【書評】

山田陽一『日中労働組合交流史』を紹介する

高木 郁朗


1.時宜に適した刊行

 多くの人びとの目にはほとんど触れないまま、実は歴史に大きな影響を与えた、

営々として積み重ねられた営みというものがある。山田陽一著『日中労働組合交流史』

を一読して、感ずることはまさにこのような隠された歴史の重みである。この本に

は、「 60年の軌跡」という副題がつけられている。この本には、 1950年代の前半

期からほぼ現在にいたる国際政治と日中両国の国内政治の風雪に耐えて進められ

てきた、この2つの国のあいだの人民外交を支えた労組間の交流がみごとに再現さ

れている。

 いまの時期におけるこの本の刊行は、まさに時宜に適したものである。いうまで

もなく、安倍内閣のもとで、意図的な反中国、それに反韓国の政策が、国際的、軍事

的、思想的に急激にすすめられているからである。多くのマスメディアはこれに追随し、

言ってみれば、この2つの国に対するヘイトスピーチで満ちあふれている。本書を読

めば、政府ではなく、人びとのひたむきな努力こそが、政治的にも、経済的にも、ア

ジアと世界に安定的な国際関係をつくる上で先覚的な役割をはたしてきたことがよ

くわかる。

2.みごとな構成

 本書で著者は、60年にわたる日中労組交流の事実を、実にたんたんと語っている。

著者自らが体験したできごとをつづった「こぼれ話」のほかは、基本的にはすべて日

本側の資料と中国の労働組合、すなわち総工会の資料、それに著者自身の遭遇した

体験にもとづいた事実の記述となっており、それぞれのイベントに、特別の評価や感

慨を加えているわけではない。事実を記述するなかで、おのずからストーリーが浮か

び上がってくる仕掛けとなっている。

 本書は全部で6部構成となっている。第I部は前史ともいうべきもので、中華人民共

和国の成立以降、台湾を中国の唯一の合法政権とした吉田内閣のもとで、高野実総評

事務局長らの労組リーダーがさまざまな機会をとらえて交流の端緒をつくった経緯

のほか、日本の労組リーダーなどが中国からのメーデー招待などで非合法に訪中し

た事実が語られる。そのあと、1959年に成立した鳩山(一郎)政権下で、訪中に一

定の緩和があるなか、総評を中心に公式の交流が積極的に行なわれるようになる

が、岸内閣の反中国政策のもとで一時的に挫折したことのほか、両国労組間では国際

路線の違いがあったことが述べられている。

 安保改定阻止闘争などが展開された1959年以降の時期は第II部とされる。この時

期には、両国労組間で国際路線や原水禁運動をめぐる路線上の確執をかかえながらも、

トップクラスの労組リーダーの訪中・訪日が相次いだ。しかし第III部で取り扱わ

れる1964年以降、労組間交流は中断してしまうことになる。この時期に展開された中

国の文化大革命のために、総工会の機能が停止したことが原因である。労組リーダーの

訪中は別ルートによって細々と続けられ、のちの日中国交回復の種をまいた。田中

内閣のもとで日中国交正常化がおこなわれたが、労組間交流は文革の期間はまったく

進展しなかった。

 1978年以降は第IV部とされ、筆者はこの時期を「最良の日中関係」の時期と名

付ける。日中平和条約が調印され、中国では文革が終了して、改革・開放の政策

が展開され、総工会も機能を回復した。日本の国内では労働戦線統一が進行するな

か、労働4団体のリーダーがこぞって訪中し、民間連合が結成されて以降はそのリーダ

ーも訪中した。また地方レベルの活動家や青年代表が訪中団を組織し、労組間交流

は草の根まで達した。しかし、第V部にかかれているように、1989年の天安門事件

で、交流はふたたび中断した。ここには、国際自由労連の方針もからんでいた。

 結成直後の連合は国際自由労連の方針に沿っていったんは交流を凍結したが、

早々に、国際自由労連と中国総工会を仲介し、中国の労組が国際舞台で適切な地位

を占めるよう活動した。こうした努力によって、日本からは山岸章初代会長から、古

賀伸明現会長に至る歴代会長の訪中、中国からはトップクラスのリーダーの訪日とい

う相互交流が定着した。また、1980年代に設立された日中技能者交流センターや国

際労働財団を通ずる多面的な交流が発展した。

 21世紀にはいって、中国の国際的位置は、格段に高まった。この時期を扱った

第VI部では、連合との安定的な交流は継続した。また、全労連も、日中共産党の和

解が成立したのち、相互交流をおこなうようになった。さらに、研究者などを含めて

東アジアの社会問題を共同して議論することを目的とする「ソーシャルアジア・フ

ォ-ラム」の活動も行なわれた。しかし、一方で、政治摩擦、経済摩擦が拡大し、

労組間交流は新たな体制が必要となりつつあることが示唆される。

 なお、本書が扱った中心はナショナルセンター・レベルの交流であるが、終章では、

海員組合、日教組、NTT労組による特徴的な交流もとりあげられている。

3.交流とイデオロギー

 このような内容をもつ本書を読むとき、さまざまな感想が浮かぶ。もっとも重要

だと思うのは、交流というものは、けっして、イデオロギーや政治的信条や経済的利

害の全面的な一致を必要とするものではない、ということである。この著作のなかか

ら3つの事例をあげてみよう。

 1つは、 1950年代の後半期から 1960年代の時期の総評が提唱したAAA労組会

議の顛末である。国際路線として積極中立をかかげる総評は、その具体的実践として

米ソ対立下で、いずれの陣営にも属さない諸国の労組の国際会議を計画した。こ

れには中ソ論争もからんで中国総工会が激しく反対し、結局実現をみなかった。し

かし、そのことは、両国間の労組間交流を解消するなどということにはつながらなかった。

 2つは、なお文革の余波が残っていた 1977年に槇枝元文総評議長を団長とする

代表団が訪中した際のことである。招待元の中日友好協会が、「ソ連はアメリカと並

ぶ覇権主義である」と主張したのに対して、槇枝団長が激しく批判して両者のあい

だで、論争となった。そのあとの表敬訪問のさい、王震副首相は「率直な意見交換は

友好・親善関係を深めるうえで有意義であった」と評価した、と筆者は紹介してい

る。

 3つは、すでに言及した天安門事件後の連合の対応である。天安門事件や人権問題

に対する評価を連合が変えたわけではない。総工会も主張を変更してはいない。交

流においてその主張はくりかえしおこなわれているが、国際自由労連とのあいだをとり

もち、中国の労組が適切な国際的位置をもつようにことにつとめたことは、双方の理

解を深めるうえで多いに役にたったと思われる。

 むろん、国際交流においては相手の立場というものがある。それを尊重すること

はとうぜんである。また、自分たちの都合のために、歴史上の事実をねじまげたりす

ることなどは論外である。要するに相手の国、組織、人を尊敬することが前提にな

る。その前提でいえば、論議すべきところは論議することこそがむしろ積極的な交流

に貢献するケースがここには示されていて、とても興味深い。

4.思いを残して

 本書からは多くのことを学ぶことができるし、また未来にむけてのアイデアを得

ることもできる。しかし、まったく不満がないというわけではない。

 1つは、ここにかかれなかった情報がまだあるのではないかということである。たと

えば、労働4団体時代にしても、連合になってからも、日本の労組リーダーのあいだで

は日中交流にさまざまな考え方があったと想定できる。そのなかには交流そのもの

に影響を与えた事態もあったに違いない。筆者は、総評時代から連合の初期にいた

るまでの主要な国際面での担当者であったのだからこのような内部事情にもくわしい

はずである。この点は、おそらくは禁欲の美徳を発揮したのであろうが、これも推

定すれば、なんらかの思いを残しているはずである。

 もう1つ、より重要な点として、「あとがき」で筆者がふれていることであるが、

日中の新しい、きびしい環境のもとでの労組間交流に、日本の労組が伝えるべきメ

ッセージは何かが、明示されているわけではないということである。この点は筆者が、

後進のリーダーたちの責務として譲り、あえて発言を避けたのではないと思う。む

ろん、日本の労働組合が中国だけでなく、国際労働運動全体に対しても、伝えるべき

何かをもたなければならないことが前提になる。おそらくこの点でも筆者はさまざま

な思いを残しているのではあるまいか。

 いずれにしてもこの本が多くの人に読まれ、論議の素材として活用されること

を期待する。

(評者は日本女子大学名誉教授)

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