【ジェンダー】

女性の役割の再構築を目指してできること(7)

高沢 英子


3)孤立する人権思想と女性問題

 プロテスタントの信仰者による人権問題と女権獲得運動は、まず教育の面で、従来置き去りにされてきた女子のために、各地にミッションスクールを創立するなど目覚しい働きをしたことは、すでに述べたとおりである。機会に恵まれた多くの才能ある女性が育てられ、彼女達が日本の社会に残した足跡は、大きかったのは事実であるが、しかし、その後、明治中期になって、日本が政治的社会的に、先進諸国の思想文化を取り入れたより自由で民主的な近代国家への変革を進め、人権問題や女権拡張にも何らかの進歩と明るさがもたらされた、とは到底云えない展開となったのも事実である。

 先にも紹介した鄭玹汀氏の「天皇制国家と女性」はこれに関して、実に徹底した綿密な資料渉猟によって、明快かつ大胆な結論を導き出した労作である。

 私はこれについて、つねづね疑問を抱き、包括的な考察の糸口を捜し求めていただけに、感動し、おおいに納得もしたが、逆に日本の現実に対する落胆と憂慮の気持ちや、女性として、また国民として、日頃溜め込んでいるやり場のない怒りと危惧の念はいっそう昂まった。ともあれ、参照しつつ考察を進めたい。
 人権と女性問題に向けた根本的な姿勢とにおいて、今日まで、日本の為政者たちは、その意識において前近代というよりも、ルネサンス以前、あるいは、もっと突っ込んでいえば、民衆の幸福などは、なにひとつ考慮に入れてこなかったのではないだろうか?と思うことがある。

 和魂洋才という判ったようで判らない内容空疎のスローガンをかかげて、知的で、バイタリティと忍耐心に富む、根性ある国民を激励し、曲りなりに近代国家らしいかたちをととのえ、いちおう文明開化の成果をあげたが、結果的にそれはあくまでも表面的な成果にとどまった。

 彼らが最も恐れたのは、ものを考える民衆であり、政治的事象を批判的な眼で眺め、意見を述べる力を国民が持つことであった、と思われる。まして女が、意見を持ち、自分を主張し、男に刃向かうなどということは、考えられない不祥事であったに違いない。

 ひたすら進んだ西欧の科学的知識やテクノロジーを教育に取り入れ、富国の道筋をととのえたあとは、彼らに必要だったのは、余計なことは何も考えず、黙ってついてくる優秀な官僚と、勤勉な国民、さらに強い兵士と、それを産み育て支える母親たちであったということだったのだろうか?

 かくして、明治の初期に、西欧諸国の思想に啓発され、さかんに論じられた自由民権思想も女権思想も、中期から後半にかけて、ゾンビのように復活した皇国史観の正統性を立証しようとする政府の論理に迎合するかたちで、巧みに組みかえられ、こじつけ論理にすり替えられ、みるみる本質と乖離した偏よった論義を押し付ける方向に変形していくのである。

 人権思想及び、それに付随して論じられた女性の人権擁護論は、国益という大義名分の下にみるみる押さえ込まれ、結局ただの付け焼刃的言論であったかのごとく、無力化してゆく。

 その結果、はからずも日本では、男性のキリスト者となったひとびとは、ごく一部を除き、女性の社会進出能力や可能性を信じ、その適性を認めようとは考えていなかったことを露呈することになった。

 かれらは永年の社会風潮のなかで、女性蔑視の慣習から抜け切れず、むしろ彼らが信じているとするキリスト教の宗教性、精神性を抜きにして、そこに内包する倫理性のみを皮相的に掠め取って、殊更に前面に押し出し、やがて女権要求の反対論者として、女大学的論旨を展開、素質を持った女性たちに、家庭婦人としての自覚を持って家を治め、よき母として国家有為の人物を育て上げることこそキリスト者女性の任務であると説くようになる。

 このようにして日本の有識人といわれるひとびとは、結局ある種の特権意識から完全に抜け切れず、その結果、根底から人権問題及び女性の解放を真剣に考え追究しようとする人々は、やがて社会のアウトサイダ―的存在として孤立し、かれらの論議は反社会的言辞として抹殺されるに至る。

 こうしてこの国では、社会全般に、人権思想の基盤がいつまでたっても育たず、女性蔑視、男性優位の認識は殆ど旧態依然のままで、社会構造の上でも法的権利の上でも、弱者の主張はことごとく手を変え品を変え慰撫されたり、強権を持って抑圧されたりし、真の自由や権利獲得の点でなんの変革も見られないまま、ずるずると推移した。

 そしてそれらの最初の萌芽は、歴史的に調べを進めるうちに、すべて明治期に形成されたことも明らかになってきた。

 これについて、鄭玹汀氏は「明治期におけるキリスト者の女性論を考える際、巌本(註:巌本善治)の「女学」の検討から始めなければならない」としたうえで、まず、明治期のキリスト教界の女子教育論の経緯を分析することから始める。

 これは他の先進諸国と較べても、キリスト教が国民のあいだに余り浸透せず、信仰も教義も深められないまま経緯した日本独特の事情もあって、これまで誰も余り踏み込まなかった分野なのだが、実は非常に重要かつ本質的な研究だと思うので、著者の鋭い視点と緻密な資料分析にこころから敬意を表したい。

 近代日本におけるキリスト教女子教育論の“礎石を築いた”とされる巌本善治は、当時正統的なプロテスタント主義の継承者として知られた植村正久牧師の説教に心を動かされ、洗礼を受けクリスチャンとなった人で、のちに明治女学校の校長を勤めている。(卒業生の若松賤子(「小公子」の訳者)は巌本の妻だった)。
 かれはその独自の「女学」の発表機関としてを「女学雑誌」の発刊にあたり、創刊にさきがけて「女学新誌」を編集1884年「女道の枝折り」、と題した論稿を発表し、自説を披瀝している。

 中身はかの「女大学」の抄録的内容で、(この箇所は一部鄭氏の著書を引用、参考文献の孫引きなどもさせていただくことにする、P93~P95)、巌本善治は男女同権思想には真っ向から反対であり、後述する岸田俊子の演説なども「温雅の貞を失ふ」と批判し「世の所謂男女同権論なるものに甚だ不同意」などと述べ、「同権論者は空中の妄想に迷うて即ち女子の本分を過度にするの誤りに陥」っている。「日本の女子は現今よりも更に男性に近よるべきは勿論なれども左ればとて到底男子と同様とは相成るべからず」〈女学雑誌第94号〉と述べ、またべつのところで「女権論者は一種の偏物にして、固と是れ立派なる佳人に在らざることを、読者が兼て強く諒せられんことを望むもの也」(「理想の佳人」女学雑誌第106号)などと書く。そうした視点から当時設立された婦人矯風会などには彼は助力を惜しまず、当初は事務所を「女学雑誌社」内に設けたりしていたようである。このあと巌本の主張はますます国粋主義に傾き、軍備拡張賛成論に及び、軍備拡張は国民精神の作興につながり、とりもなおさず「確かに福音の友である」、とまで言わしめている。(女学雑誌第515号)

 本題に戻ろう。男性にとって甚だ都合のよい良妻賢母の道筋は、こうして、当時からが着々と整えられ、キリスト教はむしろそれに格好の口実を提供する役割を果たすのである。

 たとえば、内村鑑三は、旧約聖書に準拠した「ルツ記」の嫁と姑の交情を礼賛し、それに付け加えた論説では「即ち情誼の上に立つ家族制度を以って権利の上に立つ国家制度の改良と同視すべからず、・・・・直に従来の習慣と感情とに逆らひ、女権子権を主張して欧米の制度に倣はんとするが如きは最も非基督教的と謂はざるを得ず」〈貞操美談 路得記〉と、もしキリストが聞いたら、びっくりするかも知れないことを公言している。
 こうした風土の中で、しかし真実に目覚めた女性たち、自身のなかに内在する鋭敏な感覚的知的能力に揺り動かされ、男性依存の生き方をどうしても受け入れられず、巷間に厳然と存在する通説の矛盾に耐え切れぬ女性たちはいたのである。

 重圧に耐えかね、渇いた者が水を求めるように、果敢に行動を開始しようとした目覚めた女性たちがいた。

 女学雑誌の記者となり寄稿者として活躍した、京都出身の岸田俊子(1861~1901年)もそのひとりである。彼女は万延元年京都に生まれ、女権論者としては最も早期の人とされている。

 彼女は1883年、立憲政党設立とともに全国に起こった自由民権思想におおいに啓発され、男女同権思想を展開、各地で遊説し、多くの女性に強い影響を与えた女性である。日本の女権論者の魁とも言われ、各地で積極的に女性問題について論じ、論説のほか漢詩もよくし、小説も書いている。

 仏教思想と儒教の教えに親炙していた知的欲求に恵まれた母に養育され、小学校時代から神童ともてはやされた知性と教養の持ち主であったらしい。京都の呉服商の娘で、小学校時代京都府下で最優秀児童の賞状を県令の植村正直から与えられている。1877年京都府女子師範学校に入学したが、間もなく病気のため退学し、二年後の1879年 彼女の並々ならない才知を知っていた植村と当時宮内庁の役人だった山岡鉄舟の推挙で宮中に文事御用掛として出仕し、皇后(後の昭憲皇太后)に漢学を進講している。数え年17歳であった。やがて宮廷内のさまざまな在りように矛盾を感じ、二年でやめて、遊歴の旅に出たとされるが、詳しいことは不明である。

 明治初期の混迷した世の中で、ある程度身分ある女性の立場は、案外、整った社会になってからより自由であったのかもしれない。立志社の坂崎紫潤らと交流し、自由民権運動に近づき各地を遊歴、1882年京都に帰ったが、その年4月に大阪で結党された日本立憲政党の主張に賛同し、同志となり、副総理中島信行らが開催した大阪での演説会で「婦女の道」の題で演説。以後1884年まで、各地で政治演説をし、女三従の教えの不合理さや女子教育の必要性などを説き、二年の間、先覚者として男女同権論、女権伸長を唱えて全国を遊説した。岡山で男女同権を唱えた演説では、影山 (福田)英子など多くの女性に大きな影響を与えたといわれている。

 “岸田俊子の演説をたった一度聴いただけでそのことばにうたれ、自分もまた語りだし、歩みはじめた数人の女があらわれた。その数人がさらに次の世代へとことばを送って、女たちにも近代の幸と不幸に対する自覚がはじまった”と、土地の古老に語り伝えられているほど、演説の際の彼女の存在のインパクトは強かったようである。

 明治16(1883)年「函入娘」の演説(滋賀県大津市)では「集会条例違反」として拘引・留置され、罰金刑を受けるが、それを知った母のタカは“人に先立ってことをなす者は、また人に先立って難を受けざるをえず”と伝言し、激励したと伝えられている。因みに日本では1900年「女子の集合結社禁止条例が出ている。殊更に女子と限った点や、集会さえ禁じる条例などは、民主国家としては、あってならないことの筈である。

 彼女の、理智に輝く瞳で理路整然と語る歯切れのよい爽やかな弁舌は、聴衆を魅了し、卑猥な野次も、一歩進んで、一言で沈黙させたと伝えられている。

 1884年1月上京。星亨主催の自由党機関紙『自由の燈』に「同胞姉妹に告ぐ」を発表し、男本位の社会や民権運動の中の女性差別を鋭く指摘し、男尊女卑は野蛮な欲心からでるもので、男女の関係は愛憐をもってせよ。と主張し「我が親しく愛しき姉よ妹よ、旧弊を改め、習慣を破りて、彼の心なき男らの迷いの夢を打ち破りたまえや」と女性たちを鼓舞した。この「同胞姉妹に告ぐ」宣言は、女性による初の男女平等論といわれている。

 そのころ、巌本善治創刊の「女道の枝折」「女学雑誌」に、俊子は婦人記者として入社。多くの筆名を使って、小説や論説を発表するいっぽう、自宅で塾を開き、運動の中で知り合った自由党副総裁中島信行と結婚する。1886年には、植村正久牧師により、一番町教会で、夫婦揃って受洗し、プロテスタントキリスト教徒となっている。さらに新しい女学校で教師となり、執筆活動を続けるが、1892年秋イタリヤの特命公使となった夫中島信行に従ってローマに赴き、翌年9月には病を得て揃って帰国している。保安条例により信行とともに東京を退去し、横浜に移った。フェリス和英女学校の名誉教授となり、1897年「文藝倶楽部」に小説「一沈一浮」を発表。内容は読んでいないのでわからないが、自伝的なものであろうと思われる。病気は結核で、翌年大磯に転地し、「女学雑誌」に「大磯便り」などを寄稿している。1899年には夫中島信行死去。1901年5月、肺結核のため39歳で波乱の多かった生涯を閉じた。プロテスタント教育者による女性啓蒙の働きが実らせた貴重な果実であったが、仏式で葬られ、遺骨は大磯の大運寺に埋葬されたそうである。

 日本では、こうして命を賭して男性活動家と共に戦った一握りの勇敢な女権拡長運動家の苦難のドキュメントは少なくないが、一般国民にほとんど知られることなく、闇のなかに葬り去られたままであるのは惜しいことに思う。

 ★なお、岸田俊子については、選集や全集の著作も出版され、相馬国光も1940年に「明治初期の三女性―中島湘煙(岸田俊子)・若松賤子・清水紫琴」(厚生閣)という本を書いているというので、この問題については、今すこし詳しく紹介してゆきたい。
 それにつけても、日本のジェンダーの問題をテーマに考察すればするほど、わたしは、かつてリヒテルズ直子さんが、現代日本が直面する原発や学校教育や近代化についての提言で示された疑問を、そのまま繰り返すことになった。

 「日本はなぜ繰り返し繰り返し反動的な政治過程をたどっていくのか?
  そういう多くの論争を引き起こすような政治家がなぜ日本の政治リーダーになれるのか?」
 「こういう政治家は、本当に日本人の大多数の考えを反映しているのだろうか?」

 次回はこの点も含め、さらに女性の苦闘史関連の歴史を辿ると共に、打開のための実践活動の可能性はどこにあるのか、探ることが出来たら、と考える。

 (筆者は東京都在住・エッセーイスト)


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