【コラム】中国単信(36)

民主主義の迷走

趙 慶春


 中国の伝統文化に強い関心を持つような筆者の脳内構造では、「民主」などという政治的な意味合いを含んだ言葉への理解など、若い頃からそれはお寒いものだった。その裏返しだったのかもしれないが、中・高校時代にローマの元老院は国王にも対抗でき、アジア諸国を侵食していた東インド会社や、調査に名を借りて、チベット、敦煌、シルクロードなどで貴重な遺物を略奪した軍人や探検家たちが、イギリス議会で報告する義務があることを知って、その「民主」的な制度にひたすら憧れたものだった。歴史的に見れば、ローマの元老院は民主政治の原形であり、イギリス議会は民主制度の先駆と言えるだろう。

 ところで、イギリスでのEU残留か、離脱かをめぐる国民投票は世界の注目を浴び、その結果は世界の経済界、金融界にも大きな混乱をもたらした。無論、日本の投資家たちも例外ではなかった。
 しかし、その後のイギリス国内を見ると、一連の経済的な影響より、民主制度そのものに対する混乱のほうは遥かに大きく、深刻なように筆者には映った。

 僅差で離脱派が勝利するや、「民主」的な国民投票だったはずにもかかわらず、その結果を受け入れ難いと「スコットランド独立、EU残留」「ロンドン独立」の声などが噴出した。さらに、残留支持派の若者たちが離脱支持老年者たちへ攻撃の矢を向け、「USBの使い方も知らない年金泥棒による国益無視」などと悪しざまな罵倒が浴びせていた。そして驚くべきことに、投票の翌日には「再度、国民投票の実施を」という呼びかけに270万人が署名したというのである。

 「国民投票」などいうものを、そう簡単にやり直ししていいのか、と首をかしげていると、今度はロンドンにあるポーランド移民が集う施設入り口に「出ていけ!」の文字。反移民感情が強いとされるEU離脱派が勝利した最初の週末の朝のことだった。まさに嫌悪感に満ちた罵り合いがエスカレートしていく状況は、国民投票というシステムが、民族偏見や異文化、異教徒に対する嫌悪の「パンドラの箱」を開けてしまったとも言われる由縁だろう。

 英語のデモクラシー(democracy)が日本語では「民主主義」と訳されたのだが、ラテン語の「demos」(民衆)と「cracy」(支配)が語源である。つまりデモクラシーは「民衆が支配する、あるいは統治する」ことを指す。したがって民主主義国家では、国民が権力者で、支配者であると同時に被支配者でもあるのだから、あらゆる事柄のその結果については、自己責任として受けとめなければならないことになる。

 この点は現在の中国とは大きく異なる。周知のように中国政府は国民の政治参加に厳しい規制をおこなっていて、中国共産党の一党独裁によって政治権力の独占を堅持している。言い換えれば、国民が政治に責任を負う仕組みがないだけでなく、政府の方針に異議を唱えるにはそれなりの覚悟が必要で、国民投票などがおこなわれることなどあり得ない。

 さてこの国民投票、主権者は国民と定めるからこそ実施されるもので、国民が国家の政策を決定する直接民主制の形を取ったものである。通常、やり直しはなく、1回の投票でその結果に反対者も従わなければならない。

 ところが投票率が100%なら問題ないのだが、今回のイギリスでの国民投票でも「多数決」が本当に「多数なのか?」に国民投票のやり直しを主張する人たちの不満が集中したと言えるだろう。つまり「投票率は約72%、離脱派の得票率は52%未満。これは全国民の僅か37%台、したがって全国民の意識の反映とは見なせない」というのである。

 かつてイギリスのチャーチルは「民主主義は最悪の政治形態のようだ」と言った。もっともこの言葉のあとには「これまでに試されたすべての政治形態を別にすれば」と続くのだが。チャーチルは「民主主義こそ最良」と言いたかったのだろうが、民主主義ほどその運営が難しい政治形態はないとも言っているように思える。
 多数決による「民意」が真に誤りのない民主的な総意の結果と言えるかどうかは、今回のイギリスの国民投票が教えている。

 ところで日本でも極めて身近な例になるが、杉並区での保育所建設問題などが「民意」の反映という点では考えさせられる。
 2月の「保育園落ちた日本死ね!」の匿名ブログから、遅々として進まない待機児童問題がようやく国会で取り上げられ、杉並区は公園の一部を転用して保育所建設に乗り出した。ところが地域住民の一部から「サッカーができなくなる」「ゲートボールができなくなる」「閑静を求めて家を購入したのにうるさくなる」などと反発が起き始めたのである。
 かりにこの問題で「住民投票」を実施すれば、保育園建設賛成派と反対派がぶつかり合い、自分には関係ないと不投票派が多数出て、ますます混乱する可能性もある。チャーチルの嘆きが聞こえて来るかのようである。

 思うに、杉並区保育所問題は行政の判断と実行力にかかっているのではないだろうか。“公共の利益”と“私の利益”は時には利害が相反する。それだけに行政を執行する側の判断が非常に重要になるし、たとえ「民意」を反映していなくても断行しなければならない時は断行せざるを得ないだろう。
 もう一つ民主的な政治体制で忘れてならないのは、国民投票のような直接民主制を執行する機会はごくまれで、通常は間接民主制を取っていることである。選挙によって“我らの代表”を選んで、この人物に託するのである。
 
ところがこの“我らの代表”は、往々にして“我ら”に目を向けるのではなく、政党に目を向け、次期選挙に目が向けられていく。これは地方選挙も国政選挙でも変わらない。
 記憶に新しい舛添前東京都知事の辞職についても、目前に参議院選挙がなかったら、東京都自民党本部はしゃにむに舛添降ろしに動かなかった可能性がある。無論、民意の反映でもなければ、民の利益のためでもない。
 そして今回の都知事選挙は自民党内の分裂選挙の様相となり、東京都民の“民意”は自民党の推薦を受けられなかった人物へ傾斜していくことになった。

 日本は民主主義を標榜し、“民意”を反映させた政治がおこなわれてきていると思っていたが、数による「権力ゲーム」化がひどくなってはいないだろうか。今回の都知事選挙候補者選びもそうだし、国会における与党議員の多数支配によって、国民の多くの声はかき消されようとしている。

 小池知事は政党の支援なしに東京都民の“民意”によって都知事となったと思いたい。なぜなら都民の約70%が小池知事に期待している(選挙直後のNHK世論調査による)というのであるから。任期を全うせず辞任した都知事が3人、こうした事態が繰り返されないためにも小池知事には“民意”を反映させた施策を是非、実現していってもらいたいものである。民主主義の迷走を止めるためにも。

 (女子大学教員)


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