【自由へのひろば】

母と息子のインド・ブータン「コア」な旅(4)

坪野 和子


■美しい土地ダージリンで知った「国境線」の悲しさ(中編の2)

 楽しいながらも(本当は)悲しい人々とも出逢った充実した旅!!
 国際誤解?? 風評被害?? 日本で語られる姿は現地では幻想のようなものだった。
 日本から中国まわり経路からインド・コルカタで映画を見て過ごし、そしてダージリン。目的地はブータン。

 前回はカシミール人の商店主から「国境」の悲しさ、領土を主張された迷惑さを肌から感じ、ネパール人ライさん夫妻の話しと文教地区ダージリンを歩いて「教育」のありかたを考えた。今回もまた出逢った人々や遠目のヒューマンウォッチを中心に述べさせていただく。またまた「国境」について考えさせられた人々についてと南インドの観光客男性との会話から「インドNOW」と言っていいようなインド全体の呼吸と数分だけの会話で自分自身の人生も息子と私の人生も語り合って絶景を上から眺めた。

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1.ダージリン
  ---出逢った人々・ここは誰にとっても「終の棲家」ではない(3)---
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 ダージリンでは大まかに以下のような日程だった。
  到着初日は部屋さがし、お寺詣り用品買い物と散歩
  2日目 お寺詣り
  3日目 チベット難民クラフトセンター方面歩き
  4日目 翌日バス乗車のためホテル引っ越しとロープウエイ&ショッピング
  5日目 ダージリン出発バス午前中まで下山

 ほぼ毎日誰かと話しをしていた。長くもまだ幼くてもそれぞれの人生を感じさせられた。そして、「国境」も感じられた。
 2日目、チベット仏教は4大宗派がある。カギュという宗派はそのひとつである。中でもブータン人やラダック人の檀家が多いドゥク派のお寺にお詣りした。そこでやはり「国境」を話すこととなる。

◎「僕はブータン人」という小僧さん
 お寺の二階の周囲を右遶三匝(うにょうさんぞう)…つまり本尊に対して右回りに3回まわる、歩いてもよいし、五体投地でもよい…をしていたら、かわいい小僧さんたちがお勉強を終えたらしくひと部屋から出てきた。あまりに可愛かったので記念撮影をしてもらった。「どこの出身」とか「何歳」とか「お正月は家族が来るの?」などひとりひとり同じことを訊いた。その中で「僕はブータン人」というから「ブータンのどこ?」と訊いたら、その地名は現在もなおブータンと中華人民共和国との間での国境係争地だった。この地は河口慧海の足跡地図によれば、シッキム領として描かれている。明治時代には現在インドの州となったシッキムだったのかもしれない。地図にあやまりがあったのかもしれない。そしてその土地は日本の現代地図では中国領なのだ。

 しかし、チベット系諸民族は「ブータン人が多く住む地…ブータン」と言っていた。あまりに微妙な土地からインドに来て修業しているが、本人はブータンから来たつもりになっているだろうし、きっと中国領だろうと言っても幼すぎてわからないだろうと思った。また中国領から来たとなるとパスポートやビザなど面倒な手続きの上で来ているだろう。しかし、ブータンから来たという認識によって面倒な手続きはなくスルーして来たのだろう。

 ブータンと中華人民共和国との間における国境係争地域は数年前までは4か所。現在は3か所である。その中のもっとも深刻と考えられる地域から小僧さんは来たのだ。そして、小僧さんがクチにした地名はブータン地図の地名ではなくチベット地名だった。この地名は日本では中国語の新しい地名となっている。またブータンの地名は「道」という意味が含まれていて、いかにも源来共有地であったと考えられるものだ。

 この小僧さんの土地ではないが、解決済みの1地域についてはチベットが1959年中国に侵略される以前はチベット領であったと言えよう。中国のチベット侵略のどさくさに紛れてブータンが自国の領土としてしまったと思われる経緯があり、しかし、それによって多くのチベット人が国外脱出で命を落とさずにすんだともいえる。中国の代表団として交渉にかかわった役人がすべて漢人ではないことも、インドで行った協議であることも見落とせない。ブータン・中華人民共和国の国境係争は、実は2国間の単純な構図ではなく、国を失ったとはいえ、「チベット」も深くかかわっているのだ。そして小僧さんの出身地域では微妙にインドも関係しているといえよう。

 地名を聞いてしまったからには、複雑な思いが頭の中に巡ってしまったので、楽しい会話が私の中で途切れてしまった。屈託のない・国境など知らない少年の僧侶たちとの記念撮影をした。帰国して何回もその可愛らしい笑顔に「人類の平和」を感じている。思い込みかもしれないが…。

◎自称ラサから来たというチベット人
 小僧さんたちと撮影して別れた後、息子とふたりで寺院内の参拝者用休憩所的な部屋でお茶休憩をした。少しひとりで部屋を出たら、若い男の子が私に声をかけた。…中国語だ。で、「私は中国人ではありません。日本人です。チベット語で話しをしていいですか」「いいです」チベット語に言語を変えて簡単な会話をした。「どこから来たの?」「ラサです」。
 いや、彼はきっとラサから来たのは間違いないだろうが、ラサ出身ではないことが発音でわかる。ラサという地名は、生っ粋のラサっ子であれば「ヘェサ」というような発音をするが、「ハサ」と聞こえる発音をしている場合、大抵は東の地方出身者だ。で、ダージリンに来て半年たっていないこと、まだ仕事が見つかっていないこと、毎日このお寺に来ていることなどを聞いた。

 それをきいて、「ちょっと待っててね」と言って息子を呼び出した。「彼は中国語が話せます。お話ししたらいいと思います」と言って息子と会話をさせたが、どうもノリが悪いらしい。おそらく彼は中国語を話せたことは嬉しかったのかもしれないが、このダージリンの空気というか空間に合わないような気恥しさというか気まずさというか複雑な雰囲気を醸し出していた。「じゃ、またお茶を飲むのでさよなら」と私が言って切り上げることにした。息子が私に訊いた。「なんで中国語で話しをさせようと思ったの」

 「うん、ごめんね。なにか聞きたかったのではなくって、彼がさびしいのかと思って。チベットから亡命したてで、中国語を話す相手がいればいいかなって」ここに来て、チベット人・チベット系民族の人と話すことは問題がなくとも、この地の共通語であるネパール語は初心者のはずだから、中国語を話せば気持ちが落ち着くかな、打ち解けられるかなと思ったがそうでもなかった。チベット人が中国語を話すことに対する気持ちへの個人差があることも知っている。まして、ここはチベットでも中国でもなく、インドだ。亡命してきたのだからワケありであることは百も承知だ。でも自分から中国語で話しかけてきたのだから…。
 「彼は緊張感があるのかな?」息子が私の誤算を理解したかのように言ってくれた。

◎ネパール系民族の普通の人たち(1)ホテル従業員
 滞在最終日は、ブータンとの国境の町ジャイガオンへ向かうバス停に近いホテルに引っ越しした。1泊だったので割高だったが仕方ない。で、鍵が壊れているなどの軽いトラブルもあった。すぐに直ると思ったらしく修理のお兄ちゃんを呼んで修理させている間、従業員の、見た目年齢が中高校生の女の子と息子と3人で話していた。またもや映画話だ。

 息子「上(メインストリート)は映画館があったけれど、コルカタで観た映画だったんで、下(ホテルの近く)には映画館はないの?」
 女の子「あそこに大きいのができたからあそこだけよ。え、『GUNDAY』見たの?? あれはいい映画だぁ!!」
 私「ふぅ〜ん、ネパール映画は観ないの?」
 女の子「映画館じゃなくってDVDなんでも見るぅ。ネパール映画を観たことがあるの?」
 私「昔、ボダナートに住んでいたころ、カトマンドゥで観た。『クスメルマル』をやっていたんだよね」
 女の子「あれは有名な映画だよね」
 私…「♪クスメルマル クスメルマル♪」

 覚えていました!! 覚えていた!! その映画で一番有名な歌と踊り。いきなり歌いながら踊りだしていた。廊下にいたほかの従業員が私を見に来た。バカやって、みんなでスマイル。
 さらについでにネパールでもっとも有名な映画音楽『レッサムフィリリ』も前奏の笛の歌真似して歌って踊ってみた。みんなで笑っていた。インド国民であってもネパール系民族であればみんな知っているんだと思った。こんな楽しいことは国境をまたいで共有するべきだ。で、踊っているうちに、「鍵はすぐになおらない。荷物をこの空き部屋に入れておくから出かけてください。帰ってきたころにはなおっています」…あらら。

 旅行から離れて少し解説する。

▼ネパール映画音楽
 CGの技術が発達するまでのネパール映画の特徴は、インド映画の物真似、チープ、ロングランが稀、しかし、女優が着替えて出てくるシーンは多民族ならではの美しい衣装、脇役が自然で軽く明るい、と言ったところだろう。チープならではの少人数による楽器演奏やフルート系の民族楽器のソロがヒマラヤをバックとして流れてくるので心地良いとも言える。ロングランになるといつまでも上映が続き1年半も同じ映画をやっている上、カセットテープ屋さん(当時)に並んでいるのはその映画の音楽やカバーが大半を占める。

 私が歌って踊った『クスメルマル』は、私がネパール滞在中10年ぶりの大ヒット映画だ。1985年の作品である。カレッジの違う学生同士、(日本で言えば旧制高校と旧制高等女学校の生徒)の恋愛ストーリーである。1977年日本で『幸福の黄色いハンカチ』とはストーリーを異にするが、タイトルは『幸福のハンカチ』でラストシーンは彼女が自分の村でたくさんハンカチをぶら下げて恋人を待つ象徴となっている。1985年当時、喜多郎やゴダイゴが流行っていたので、少なからずラストシーンへの影響はあったのだろうと感じた。この作品は、2009年にリメイクされ、また大ヒットとなった。2009年のリメイクでは音楽がラップや現代的なダンス音楽が新たに挿入され、またCGも多用している。おそらくダージリンの従業員たちは、こちらのリメイクで知っているのかもしれない。

 ついでに踊った『レッサムフィリリ』。こちらも映画音楽の挿入歌であるが、こちらは、民謡的になっていて、国民歌・民族歌と言ってもいいような存在になっている。観光でネパールに行った日本人のネット上の旅行記でも民謡だと思い込んでいるようだし、ネパール人自身も民謡だと思い込んでいることが多い。もしかすると民謡を挿入歌にしたのだろうかと調べなおしたが、民話がもとになっている映画、ポップスとあるので、日本でいえば、『ちゃっきり節』のような、あるいはやはり民謡から派生した『デカンショ節』(旧制高校)のような楽曲なのかもしれない。なぜこの2曲を私が歌って踊ったのかというと、どちらの曲もハンカチや布を振りながら歌う同じ流れを持つものだったから。今の日本の若者だったら「湘南乃風」(というバンド)のライブで必ず行うタオル回し(全員でタオルを回しながら一体感を楽しむ)みたいなものですね、と言われそうなノリがあり、私自身も国際交流イベントのステージで聴衆にハンカチ様の布を配って一緒に軽く体を動かしていただくことで、シャイな日本人にも踊らずとも踊った感触を楽しんでいただいたことがあった。

 話しを戻す。
 ホテルを出て、歌って踊った私に対して息子が言った。「オカン、やっちまったな」
 実は、この2曲のライブ、息子が少年ダンサーとして参加してくれた懐かしい「あの曲」なのだ。アドリブでマイケル・ジャクソンの物真似もしてくれたので会場を沸かせてくれた。ちょい役やアクションだけでなく、タレントとしてもまだまだこれから通用しそうなのに、監督を目指す彼にとっても思い出があったのだとふと気づいた。

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2.ダージリン ---インドの普通
  そして、選挙活動や政治集会で知るインド民主主義のアツい関心---
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 「グルカランド」「フリー・チベット」
 店や個人家屋に書かれているこの文字を目にしながら、楽しい観光地にチクチクと「民族独立」という政治ではなく、個人の心の痛みを感じてダージリンを歩いていた。関係のある人たちとの会話はあまりに悲しい。ダージリンを楽しむために来たインド人と話しができたことが癒しのひと時であると同時に、人生を簡単にふりかえることができたひと時でもあった。

◎ロープウエイであった南インドのシンさん
 今回の旅行で唯一といっていいくらい観光らしい観光をしたのは、ロープウエイに乗ったことだった。下へ向かったときは、ネパール国のネパール人で親戚がいると思われる人たちと一緒だった。途中、政治集会らしき様子を見たので、「選挙?」と一緒の人に訊いたら「そうだ」とのみ答えた。
 下に降りて、ちよっとインド風のサラダ・スナック菓子を買ってゆっくり休んでから上へ行く搬器に乗った。同乗したのは、3人組の男性。自然におしゃべりを楽しむことになった。降りて気づくと私と息子の人生をものすごく短い時間で全部しゃべっていた。大きな男性3人が反対側に固まって座っていたので、おひとりこちらにどうぞ、というところから会話が始まった。
 3人組の男性はマイソールから来たIT企業の社長と社員だった。休暇を作って社内旅行的なプライベート旅行のためにダージリンに訪れたのだそうだ。

 「バンガロール」と言われたので、すかさず「カルナータカ州」と言うと、すごく喜んでくれた。簡単に打ち解けた。社長はシンさん。シンさんだとわかると「首相ですね」と返し、またまた嬉しそうに「そう、彼と同じ。シンは王を守るカースト」

 当時の首相は、マンモハン・シン。そして、さらに当時の首相と同じシーク教徒だ。だからシンさんは、国民会議派を支持し、選挙活動にも参加していた。インドの中央政治では宗教は支持者の動向にも強く影響する。IT企業は前首相が世界に押し上げたと考えられているので、宗教だけではないだろう。そして、彼がそれなりにお金持ちであることもわかった。いわゆる「成り上がり」なのか、もともと金持ちで自分が財を成したかは不明だが、感じが良い人なので人柄で上がってきたのだろうとは感じられた。主に息子と英語で話しをしてしいたのだが、まるでインタビュアーのように私たちの正体をはがしていった。

 実年齢より若く見えたので「学校が休みなのか」と質問し、「いや、僕は社会人です。母の休みに合わせました。父は休みが取れませんでした。僕は映画の制作補助の仕事をしています」というと「日本の映画は素晴らしい。クロサワ映画が好きだ」という。「インド映画大好きです。ですが、クロサワは僕の目標です」で補足的に私が「彼は元々アクターでした。モデルやアクションの仕事もしていました。その事務所の紹介でテレビの制作補助の仕事をすることになったのです」(アクションで社員さんがジャッキー・チェンとか香港映画の話題に持っていった)「じゃ、インドで映画を撮るようになったらスポンサーになってあげる」息子とシンさんはアドレス交換をした。

 息子のメールアドレスはインド映画の大ヒット作品の有名なセリフが入っていたので、見た途端「わははははははは」と豪快に笑われ、社員さんたちに見せて、社員さんたちも大爆笑した。シンさんが息子に「インドははじめてか」と訊くと「初めて…のようなものです」と答えた。私は「彼は本当は二度目です。ただ私のおなかの中にいたので観たことはありません。私は仏教の勉強のために夫とともにインドで滞在し彼を妊娠したので帰国することにしました。インドは彼の故郷でもあります」ニコニコ笑いながらシンさんが息子に訊いた。「おかあさんはどんな仕事をしているの」と。「母はティーチャーです」…と、反応が…なるほど…と。インドでは教師、女性教師は尊敬される仕事で、ここまでさりげなくインドを知っているのはそれなりのインテリジェンスがある職業だから、彼らには納得だろう。途中、下りで見た政治集会がアツくなっていた。シンさんが言った。「ああ、彼らは独立したいんだよ」上りでは半地元の人はそこまで言ってくれなかったのに、非地元の客観的な言葉…。ネパール系インド人たちは本国とは別に自分たちの国を欲しているのだろう。

 ダージリンでの人々との出逢いは考えさせられることが多い。もう少し母子のダージリンでの話しをお付き合いくださいませ。次回もダージリン。しかも、ダージリンで出逢った最強の爺ちゃん!! 彼の話はきっとお気に召していただけると思います。

 (筆者は高校・時間教師)


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