【北から南から】ミャンマー通信(33)

民主化への熱望が産んだ「地滑り的大勝」

中嶋 滋


◆ <国軍支配に痛烈な批判と拒絶>

 9月8日から2カ月に及んだ歴史的な選挙戦は、アウンサンスーチー党首率いるNLD(国民民主連盟)が圧勝する結果で、ミャンマーの新しい時代の幕開けを告げました。治安上問題ありとされ実施が見送られた7下院選挙区を除く495選挙区(上院168、下院327)のうち、11月16日現在492選挙区で当落が判明していて、NLDが390議席(78.8%)を確保しています。390議席は全議席664の過半数333を大きく超えるもので、NLDは単独で大統領選出・新政権樹立を可能とする議会内勢力を確保したことになります。

 選挙戦が始まる前からNLD優勢が言われていましたが、80%近くの議席を確保する「地滑り的大勝」をするとは思われてはいませんでした。選挙議席(上下院合計で498)の60%を超えるだろうが、25%を占める非選挙軍人議席を含めた総議席数の過半数確保の実現は難しいといわれていました。その予想を大きく超える結果を生み出したのは、国民の民主化実現への熱い思いと国軍支配拒絶の強い意思でした。2011年の民政移管が「平服の下の軍服が透けて見える」国軍の実質支配を継続・維持する体制に他ならないことを見抜いていた国民が、それを強烈に拒絶したのです。

◆ <相次いだ大物の落選>

 与党USDPの惨敗ぶりに国民は少し驚きかつ大いに喜びました。政府、国軍、与党、国会、実業界に君臨していた大物たち、副大統領、大統領府上級大臣を始め閣僚たち、与党の総裁代行、前総裁である下院議長、クローニー経済の大立て者などが、枕を並べて「討ち死」したのですから、民主化を願う国民にとっては「痛快」であったに違いありません。

 その中で、人々が一番に落選を喜んだのはUSDP前総裁で下院議長のシュエマン氏だったようです。彼は、軍政時の国軍序列ナンバー3で、総選挙後に大統領になることを露骨に狙っていた人物です。利権に聡く、親族がクローニー経済を形づくり、とかくダーティーな噂が飛び交う人物で、評判はすこぶる芳しくありません。
 シュエマン氏は、下院議長時代にアウンサンスーチー氏と結束を深めた時期がありました。双方の政治的思惑が国軍多数派を基盤にしたテインセイン政権に対抗するという点で一致していたからだと思われます。総選挙前の選管への政党・候補者届け出とそれに絡んだUSDP執行部の更迭劇(テインセイン側が治安部隊を使いシュエマン派を一挙に覆し『大統領のクーデター』といわれた)の直後も、アウンサンスーチー氏はシュエマン氏への支持を表明していました。総選挙での国軍・テインセイン政権との全面対決を見据えたものだったと思います。この時期、NLDの勝ち方如何によってはシュエマン派との連立も噂されていました。これらの動きもNLDの「地滑り的大勝」によって消し飛ばされたわけです。

◆ <総選挙と仏教界>

 周知のようにミャンマーは国民の約90%が仏教徒と言われる仏教国です。その宗教的な影響は、人々の生活の隅々にまでいきわたっています。ですから、選挙運動期間中に僧院など仏教施設がUSDPの集会に使われる例が多くあったことなど、仏教界の政治的動向と影響が気にかかっていました。

 2007年9月の数千人の僧侶が市民とともに行った「サフラン革命」とも呼ばれた大規模な反政府デモは、取材中のジャーナリスト長井氏がデモ弾圧の国軍兵士に射殺されたこともあり日本人の記憶に強く残っていて、その記憶から僧侶が民主勢力側という感覚を持つ日本人が多いように思われます。私たちが地方で労働講座や農業組合の研修会を開く際に会場を提供してくれる僧侶は、勉強熱心で親切であることから、私自身もそうした感覚を持っていました。

 しかし、偏狭なナショナリスト僧侶集団 MA BA THA によるイスラム教徒への暴力的な攻撃やイスラム教徒を擁護しているとのレッテルを貼ってのアウンサンスーチー氏攻撃、とくに指導者ウィラトゥ氏による過激な言動は、とても宗教者と思えないものです。彼は選挙でのNLD圧勝が明らかになった後、「アウンサンスーチー氏は独裁者のようになり、ミャンマーの将来のことなど考えてもいない」と一方的に非難する談話を出しています。こうした勢力が今のところ少数にとどまっていて国民への影響力も大きくないことは、選挙結果を見れば明らかなことですが、不安がないわけではありません。
 そもそも、ミャンマーには50万人といわれる僧侶が存在します。国民の多くは彼らを敬い特別に扱っています。幼児期から初中等教育で毎朝の仏教典唱和など特別な取り組みがあり、それらの効果もあってか社会的な影響力は私たちの想像を超えて大きいものです。輪廻の考えから現世の功徳が高いほど来世の幸せな生活が確保され、功徳を最も高く積むのが寺院や僧侶への喜捨だと信じ込んでいる人が多いといいます。その影響力を考慮してのことかどうか定かではありませんが、憲法で僧侶をはじめ宗教者の選挙権は否認されています。

 彼らは立候補も投票もできません。しかし、実際上政治的な影響力を駆使することはできます。明らかにイスラム教徒排斥を企図したものと思われる宗教と婚姻に関する法律制定を推進した例もあります。新民主政権への国民の過剰な期待があり、それが実現できずに失望・落胆から反動へと動いたとき、ウィラトゥ氏らによる非生産的な扇動が危険な社会的動向を生み出しかねません。その意味から仏教界の動向を注視しておく必要があると思います。

◆ <期待される平和的で着実な政権移譲>

 NLD圧勝を無視し圧政を続けた90年選挙後を想起して、国軍への疑念・危惧を抱く国民は少なくありません。今のところ、USDPも国軍も「国民の意思を尊重し、選挙結果を受け入れる」ことを明言していますが、国民の不信感は完全には払拭されていないようです。来年1月末から3月にかけた新議会による大統領選出から新政権樹立までの事態がスムーズに進行することを、多くの国民が期待しています。

 テインセイン大統領がアウンサンスーチーNLD党首に総選挙勝利への祝意を表するとともに選挙結果確定後に政権移行に関する会談の実施を伝えました。国軍最高司令官のミンアウンライン将軍も同様の態度を示していますから、国民の期待に応える対応がとられつつあると思いますが、どこかに疑念は残っているようです。

 そこで気になるのが、アウンサンスーチー氏の「大統領を超える存在」として「すべてを私が決める」という発言です。とり方によっては民主主義をないがしろにする発言となります。彼女の代わりに大統領になる人をはじめ他の人々の責任を自らが引き受ける決意を示したと解釈する人もいます。NLD支持者の中にも「ワンマンぶり」を危惧する人もいます。政敵に利用される危険性をはらむ不用意な発言だと顔をしかめる人もいます。政治経験不足・統治能力不足の批判に過剰に応えざるを得ないNLDの人材不足が背景にあると指摘する人もいます。私の周りには好意的に解釈する人が多いのですが、真意を測りかねているというのが、全体的な印象です。彼女の発言があまりに大きな波紋を引き起こすことがむしろ問題で、「NLD − アウンサンスーチー = ゼロ」と揶揄される状況の克服が急がれます。

◆ <テインセインはデクラークになれないか>

 長年の弾圧に耐え撥ね除けて民主化を勝ち取った先例にネルソン・マンデラ氏率いるANCによる南アフリカのアパルトヘイト撤廃と民主国家建設があります。この時、一方で大きな役割を果たしたのが大統領F・W・デクラーク氏でした。1990年に27年間の獄中生活からマンデラ氏を解放し、彼が大統領となる94年の民主的総選挙を実施する道筋をつくりました。マンデラ氏とともにノーベル平和賞を受賞したデクラーク氏はマンデラ大統領の下で副大統領を務め、民主国家建設に貢献しました。

 テインセイン氏は、アウンサンスーチー氏の自宅監禁からの解放、今回の総選挙を国際選挙監視団の受け入れなどにより自由・公正選挙として実施、選挙結果尊重と平穏で着実な政権移譲の表明など、実質国軍のコントロール下にあって、デクラーク氏に似た役割を果たしました。もちろんデクラーク氏は軍人ではありませんでした。数々の違いがあります。テインセイン氏は軍政時の首相を務めた国軍序列ナンバー4の大将でした。軍政時代の反民主的政策実行に大きな責任を負っています。

 しかし、選挙で圧勝したとはいえ、NLD には大きな壁がいくつもある。まず議会の4分の1を占める軍人議席の存在です。非常事態時の国軍最高司令官による全権掌握もあります。主要大臣の指名権の問題もあります。そして何よりも憲法改正問題です。これらの壁を打ち壊しあるいは乗り越えるために、南アの例は参考にならないかと思うのです。
 ミャンマーの大統領選挙は、上院の選挙議員、下院の選挙議員、上下院の軍人議員の3グループで選ばれた3人の候補者たち(議員である必要はない)の中から、全議員による投票で選ばれる方式で行われます。1位の者が大統領となり2、3位の者は副大統領となります。今回の選挙結果からして、軍人議員以外の2候補はNLDが推す人になり、内1人が大統領となることが確定的です。問題は軍人議員推進の候補者で副大統領になるであろう人です。国軍の意思によりますが、テインセイン氏も候補者たりうる存在です。

 南アの94年選挙に監視団の一員として参加し、ミャンマーの歴史的総選挙を目の当たりにした私の妄想であるのでしょうが、国軍という大きく頑強な壁をもつこの国の民主主義が着実に進展していく道筋を考えるとき、こうした妄想が浮かぶこともあるのです。                (2015年11月17日記)

 (筆者はヤンゴン駐在・ITUCミャンマー事務所長)


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