物足りない。礼賛だけでいいのか、戦後の歴史のなかで功罪の多かった社会党の分岐点にあった土井時代を、もっと総体として取り上げるべきではなかったのか、との思いがある。亡き人に敬意を、という姿勢はわかる。しかし、ベタベタすべきではない。政治家人生、是もあれば非もある。

新聞の追悼のコラムには昨今、直接取材したこともなく、スクラップやネットによるデータ、あるいは周辺の人たちからの取材で書いているものが多い。高齢で亡くなる相手に対して、取材者は定年に至らない若い記者。それでは、親しみや実感が生まれず、記者のOBを使えばいいのに、と思うが、新聞社にその配慮はない。

 しかも、政治家を取り上げるとき、往年の政治状況とのかかわりをあまり踏まえず、「個人」に集中させてしまう。 そんなことで、土井さんの記事各種には多少の不満があり、このコラムで取り上げたいと思った次第。

 自民、社会の二大政党の55年体制下で、社会党は長期にわたって政権獲得の道をつくることができなかった。仮に、政権の座に就くチャンスを獲得しても、その維持のための訓練や準備、発想に欠けており、先の民主党の政権以上に簡単に崩壊していただろう。
 この稿で触れたいのは、その社会党が本格的な組織力を身につけず、「風」待ち、選挙時のみのムード依存に期待をかけすぎていた点についてである。いまさらなにを、との思いはあるが、土井時代を語るにはやはり触れざるを得ない。

 成田知己委員長(1968‐74)はその書記長時代の1964年、党の体質の欠陥として「労組機関への依存」「日常活動・大衆工作・大衆運動の組織とその独自的指導の弱さ」「議員党的体質」の3点を挙げて、この克服策を書記長の石橋政嗣氏(のち委員長1983‐86)とともに緒に就けようとした。
 
つまり、地に足のついた日常の党活動がなく、選挙の時だけ候補者選びも資金も労組の支援を待ち、議員が当選してしまうと地元の党活動をせず、国会中心の「エライ先生」にあぐらをかいてしまう、したがって、党勢は伸びず、政党としての広がりはできないし、労組の言いなりとなり、選挙だけの党になってしまう。

 そこで、成田・石橋コンビは、まず社会新報の部数を伸ばし、足場を広げるととともに、その収入によって党財政を自立させ、その資金で各地に専従のオルグを多数配置しようとした。この中から、党の各地域のリーダーを育て、さらに政党としての自前の議員候補を作り出そう、という意向だった。時間がかかることも織り込み済みだった。 要は、カネも議員も労組の言いなりにせず、地元で存在感のある政党としての活動を確保し、組織の強化によって議席の確保につなげよう、というものだった。

 成田、石橋両委員長の間に入った飛鳥田委員長は「100万党建設」をうたったものの、実質的なことはできず、むしろそのキャラクターから、組織化に取り組むというよりもムード的な色合いが濃厚にならざるをえなかった。結果的に、成田構想は宙に浮いた形になった。そのあとを受け継いだ石橋委員長は社会党再生の「新宣言」を打ち出して、社会民主主義と組織の再建を図ろうとしたが、時すでに遅し、の環境でもあった。

ひとつの失敗は、成田構想のもと党の活動を支えようという若者たちが、社会主義協会の指導もあって次第に増殖していき、それまで社会党を支えてきた労組系、議員集団、老練な党幹部たちと衝突するようになる。
協会系の青年たちには、成田氏の指摘する党の虚弱体質をわれわれの手で克服する、といった意気込みがあり、また行動力もあって、地域の党組織内で数による発言力を強めていく。だが、現実に根差していないような理論の構築もあって、教条的で狭隘に過ぎた。
 
イデオロギー的な若い層の言動は、党内に議論の対立を生んだ。数と行動力に勝る若者集団と、それまで実権を握っていた経験と誇りの既成集団とが激しく対立するようになった。若者はせっかちに動き、先人たちの経験を尊重しなかった。また、既成の党人たちは実権を失いつつあることに慌てて、自らの反省や改革に向かう志向が乏しかった。この衝突が、党本部や党大会レベルに持ち込まれ、従来の派閥とは異なる激しい対決になった。

だが、流れは先輩たちの望む方向で決着、飛鳥田時代になって、協会勢力は理論研究集団に位置づけられて、党活動の道を閉ざされる結果となった。 この経過は、党改革を混乱させ、確執も深めた。党のイメージは落ち、前進しないばかりか、成田的反省や石橋の改革の動きは挫折に向かう。

 そこに、土井委員長(1986‐1991)が登場する。土井さんの基盤はもともと「市民派」としての期待と人気である。辻元清美さん、福島瑞穂さんら土井チルドレンの台頭がそれを物語っている。組織のゴタゴタに倦んだ支持層は、これ幸いとばかりに土井さんへの期待に切り替わる。社会党は市民派が台頭、総スカンを食った若い活動家は挫折の陰に隠れた。
 
土井さん自身、協会・反協会の抗争にはうんざりしていたし、新鮮な党つくりをごく一般的な市民層獲得に向けたので、地方や周辺団体などの党の組織、力量がますます弱まるのもやむを得なかっただろう。 足場の弱った組織は続かない。また、ムードと風待ちの政党は一過性の波に洗われる。
 
野党に落ちた自民党は議員後援会などの組織によって、また他党の弱さにも救われて、ひとまず再生した。公明、共産両党は、その是非はともあれ、組織の力で生きながらえている。未経験と足並みの乱れをとどめたままに政権を握ることになった民主党は、早々と政権の座から自ら転落、そのツケに苦しみ、いまもあがき続け、組織整備の遅れを痛感することになっている。

加えて、土井委員長在任中の1989‐91年にかけて、ソ連東欧の社会主義体制が崩壊、米ソ対立の東西冷戦下に慣れてイデオロギー的発想が抜けなかった社会党内はいわばそれまでの論拠を失ったかの右往左往となった。
しかも、従来は党活動を総評など労組に依存して、辛うじて勢力を維持してきたが、1989年に総評に代る「連合」の組織が登場したことで、さらに足場を弱めることになった。大手と正規就労者ばかりに目の向くこの大組織は、不正規労働力の増加を許した今となっては、いわゆるナショナルセンターたりえなくなり、政治的発言力もごく狭いものになった。

つまり、土井時代を語るとき、個人としての礼賛にとどめてはならず、時代に流される土井時代、そして社会党が崩壊への道に踏み込み始めた様相の責任者として捉えるべきではないか、と思うのだ。いささか酷、との気持ちもあるが、政治の及ぼす影響は長く国民の生活に響き続けることからすれば、厳しく指摘せざるを得ない。 

あえてもう一点を言うと、土井さんは社会党の委員長を退陣したあと、衆院議長に選ばれている。自民党の長期政権は崩れ、旧野党8党派による非自民連合の細川政権が登場したときだった。そして、宮沢自民党時代に実らなかった政治改革法案に取り込まれた小選挙区制度導入の扱いが問題になった。この法案は、衆院はなんとか通過したが、参院では社会党内に造反組が出て否決、廃案に追い込まれることになった。だが土井議長は、細川首相と自民党の河野洋平総裁との話し合いの場を取り持ち、土壇場の合意を生みだす。その結果、流れかかった小選挙区制度は意外なかたちで蘇ることになった。しかも、小選挙区制と比例制の議席数の配分などについて、細川首相が自民党の主張を受け入れたので、政権に組みした各党には厳しい内容だった。

このおぜん立てに動いたのは、土井さん自身というよりも、のちに社民党を出て民主党に鞍替えした党幹部らだったが、しかし議長としての軽い言動が招いた結果には責任を問われざるを得ないだろう。河野、細川両氏は、もとはといえばともに自民党出身だ、という警戒心に欠けていた。さらに言えば、のちにこの両人が「小選挙区制導入の失政」を認めていることからしても、歴史的な禍根、といえよう。

土井さんはこのあと、村山富市氏のあとの第二代社民党党首に就任(1996‐2003)、党の復調に力を入れるが、実ることはなかった。そしていま、小選挙区制度のもと、社会党の名称を変えた社会民主党は消え入らんばかりの小党になっている。

成田、飛鳥田、石橋、土井と、いずれも挫折を味わう中で党首の座を交代している。単なる『IF』に過ぎないが、成田、石橋時代が連続して党としての組織化を穏やかに進めて基盤を整え、飛鳥田、土井の継続によって市民党的な社会党改革が実る、という二つの要素が実現したら・・・と思うこともあるが、それはもう現実離れの夢なのだろう。

しかし、組織構築に全力投球しない政党には、安定的な政権の維持は難しい。失政のたびに政党の離合集散を繰り返したり、党内での責任のなすりつけなどの疑心暗鬼を抱えたり、強い一党支配を許す土壌を提供したり、政治を国民の期待から遠のかせるばかりだろう。
             (筆者は元朝日新聞政治部長)


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