【オルタの視点】

山川均の『平和憲法の擁護』を読む
今日の「改憲阻止派」の位置と役割

柏井 宏之


◆◆ プロローグ

【マッカーサー・ノート】敗戦から半年、1946年2月3日、占領軍総司令官マッカーサーはGHQ内部で憲法草案作成にあたって、天皇制の承認、戦争放棄、封建制度の廃止の三原則を幕僚に示した。このマッカーサー・ノートには「2.国家の主権的権利としての戦争を廃絶する。日本は、国家の紛争解決のための手段としての戦争、および自己の安全を保持する手段としてのそれをも、放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。いかなる日本陸海空軍も決して許されないし、いかなる交戦者の権利も日本軍には与えられない」[註1]とある。アジア太平洋に侵略戦争を引き起こした日本軍国主義の根を断つ戦争放棄の根拠は「今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる」このノ—トにおいて生みだされていく。

【吉田茂の<防衛権>をめぐる答弁】1946年6月29日、帝國議会衆議院での新憲法9条の審議の中で、共産党の野坂参三が「この憲法草案に戦争一般放棄という形でなしに、我々はこれを侵略戦争の放棄、こうするのがもっと的確ではないか」と質問したのに対し、吉田茂首相が「近年の戦争は多く国家防衛権の名において行われたることは顕著なる事実であります、故に正当防衛権を認めることが偶々戦争を誘発する所以であると思うのであります」[註2]と答えている。

【平和四原則】1951年1月、鈴木茂三郎委員長は社会党大会で「青年よ、ふたたび銃をとるな!」と呼びかけた。片面講和の右社に対し、左社の「全面講和、積極中立、軍事基地撤去、再軍備反対」の「平和四原則」で総評の支持をえて、55年の総選挙で大躍進、再統一し、それが保守合同を誘った。山川均の「平和憲法の擁護 —日本はふたたび軍備を持つべきか—」[註3]は1951年3月に書かれ、左社に影響を与えた。

◆◆ 「記憶喪失」と「存在忘却」

 今日の憲法議論を見る時、柄谷行人が『哲学の起源』で、「記憶喪失」と時代が移ると「存在忘却」が起こると述べているが、身近な戦後史においてもそれは起こっていることを痛感する。それは、憲法についてのマッカーサーと吉田の上記の言説は知られているが、鈴木の【平和四原則】の対抗の時代がすっぽりと抜け落ちている。柄谷は今年に入ってからもシ—ルズの若者と対話するなど「憲法九条を実行する」ことに積極的である。その憲法論については先に紹介した[註4]。その中で「憲法九条はたんに、占領軍(マッカーサー)の押し付けによるのではない。また、左翼によって支持されたからではない。旧左翼も新右翼も「人民軍」を肯定するものだから。また、九条は、日本人の意識的な反省によってできたものでもない。それは「無意識」に属する。ゆえに、論理的な説得によって、これを変えることはできない。」と述べた。

また労農派の流れを引き継ぐ『進歩と改革』誌に載った横田耕一の憲法「二つの不幸」論でも、「憲法を積極的に維持すべき政治勢力(主体)が早くも制定直後に消えた」[註5]と、日本の代表的知識人でさえ、敗戦に続く中国革命と朝鮮戦争によってアジアに起こった激変と、憲法をめぐって日本国内でたたかわれた平和をめぐる歴史的な闘いの「存在忘却」がある。

 それは社会党、社民党が歴史の記憶から消えさることと重なっている。このくだりは、マスコミによって「55年体制」として否定的にシャットダウンされ【平和四原則】の下で警職法廃案から「安保・三池」にいたる「記憶喪失」の歴史がある。なぜそうなっているのか、そこにわたしたちの深い反省がなければならない。

 当時、情勢は激動していた。1950年6月にはじまった朝鮮戦争と日本共産党のレッドパージ、7月の総評の結成、1951年9月の共産圏とインドの不参加のもとでの対日講和条約と安保条約の調印。10月、社会党が両条約の賛否で左右に分裂した。1951年5月、社会主義協会の結成と月刊『社会主義』が誕生する。1952年3月1日、日刊の夕刊紙として「社会タイムス」が、青野季吉を編集長として創刊された。「アカハタ」が発禁されたことから左社から独立した全国政治新聞として発刊された。その後、社会党が統一したため、「社会新報」が党機関紙として発刊された。この二つの新聞に深くかかわったのが江田三郎である。

◆◆ 再軍備ではなく「中立的政策」を

 山川均が1951年3月に書いた「平和憲法の擁護 —日本はふたたび軍備を持つべきか—」は、朝鮮戦争直後の警察予備隊から保安隊へと再軍備に向かう激動の中で書かれた。
 しかし書き出しは、日本が自主独立を回復したならば、軍隊を持つべきかどうかを問えば再軍備派は負ける、しかしどこからかの侵略に最小限度の自衛の手段はと問われれば再軍備派が勝つだろうと、「自衛」の言葉のもつ魔術力から書き始める冷静な平衡感覚がある。「最小限の軍備」というがそれも言葉の魔術で、「最大限の軍備」になると喝破する。

 ではどうするのか?「独立した自衛手段をもたない新しい型の国家の方法に、こんにちの国家がもっと変化するのでなければならないだろう」「国際連合のような、国際平和機構の生まれる理由がある」「憲法によって交戦権の放棄と非武装を世界に宣言した日本」は「国際連合に向かって、戦争の放棄と非武装中立の憲法をもったままでわが国の加入を認めることを要求すべき」と米ソ対立の国際連合の状況下にあっても、柄谷のいうカントの平和論に似た見解を展開しているのは卓見だろう。「共産主義の侵略、ソ連・中共は日本を侵略するか」については、ソ連共産主義の世界革命の構想が侵略的な性質をもつものとなったことは争われないともいいきる。だから再軍備ではなく「中立的政策」の必要性を強調する。

 吉田首相はダレス特使とはディスカッションしただけというが、ダレスの声明は「日本固有の単独並びに集団的自衛権の承認を含む講和の諸原則について討議し」「もし日本が希望するならば、米国政府は、日本の国内および周辺に米国軍隊を維持しておくことを同情を持って考慮すると声明し、日本政府はこの提案を歓迎した」と、アメリカ軍隊の駐屯と近い将来の日本の再軍備を基礎とした講和の構想を最後的に決定した「話し合い」だったと断定する。ダレスは「日本が全然非武装で自己防衛も不可能な状態のまま軍事的真空の中に放置されることにならないように、上述の提案を受託するのが、日本国民の圧倒的な希望である」との確信をえたと、根拠のない「日本国民の圧倒的な希望」を用いる世論誘導の手法を批判する。

 山川は、戦争はダレスのいうように軍事的「真空」に起こるのではなく、世界各地の部分的な爆発が相当の期間連続する形で進むといい、6年前、日本を武装解除した国々の間で「日本には戦争の技術や熟練を身につけた優秀分子がまだたくさんいる、これを朝鮮の戦線に利用しないという手はない」と米国紙からホンネを拾っているし、偽装の軍隊「保安隊」の幹部幕僚はその大部分が旧職業軍人の起用によってみたされ、特高警察の復活、旧勢力の追放解除に触れる。そのような中で「民主化した軍隊をつくれ」を求めることは白昼の夢だけでなく、日本の再軍備は「国民の多数」の要望によって行われたという口実になると批判する。
 山川によれば、1947年の秋に、占領政策の推進力として推し進められた日本民主化の過程は限界に達し、48年には民主化の停頓は顕然たる事実になり、49年の後半から明らかに反動作用が動き出し、講和の成立を転機に、日本の右方向への急旋回を予測している。

 日本再軍備は「かつての国家主義軍国主義の思想と人間的要素とを復活させ…われわれが衛るに値いする日本は、天皇の日本や軍国主義の日本ではなくて、民主主義の日本である。」「再軍備から出発する戦争への道は、巨大な特別利潤を軍需産業資本の手に集積するが、国民大衆の生活水準は引き下げられ、日本を平和国家として、文化的な国家として、民主主義的な国家として再建しようとする夢は、むざんに破られる。」
 ここには1950年代の知識人山川がきわめてリベラルに「平和憲法の擁護」を民主主義の立場から訴え、「中立的政策」の重要性に触れている。今の若者世代に充分共感されるように思われる展開だが、なぜ、それが今日のように社民党は大都市で姿を消してしまうようになったのか、そこには原因があるはずである。

◆◆ 山川均と向坂逸郎の違い

 この原稿は『進歩と改革』(俗にいう太田派協会)に書いたものである。それはその前身である『社会主義』(社会主義協会)を継承する流れにある。大内兵衛と山川均の連名で『社会主義』「創刊のことば」(1951年5月)を載せている。

 「いまから二十年前の昭和六、七年の時期には、戦争の危機と近づき来たる反動の陰影が次第に濃厚となり、ファシズムの運動はまず組合運動の内部から起こり、やがて無産政党をも分裂させました。…こうして労働階級は、ほとんどなんらの準備なしに戦争と反動の時期に突入した。その結果がいかにさんたんたるものであったかは、われわれの記憶にいつまでも刻みこまれているところであります。
 …ただ六百万の労働階級が組織され、そしてこれらの組織労働者の多数によって支持される政治運動の組織がすでに存在する今日は、この戦線統一の具体的な方法は、おのずから二十年前と異なるものがなければなりません。すなわち(1)既存の労働組合の整理を伴いつつ組合運動の強力な全国的中心組織の確立を促進すること。(2)あらゆる分野と職域との進んだ要素を、社会主義政党の組織に集結すること。(3)労働階級の組織と運動とを、極左主義の破壊的影響から衛るとともに、反動期の特徴としてすでにそのきざしの現われている右翼偏向と反階級的な勢力の動きとを克服して、階級意識を明確にし、民主主義的社会主義の方向を確立することでなければなりません…」。

 ここには、戦前のファシズムがまず組合運動と無産政党を分裂させた反省と、再軍備を前にして変革の主体をとりまく謙虚な姿勢、「あらゆる分野と職域との進んだ要素を集結すること」、目標として民主主義的社会主義の方向を明示して創刊されている。
 なお創刊号は他に、有沢広巳、清水慎三、高野実、向坂逸郎、勝間田清一、太田馨、島上善五郎、高橋正雄の多彩な面々が書いている。
 山川は1958年3月、「安保・三池」をみることなく77歳で亡くなっている。

 『社会主義』第114号で向坂逸郎と西風勲社青同初代委員長らの「指導性と行動体制の緊急課題」という写真入りの座談会がある。向坂は「構造改革論の中にひそみ得る改良主義に対して警戒しなければならない」「三池闘争の過小評価ということが含まれているのではないか」。これに対し西風は[三池闘争のような激烈なたたかいよりもほかの道をとりたいというところから政策転換闘争なるものが言われているのではないか」と極めて率直な発言の後、「安保闘争と三池のたたかいをあれだけ大衆的に組織しながら…党員は増えてないし、社青同だって民青に比べて非常に弱いもんですよ。社会党自身に対する自己批判や本当に大会で討論し合う、そういう構えが運動方針の中に感じられない」と述べている。向坂の<上から>目線のもの言いに対し、若い西風は真剣に大会で討議できない体質を語っている。これで議論が終わるのではなく、協会は「構造改革論批判特集」を増刊号まで出して思想批判をおこなった。これは困難な時にとるべき方法ではなく、なかまの中に敵を見る「主要打撃論」であって共同戦線党の討議方法ではない。まして江田は西尾とは違って左派であった人だ。

 よく知られている山川の「無産階級運動の方向転換」では、運動は少数者から起こるが、思想的な純化の第一歩から、実際運動の第二歩は「大衆の中へ!」の「全線の方向転換」である。「之は革命主義から改良主義の堕落だろうか。決してそうではない。大衆の行動を離れては、革命的の行動は無く、大衆の要求を離れては、大衆の運動ではないからである」とする。
 また「政治的統一戦線へ!—無産政党合同論の根拠」では、労働農民党、日本労農党、社会民衆党の綱領を比較、「反動的・帝国主義的政治勢力に対する共同戦線の内に両立することができない対立を見出す代わりに、むしろ著しい類似を発見する」「労農、日労両党が“無産階級”の政治的、経済的、社会的解放を主張しているのに対して、社会民衆党は"勤労階級"を本位とする政治制度と経済制度の建設を主張する」。
 宗派的極左主義者の主張では労働農民党はマルクス主義政党であり、日本労農党は組合主義党であり、社会民衆党と日本農民党はファシスト党へと転落する党とされる。
 山川はその構成要素を分析する。労働農民党は日本労働組合評議会の労働者と日本農民組合の農民、若干の小ブルジョア下層とインテリ。日本労農党は労農総聯合に属する組合員と若干の小ブルジョア下層とインテリ。社会民衆党は労働総同盟を組織しているがわずかで、ファシズムの社会的要素の農民は一番少ない。「これらの諸党派の社会階級的構成は、大体において、単一な共同戦線党に合流することを妨げない」。宗派的分裂主義とたたかうところに「政治的統一戦線へ!」の主張があった。はたして向坂は山川の継承者といえるのだろうか。

◆◆ 求められていた体質改善に逆行

 私見からいえば、「青年よ、ふたたび銃をとるな!」と【平和四原則】で民心を得た社会党左派は、森戸—稲村論争に始まり「左社綱領」にこだわり、「構造改革路線」が改良主義だとして異説を排除し、協同戦線党の特色を生かせず、共産党や新左翼と同じような狭い宗派主義に陥ったことに原因があるだろう。「積極中立論」から「ソ連の平和共存」の評価社会党の体質改善は「安保・三池」のあと強く求められていた。労働組合主義と議員政党という狭い、古い基盤の上にたつ同質の社会党をどう組織改革するかは必須の課題だった。政治闘争から争点は経済領域から社会領域に新しく広がりつつあった。社会党をはじめとする「反安保・護憲」勢力の存在は健康保険・社会保険・年金制度等の福祉国家的要素も拡充しつつあった。社会党の社会基盤は中間組織としての伝統的な労働組合、政党だけでなく、それ以外の新しい中間組織—さまざまなアソシエーションの多様な形成にむきあう体質改善が求められていた。そのときに、路線論争がおこりそれを妨げた。狭い同質体質を脱して少数意見を生かし、人々の生活基盤の中での多様で新しい空間形成への政策と脱皮に向かわなかった。復活した独占資本のスピーカーであるマスコミは、サンフランシスコ片面講和と安保条約に世論を誘導したように、60年反安保の分裂を策して「朝日」が1月に西尾新党=民社党結党を誘導した。6月、空前の30万人国会デモと樺美智子さんの死には「七社共同声明」で、国会前の横倒しされた装甲車の写真で“暴挙”として演出した。安保の波が引いたあとに、「三井三池」のホッパー前決戦が取り残された。人間機関車・浅沼稲次郎委員長が右翼テロにより刺殺された。ここで本来なら山川均が1920年代に展開した「無産階級運動の方向転換論」のリアルな現実重視の方向にもどる覚悟が必要だったが、そのことに失敗した。

◆◆ 新しい歴史ブロックの登場

 今日、安倍内閣の安保法制=戦争法案の「壊憲≒改憲」攻勢と対峙するのは、新しい世代の市民連合と古い世代の総がかり行動の新しいブロックである。昨夏、連日国会をとりまいた政治を主権者に取り戻す怒りの高揚は、その後の安倍内国の争点隠しにもかかわらず全国各地の潜勢力として存在する。ここでも山川の「政治的統一戦線へ」は古くて新しい喫緊の課題なのである。また1960年の「安保・三池」の社・共、総評・全学連の古い歴史ブロックの政党と労働組合に代わるもので、その流れを特色つけるものは、若者・知識人の立憲主義と大人たちの護憲主義の連合である。この憲法をめぐるブロックの差異と共同を読みそこなうとこれからの参加型の政治・社会改革は展望しえないだろう。

◆◆ 「改憲阻止派」の歴史的反省

 わたしたちは、自らもまた他者からも「改憲阻止派」を任じて半世紀をへてきた。それは1960年の「安保・三池」以降後の政治的立脚点であった。1964年の社青同第4回大会における「改憲阻止・反合理化」路線が「憲法完全実施」路線にとって代わった時以来の流れであり、それは、福岡・田川から「改憲阻止政治戦線」が島崎譲によって提唱されて以来の政治路線であった[註6]。憲法公聴会阻止闘争を通じて、日本独占資本は、正面からの憲法改悪ではなく「なし崩し改憲」路線をとり、わたしたちは労働現場と地域共闘での抵抗闘争を重視した。
 この旗印は今も使用価値をもっているのだろうか。もちろんもっているし、同時に否でもある。そのことをお守り札にしてきたことによる問題点も大きい。憲法をめぐる位置づけが、ブルジョア憲法への批判にこだわる側面を押し出して「改憲阻止」に力点がかかり、「憲法完全実施」がブルジョア憲法への幻想を生むとして、ベルンシュタイン路線と断罪する宗派主義をうむに至った。これは西尾新党に懲りた猜疑心でもあった。江田三郎の「構造改革」路線への批判が越こった。江田は左社で「社会タイムス」の赤字で和田博雄と責任を取り、社会党統一で『社会新報』に最新機器を導入した組織人である。
 時代は「高度成長」に入っていた。石炭から石油へのエネルギー革命が進み、階級と階層の多層化、生産から流通、消費へと広がる職種の下にあって、人々の労働と生活は「憲法完全実施」の多様な陣地戦や新しい空間形成をも必要としていた。その意味で護憲大会は「改憲阻止」と「憲法完全実施」の背中合わせでもあった。

◆◆ エピローグ

 山川生誕百年の時、高木郁朗は山川の真価について、状況にたいする主体の側の積極的位置づけ、「状況を一つでも動かすためには、何をなすべきか」と「自分の頭で考え、自分の足で立つこと」をあげている[註7]。山川は「働く大衆」—「スリルとヒロイズムもない」あたりまえの自然発生的なたたかいの力量を信頼した人である。
 山川は19歳のとき、不敬罪の洗礼をうけ、釈放の日『平民新聞』を見、平民社を訪ね、幸徳秋水に出会い、アメリカから帰った幸徳に誘われて日刊『平民新聞』の14人の編集部員の一人となる。
 山川は、社会党大会での幸徳の「直接行動論」と田添鉄二の「議会政策論」の立場では幸徳を支持し、労働者自身の自立的行動を期待してサンジカリストと呼ばれた時期がある。社会党は、この直接行動論で治安警察法によって結社を禁止された。『社会新聞』の片山潜の「普通選挙権を得て議会へ」にたいして、『平民新聞』で堺利彦、山川均、大杉栄は「先生は国会へ! 我々はパンに!」を載せている。

 大正デモクラシー、とりわけ吉野作造の民本主義を批判したことをとらえて、山川批判がある。山川は、吉野の少数の哲人による民衆を教育する立場を「賢哲の思想と衆愚の生活」で、「民本主義とは、民衆の必要を最もよく知るものは民衆自身でなくて賢明なる少数者であるという、民衆に対する不信用から出発する一種の支配術である」と、民本主義が「民を本」としていないと言いつづけた。
 その意味で山川は、幸徳との出会いによって、直接民主主義に対する理解と「あたりまえの労働者、あたりまえの庶民の担うデモクラシーによって実現するもの」(高木郁朗)を深く身につけた人である。
 山川のこの持ち味は、自主管理の考えや今日の参加型民主主義、さらにには当事者主権につらなっていくもので、再評価が必要なところである。

 能力主義の資本主義生産システムにたいし、「分けない、切らない」経済としての社会的経済システムが広がりをみせる時代である。それはまた、あらゆる組織の内部改革が「指導/被指導」からネットワークへ、教育や福祉の世界に残る「教え/教えられる」「スタッフ/利用者」のタテ関係に社会を組み替える動きと連なっている。
 マルクスとプルードンは、一度は手を握りあったが、別個に分れていった。山川はそれを幸徳を通して自己の中に体現した人である。マルクス再読については田畑稔の『マルクスとアソシェーション(増補新版)』によって、半世紀前には階級闘争論としてのみ理解されなかったそれは「諸個人の連合化」として、現代市民社会論として提示されている[註8]。
 戦後、「民主人民戦線」を提唱した山川均は、民主主義はたたかいとるものであり、民主主義を守る、あるいは確立するという一点で、全政治、社会勢力を結集することに力を注いだ。わたしたちはその流れを生きてきた。
 (2016.3.20 記)

[註1]『日本の憲法』(第三版 長谷川正安著 岩波新書)
[註2]『新憲法の誕生』(古関彰一 中公文庫)
[註3]『山川均集』(編集/高畠通敏 筑摩書房)
[註4]拙稿「世界戦争の予兆と憲法論」(『進歩と改革』2016年2月号)
[註5]「戦後七〇年と日本国憲法」(『進歩と改革』2015年8月号)
[註6]嶋崎譲「改憲阻止闘争の組織論」(『社会主義』150号1964年4月号)
[註7]『山川均—日本の社会主義への道』(高木郁朗 すくらむ社1980年)
[註8]『季報唯物論研究』第134号「『アソシエーションの理論と実践』の前進へ」(田畑稔 2016年2月)

 (筆者は元『社会タイムス』編集者)

※元「社会タイムス」編集者の肩書は、第一期青野末吉編集長、第二期清水慎三編集長の東京時代の後、地方の「大阪社会タイムス」から1966年、独立した全国政治新聞として第三期をつくった高岩進社長になった時代に15年間たずさわった。


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