【オルタの視点】

<対談>

沖縄は自立に漕ぎ出すのか — 自己決定権を考える

新垣 毅阿部 浩己


【新垣毅】(以下、新垣) 琉球新報の東京支社で記者をしております新垣と申します。4月から赴任して、東京は4カ月です。3月に部屋を探したときに、大家さんから「琉球新報には部屋を貸さない」と言われまして、それがメディアからも取材を受けて話題になりました。ひとつの世界的潮流である排外主義が日本社会においても急激に浸透して、在日の方々へのヘイトスピーチだけでなく、沖縄もターゲットにされています。
 この間の相模原の事件も、容疑者はナチスの優生思想に影響を受けたのではないかとも言われております。自分の待遇、あるいは経済的な地位に強い不満を持っている人たちが、敵を見いだして、攻撃をしていくというナチスの時代のドイツと非常に同じような構図で、格差社会が深刻化している先進諸国、中国だけでなく日本も他の先進諸国も格差が広がっている中で、そうした不満層をわざと誘導するような、排外主義的な言説がはびこっていると思います。ご存知のようにトランプさんもそう言って支持を集めている。世界的に非常に危機的な状況にある中で、琉球新報も例外ではなく、沖縄の人たちもそうした状況の中に置かれていると言うことを肌身で感じた次第です。

 本日お持ちしている本(『沖縄の自己決定権』)は、琉球新報のキャンペーン報道の100回ぐらいの連載のうち、80%を収録しているものですが、非常に大きなミソが琉米修好条約という、1854年にペリーが来て、アメリカと琉球王国が結んだ条約です。この歴史的意味、現在的意味が、沖縄の自己決定権を国際法的に議論する上で、地平を拓いた決定的な、重要な材料になりました。
 これをきちんと位置付けていただくために、阿部先生に協力していただいて、最終的には阿部先生のご意見を取り入れて、このキャンペーン報道の核心となる部分が実現しています。おそらく阿部先生は今の日本の閉塞状況、先ほどの排外主義も、沖縄も追い詰められて閉塞的になっていますが、ここを切り拓く、沖縄にとっても日本にとっても希望の星と言えるような、そうしたことばをずっと発信されているお方だと思います。

◆◆ 沖縄の現状 ◆◆

【新垣】 では、沖縄の現状について簡単におさらいをさせていただきます。ポイントだけを説明させていただいて、後々の議論の参考にしていただきたいと思います。

 まず、沖縄の米軍基地の図です。
  http://www.pref.okinawa.jp/site/chijiko/kichitai/images/map_ja.jpg

 オレンジの部分が海兵隊の基地で、青いところが空軍です。陸軍・海軍というのは沖縄においては非常に小さいです。地図上では小さくて見えないくらいです。こうして見ると一目瞭然ですが、沖縄の基地の面積の75%が海兵隊です。
 この間、女性が暴行されて殺され遺棄されるという痛ましい事件がありましたが、これを受けて、沖縄県議会はいよいよ、沖縄の海兵隊撤退を初めて決議しました。自民党は退席しましたけれども、公明党はのりました。全会一致で可決し、これが6月19日の県民大会のスローガンとして掲げられました。復帰後ここまで踏み込んだ決議はありませんでした。今つくられようとしている、辺野古の基地というのは海兵隊の基地です。今回の決議は、普天間の返還を求めるだけではなくて、海兵隊の新しい基地もつくるな、ということを包含した決議、と言うことができると思います。

 重要なのは兵力でして、事件事故を起こすのはやはり海兵隊が多いです。兵力の約60%が海兵隊です。「荒くれ者」と言われ、昔は「殴り込み部隊」と言われ、比較的、アメリカの貧困層、有色人種が多いと言われています。しかも若い。そうした人たちが、沖縄の民間地を歩き回って、ストレス発散をしているんです。この間、翁長知事が馬毛島を視察したというニュースがありました。普天間の返還・移設の候補地として、「こういうところもあるのではないか」というアピールである、と見ることもできると思います。ところがこれに対して、米軍は非常に否定的です。理由はそこに民間地がないから、という点が大きいです。ガス抜きをする民間地、娯楽施設がないとだめだ、と。基地の中に閉じ込めて、その娯楽施設だけではだめだ、ということなんですね。

 47,300人米軍関係者がいて、軍人が25,843人、軍属—この間、地位協定を見直すと言って明確化しましたが、これはわずか1,994人の話です。家族が19,463人。

 少し話が飛んで恐縮ですが、なぜ沖縄の人たちが日米地位協定の改定を求めているか、ご説明します。今回の事件はあまり関係なかったのですが、先ほど申し上げたように、結局のところ、米兵は民間地で遊び、酒も飲みます。そして、もしかすると何かしら犯罪を犯すかもしれない。但し、そのときに基地の中にさえ逃げれば、自分たちは地位が守られるということをわかっているんですね。ですから、実際に基地の中に逃げて、そのまま本国に逃げてしまったとか、そういうケースもよくありましたし、地位協定は自分たちが特権を持っているという意識、動機付けになっているものですから、犯罪の温床になる、というのが沖縄の人たちの主張なんです。
 必ずしも軍属を明確化してほしいということではない。抜本的に改定をして、特別に守られるのではなくて、「日本の法律に従わないと、あなたたちは外で遊んではいけませんよ」ときちんと意識付けをしないとだめでしょう、というのが沖縄の主張なんです。そのところを政府は全くとんちんかんと言いますか、アメリカに強く言えないんでしょうね、それで軍属の明確化という、小手先の改善策しか示せていないという状況なんですね。

 さて、兵力の6割が海兵隊というところの意味をもう少し説明したいと思います。全国にもいろいろ、空軍、海軍、海兵隊の基地がありますが、やはり海兵隊がいるということは、それなりに事件が起こりやすいと言えると思います。「沖縄の基地負担」と言った場合も、この「事件事故が繰り返される」「海兵隊がいる」ことが実は影響が大きい。これは沖縄の人たちにとっては共通認識になっているんですね。ですから海兵隊の撤退という決議までいくわけです。

 ある女性団体が、今までの米軍がらみの事件を、1945年から67年間分、新聞や書籍、琉球政府文書、証言などをもとに調べました。これは正式な統計というものがありませんから、いろんな資料を集めてしか調査ができないのですが、わいせつ関係は350件です。わいせつ事件というのは、なかなか表面化しないため、氷山の一角と言われています。一番多かったのは、那覇市で63件、ついで沖縄市55件、うるま市46件、宜野湾市22件と続きます。この傾向は何かというと、米軍基地の所在と、事件の発生件数は比例しないということなんですね。

 何に比例するかというと、沖縄に詳しい方はわかると思いますけれども、人口の多さです。那覇が一番人口が多く、次に沖縄市、うるま市も比較的多い、宜野湾もそうですけれども、沖縄の基地がどこにあるかにかかわらず、沖縄県内であれば、人がいるところを歩き回って、そこで犯罪を起こすということなんです。

 今年3月に観光客の女性が暴行されました。準強姦罪で有罪判決が下されています。この容疑者はキャンプシュワブの所属です。キャンプシュワブは名護市にあります。名護市というのは辺野古の新基地がつくられようとしているところです。ここに所属している海兵隊員が、わざわざルールを破って、那覇にホテルを予約して、夜、飲み歩いて遊んでホテルに帰ったところ、酔っ払って廊下で寝ている女性を、無理やり自分の部屋に引き込んで暴行したという事件です。ルールなんか破られて当たり前というくらい守られていません。

 那覇では最初の頃、バス1台を海兵隊が借り切って大量に来て、松山という歓楽地に降りて、また朝方乗って帰って行くこともありました。いまは個人個人でレンタカーを借りたり、自分の車を持って、路上駐車もしたりしているみたいです。また、けっこう高さのある高層マンションにも、海兵隊ですからよじ登るんです。よじ登って住居侵入をしてくる。戦争をして人を殺すという、ものすごく肉体的には鍛えられた人たちがよじ登って入ってくる。私はマンションの3階に家族で住んでいて、娘もいますが、非常に怖いです。こうしたことはほとんど報道されていませんが、那覇市でさえ、そういうことが起きているということです。

 沖縄県内の兵力を減らさない限り、県内に移設したって、沖縄の基地負担は変わらないと申し上げたいのです。政府の言う基地負担、負担軽減というものは、沖縄の基地の全体のわずか0.8%に過ぎない普天間飛行場を返すというだけです。その代わり、嘉手納から南の牧港補給地区という倉庫、それからキャンプ瑞慶覧という住宅地ですが、こうした老朽化したいらなくなったものを返して、でも必要なものは既存の基地の中に新設する。機能を維持するためにつくる。それがただ同じものをつくるわけでなく、必ず機能強化してつくるんですね。

 例えば、今、高江でつくられているヘリパッド、これは北部訓練場の半分くらいを返そうという計画の中で、新しくつくられようとしているんですけれども、オスプレイ仕様のヘリパッドにしようとしているんです。ところが、この多様性豊かな自然の中でつくられるヘリパッドは、環境アセスを経ているのですが、政府はオスプレイが来るという計画を、ずっと嘘をついて隠してきました。そして、つくる直前になって、アセスが終わった後に、オスプレイが使うことを認めて、今、工事を強行しているという、非常に不条理なことをしているんですね。機能を強化するということを隠して隠して、それが負担軽減につながるんだと言っています。
 また、いま新しくつくられようとしている辺野古基地には、軍港機能があります。軍港をつくるということはずっと隠されてきた。これは市民団体が、アメリカで設計図を入手したことで明らかになりました。しかも強襲揚陸艦という最新鋭の軍艦が寄港できるような設計です。これは普天間の代替施設ではなく、新しい基地ではないか、ということで地元のマスコミは新基地と呼んでいるわけです。
 このように兵力を減らさない、それでいて新しい機能の施設を県内に新しくつくらないと、返還させない、というような状況なんですね。

 このオスプレイですが、実はもうすでに伊江島飛行場や北部のヘリパッドなどで訓練をしております。欠陥機と言われ、ワシントン・ポストなど主要なアメリカのメディアでは、「未亡人製造器」と呼ばれています。パイロットが死ぬので、妻が未亡人になってしまうという意味です。「空飛ぶ恥」とも言われるくらい、よく落ちると言われているオスプレイです。
 普天間飛行場から辺野古まで、直線距離にしてわずか36キロです。人口が多い市街地の真ん中にあるから、人が少ないところに移せば負担軽減になるでしょう、というのが政府の説明ですが、もちろん辺野古にも住民がいますし、近くの名護市にもたくさんの住民が住んでおります。それだけじゃなくて、すでに沖縄本島全体で、今の段階で訓練をしている。騒音と墜落の危険については、わずか36キロ直線距離で移したところで、減らないでしょう、というのが沖縄の人たちの主張です。

 普天間飛行場には軍用機が非常に密集していて、たしかにこういうところで事故が起こらないというのは非常に不思議と言いますか、実際に近くの沖縄国際大学でヘリが2004年に落ちましたけれども、いつまた落ちてもおかしくないという状況です。

 また、住宅街のすぐ上を飛んでいくのは普天間基地の近くに限りません。いま写真でお見せしているのは、宜野座村というところです。宜野座村というのは、辺野古の基地をつくろうとしているところのすぐそばです。そういうところでも低空飛行をくり返している。騒音だけでなく、いつ墜落するかわからない、という恐怖にされされているのが、今の沖縄の現状です。普天間飛行場を返す、その代わり辺野古に新基地をつくるということが、オスプレイひとつとっても負担軽減にならない、これが沖縄の人たちが怒っている点です。このようにいろんな不条理があります。

 実は前の仲井真知事も、このオスプレイ配備には猛烈に反対しました。もうあの方は埋め立てにサインしてしまったので、「裏切り者」と沖縄の人たちからも見られて、大差で県知事選も負けたのですが、現職時代には、オスプレイの配備を強行すると政府が宣言したときに、これは嘉手納にも反対が及ぶということを言及しました。
 空軍嘉手納基地は極東最大級と言われていて、一番米軍が手放したくない飛行場ですので、ここに飛び火することをアメリカ側は非常に恐れてきた。今回の女性殺人の容疑者も、軍属とは言え嘉手納基地だったので、そのあたりを非常に恐れています。実際今、運動は嘉手納にも飛び火しつつあります。仲井真さんですら、この嘉手納に言及せざるを得ないくらい、オスプレイに対してすごい大きな反対のうねりがありました。オスプレイ反対の県民大会は10万人を超える人たちが集まりました。

 ところがこうやって反対しても、一顧だにされない。しかも沖縄では各種選挙に勝っています。知事選、名護市長選、那覇市長選もそうですし、最近では普天間のある宜野湾市長選は負けてしまっているんですが、衆参の国会議員で言えば、全部で沖縄には6選挙区ありますけれども、すべてオール沖縄の候補です。自公の、今の政権の国会議員は沖縄には一人もいません。それぐらい本土の状況との大きなねじれ、違いが、浮き立ってきています。それにはやはり、民意が蔑ろにされていることへの危機感、怒りがあると思います。

 いま18歳の投票権でいろいろ言われていますけれども、私ども新聞記者は、これは琉球新報に限りませんが、投票率を上げるために一生懸命に報道しますが、選挙制度、選挙という権利を放棄してしまうと、政権を変えるにはクーデターか革命しかない。「民主主義の根幹なんだ」「とにかく投票に行かせて、とにかく権利を放棄させないように」と先輩記者からずっと教わってやっているわけですが、この選挙制度で示した民意がここまで蔑ろにされるのか。
 この間の参院選でも、現職の閣僚を10万票以上の差でオール沖縄の候補が倒しました。けれども、高江というヘリパッドの基地に反対している候補が勝ったにもかかわらず、その翌日に、資材が搬入されました。いったい民主主義は沖縄には適用されていないのではないか、という怒りがあるわけです。これがずっと続いてきている。こういう現状をどうやって打開するか、ということで、キャンペーン報道として、打って出たのがこの自己決定権の報道なんです。

 今まで沖縄と本土の関係というのは、例えば憲法を媒介にして、憲法を活かそうとか、憲法を守ろうとか、そういうところで連帯をしてきたと思います。もちろん憲法は大切ですけれども、ここまで追い込まれて、その憲法すら、あるいは9条すら、平和主義すら危機にさらされている中で、果たして沖縄というところは、この本土と一緒に憲法を盾に戦っていけるのだろうか、という疑問も生まれてきています。
 独立論者もだんだん増えてきています。これは追い詰められている証拠だと思います。しかしもう一度、この自己決定権という基本的な権利に目を向けることによって、憲法とももう一回向き合えるし、さらに国際法という中で、沖縄を改めて位置付けて、さらにもう一回本土の方々と、関係を結び直せる、そういう機会になるのではないか、と考えておりまして、この自己決定権というキャンペーンを始めました。

◆◆ 国際法上の自己決定権とは ◆◆

【新垣】 前置きが長くなりましたが、ではそもそも国際法上の自己決定権とは、どういう権利なのか、阿部先生に解説をしていただきたいと思います。いま国際法において、どのように重要視されているのでしょうか。

【阿部浩己】(以下、阿部) 最初に新垣さんから私のご紹介をいただきましたので、私も新垣さんのことに触れさせていただきたいのですが、新垣さんは「野人」のような感じなんですね。あるいは気骨、スピリットというか、そういうことばがぴったり当てはまるような感じの人でして、「ああ、こういう人がジャーナリストなんだ」「新聞記者なのか」と思わされることが、ここ数年ずっと続いてきました。それは新聞を通じて書かれていることもそうですし、普段の振る舞いもそうです。そうした素質、資質がもともと新垣さんに備わっていたにしても、やはり沖縄が置かれている状況が、新垣さんをこのような人にしているのだなあということを、思うことが少なくありません。

 ひと言ふた言、沖縄に関わって、私の思っていることを申し上げたいと思います。

 ひとつは、基地というのは、これはいったいどういう存在なのかということです。国際法的には「戦時」、つまり、武力紛争が始まるとき、そして普段の「平時」という分け方がずっと続いてきました。けれども、基地というのは、平時にもそこにあるんですね。つまり武力紛争がないような状態の時にも、そこに基地が置かれている。そしてそこには、戦う人たちが戦う訓練をしている。つまり、基地の存在というのは、「平時」における「戦時」という状況なんですね。
 そういう基地が沖縄にずっと広がっているという状況は、沖縄は平時ではなくて、日常が戦時の状態に置かれている、ということなんだと思います。そういう状況が、いろいろなそこに住んでいる人たちの行動とか考えというものを、非常に鋭敏にしているんだなあと思います。これはひとごとのように聞こえるかもしれませんが、率直に感じた気持ちなんですね。

 もうひとつは、沖縄にある基地を見たときに想像したのは、パレスチナの壁です。私、パレスチナの壁はこの目では見たことはないのですが、写真であるとか、あるいはいろんな書物を通じて間接的に知っている程度なんですが、パレスチナの土地にイスラエルの人たちが植民(入植)してくるわけです。そして、その人たちを守るために、パレスチナの人たちが近づかないように、ということで、長大な壁が、ものすごい高い壁が、何百キロにわたってつくられています。こうやってパレスチナの人たちの生活が分断される、土地が、空が奪われていくという状況です。
 沖縄にある米軍基地というのは、壁というわけではないんですけれども、そこに住んでいる人たちの、土地、空を奪い、そして人間の生活を分断する、パレスチナの壁に非常に似たような状況なんだと思っているんです。
 そして、このパレスチナの壁については、国際司法裁判所というところが、パレスチナ人の自己決定権を侵害しているので、壁を壊して、元に戻しなさいと命じているんですね。そういうことからも、自己決定権ということで、壁の存在と、基地の存在というのが、つながっていくような、そういう思いを抱いていました。
 そういう中で、新垣さんから先ほどご紹介があったキャンペーンの報道について、いろいろとご相談、お話があって、改めてその思いを強くしていると言うところであります。

 「自己決定権」とは何か、というご質問に立ち戻りますと、国際法上は自決権と表現されてきました。民族自決、あるいは民族自決権ということばはご存知かもしれません。この自決ということばは、自己決定ということばを短くしているんですけれども、日本語には自らの命を絶つという印象もあります。それが特に沖縄では生々しいイメージを持って、厳然と目の前に表れていることばですので、自決ということばは意識的に回避されているんだと思います。むしろ、本来の自己決定ということばを使って、自己決定権と言っています。
 これは国際法をずっとやってきた私としては、目を見開かされるところがあって、普通に自決、自決権ということばを、学問上のことばですから使ってきたのですが、しかし実際の人間の生活に即してみた場合に、このことばが持つ、ある種の暴力性、ある種の記憶に照らして、やはり自己決定権ということばの方がいいのかなあと思って、いまいろんな論文でも、自己決定権ということばを使うようにしています。

 この自己決定権というのは、国際法の根幹をなす原則です。もっとも基本的な原則と言ってもいいです。「自己決定権なくして国際法なし」というぐらいの原則的なものです。これについて少し歴史をさかのぼり、時間軸を遡行させて考えてみたいと思います。

 そもそも国際法というのは、いつごろからできあがってきたのかということを振り返ったときに、また、国際法の歴史をどう描き出すのか、というときに、描き出す人の考え方が出てきます。多くの国際法学者は、ヨーロッパを中心に国際法を描き出しますので、グロチウスという人の名前をご存知かもしれません。あるいは、ウェストファリア条約の、1648年というのが国際法が誕生した年だとご存知かもしれません。
 ヨーロッパにおける、30年の宗教戦争が終わった年に、主権国家が並び立つ国際社会が誕生し、その国際社会の法が国際法だ、というふうに国際法の歴史が始まっている。これは、典型的なヨーロッパ中心的な国際法観ですね。しかしこれが、ずっと長い間、世界で多く共有されてきました。
 しかし近年、こうした国際法の歴史の描き方というのは、あまりにも一面的ではないか、ということで、もう少し歴史の本来の国際法の姿を描き出そうということで、研究が進むようになっています。そして現代の国際法の歴史というのは、これもご存知でしょうけれど、1492年にコロンブスがアメリカ大陸に到達した、「発見」と言われてきた事象ですけれども、このときに国際法というのが始まっていくんだ、としています。

 国際法というのは何のためにつくられたのかというと、それはヨーロッパが非ヨーロッパ圏に進出していくときの法的根拠、これを国際法という形で作り出す、ということなんですね。ヨーロッパという特殊な文化のもとに育まれてきたものを、世界に浸透させていく法的な根拠を国際法とする、ということですね。その意味で、国際法というのは非常にヨーロッパ中心的にこれまでつくられて、運用されてきたところがある。これはあとでも触れますけれども、そのことが帝国主義的な国際法につながっていくんですね。

 しかしそうしたヨーロッパ的なもの、あるいは、帝国主義的なものを押し付けようとしたときには、当然に強い抵抗、反発というのがあるんです。抑圧は必ず抵抗を伴うものであって、抑圧のみで景色が覆われてしまうということはないだろう、人間の歴史の中で、そうしたことはないといわれてきています。実際に、15世紀から16世紀にかけて、ポルトガルやスペインが、アメリカ大陸に進出していっていたときにも、もちろん抵抗はあったわけです。
 そして同時にそうした抵抗をどうやって説明するのか。どういうことばでその抵抗の正しさを説明するのか。そういうことを考える人たちがいたわけです。そのときに出てきたのが、自己決定権というものです。つまり、自分たちの社会のあり方は、自分たちが決めることができるわけであって、外部から、何かを押し付けられるべきものではない。そういう考え方です。

 アメリカ大陸にもともと住んでいた人たちは、長く「インディオ」と呼ばれてきており、これは差別的な言い方ですので、今日もかぎかっこ付きで「インディオ」と呼びますけれども、本来はそこに住んでいた先住民族の人たちのことです。「インディオ」は自己決定権を持っている。その人たちの同意がなければ、スペインやポルトガルは、アメリカ大陸で自分たちの意思を通すことはできない。こうした議論がすでに15世紀に行われていたんですね。
 つまり国際法が誕生したときに、一方でヨーロッパ的な価値を世界に広げていこうとする帝国主義的なルールを作る。それに並行して、そういうもうひとつの論理がすでにあった。この二つの潮流が現代に引き継がれてきているんです。先ほど新垣さんが触れてくれた国際人権法というのは、国際法の中で、まさに「インディオ」と呼ばれた人たちが、スペインなどの征服・略奪に対してあらがおうとした、それを正当化しようとして打ち出した自己決定権の論理を膨らませていく、抵抗の法理として生み出されたのです。
 これが本格的に開花してくるようになったのは、20世紀になってからです。20世紀になってからは、自己決定権は自決の原則と言うことで、例えば、アメリカの大統領だったウィルソンや、レーニンもそうですが、多くの人たちが、民族自決ということを言うようになりました。

 こうして20世紀に入って生じてきた潮流は、もともとは長く、先住民族の人たちが戦い続けてきた現実を背景にして議論されるべきところだったのでしょうが、こうした先住民族の人たちのたたかい、つまり植民者に対する抵抗と、民族自決というものが、本当の意味で結びついてくるのは、やはり第二次世界大戦を経て、国連体制の下に入ってからでした。
 国連というのは、いまの国際社会の、言ってみれば最も大切にすべき国際組織ですが、国連憲章の中に、国連の原則があり、その基本原則の一つが、自決、自己決定の原則なんですね。そしてこれを人権の領域に組み入れて、明確に具体的に規定したのが、国際人権規約という条約で、その第1条の規定です。
 この規定の中に、「すべての人民は自決の権利を有する」と明記してあります。そして、「この権利をもって、自らの政治的、経済的、社会的、文化的なあり方を自ら決定することができる」と書いてあります。こういう権利が尊重されなければ、そこに住んでいる人たちの、個々の人権、例えば、表現の自由であるとか、集会・結社の自由、教育の権利、個々の人権の保障なんかできない、ということなんですね。
 つまり抑圧下にあって、支配されている集団が、どうして人権を保障されるのか。個々の人間の権利を保障する大前提は、そこに住んでいる人たちが抑圧を受けていない、支配されていない、ということです。従って、自己決定権というのは、人間が持っているとされる、基本的人権を保障する大前提として、保障されるべきものであるとされています。これを先ほど申し上げた、国際人権規約という人権条約が、第1条で明記しているんですね。
 国際人権規約というのは、数多ある人権条約の中でもっとも大切な条約です。自己決定権というのは、そういう意味で、支配や抑圧に対して、抵抗する権利であり、この権利なくして、個々の人権の保障なし、という位置づけを与えられているものです。

 従って、この自己決定権ということばが口に出されるということは、そこに抑圧や支配がある、ということになります。そして、抑圧や支配がある、というときには、当然に抵抗があり、そしてその抵抗を受けている人たちは、様々なことばを用いて表現したり行動に移してきましたけれども、今日ではこうした抵抗に対しては、国際人権法が、これを自己決定権の行使だとして、国際的に正当化するようになっています。このようにして現代では、人権を保障する大前提として、自己決定権があり、この自己決定権が、もっとも大切な基本原則として、確立されているという潮流が、状況があります。

 これが沖縄で語られているということは、沖縄が置かれている状況がどのようなものか、ということを、端的に象徴していることなんだろうと思います。

 そしてもうひとつ、なぜ沖縄の人たちは、自己決定権という国際法上の、国際人権法上のことばを用いるのかと言えば、それは先ほど新垣さんが触れたとおり、日本国憲法がきちんと機能してこなかったからです。沖縄が復帰するときに、期待をかけた日本国憲法が、1972年以降もその本来の姿を沖縄においては見せることがなかった。そして、日本国憲法は、日本国民、日本国内の多数者の利益を優先する、という限界を、この間持ち続けてきたという状況があればこそ、憲法を飛び越えて、国際的な法に訴えざるを得ない、ということになるんですね。
 そしてこれは何も、沖縄のことだけでなく、世界に多く存在しているマイノリティ、先住民族、あるいは抑圧・支配を受けている人たちは、ほとんど間違いなく、国際法に訴えています。なぜなら、どこの国も、その国を支えている制度が、多数者優先になっているからです。多数者優先の制度とバランスを取っていくために、裁判所が機能している国はまだいいんです。裁判所が少数者の利益を守れるからですね。

 けれども日本では、その裁判所もまた、多数者の利益を優先し続けてきたんですね。特に1959年の砂川事件判決ですが、これは歴史に残る汚点です。これを導いた田中耕太郎という人は、国際法学の世界では日本が世界に誇る、最も有能な国際法学者なんです。あるいは法律の世界、法哲学の世界でも、日本を代表する法律学者とされてきました。商法学者としても有名で、そして、世界連邦をつくるという議論においても指導的な役割を果たしてきたわけです。ことばは適当でないかもしれませんが、「神」のような存在でした。しかしこの人が、砂川事件判決を導く過程で取った行動というのは、およそ法律家の風上にも置けないものでした。
 このような人たちが、作り上げてきた司法が、マイノリティの利益を実現し得ないというのは、なるほど、と思わせるところがあった。こういう意味で、憲法、司法というものが機能しないというときには、国際法に頼らざるを得ない。そこで、自己決定権というのが、その人たちのたたかいやことばを支える理屈になっている。これが自己決定権についての位置づけなんだろうと思います。

◆◆ なぜ今、「沖縄の自己決定権」なのか ◆◆

【新垣】 今の沖縄に今の話がどうつながるかというと、少し乱暴かもしれませんが、沖縄の今の民意というのは、なるべく基地を減らして、兵力を減らしてほしい。でもそれが実現しない、自分たちの自己決定権が政策に反映されない、政策を自己決定できない。そういう状況下で、女性が殺される、レイプされるという事件が繰り返されている。この集団の構成員たちの人権が、個々の人権が侵害されている。これは自己決定権が侵害されているので、その構成員もひとりひとりの人権が侵害される可能性が高い。国際人権規約の1条、一丁目一番地におかれているのにもかかわらず、それが無視されているというところに、沖縄の現状というものが重なるのではないかと思います。

 ではなぜ、沖縄が自己決定権を主張できるのか、国際法を使えるのか、という根拠の部分を歴史的に象徴的なものだけを取り上げたいと思います。

 黒船で有名なペリーが日本に開国を迫ったとき、日米和親条約という国際条約を結びました。日本が最初に結んだ国際条約です。その原本は、江戸城の焼失で焼けてなくなりました。日米和親条約を結ぶ過程で、ペリーは沖縄、琉球王国を何回も訪れて、ここを拠点に江戸に行くんですね。この日米和親条約を結んだ4カ月後に、琉球王国と琉米修好条約を結びます。内容はそんなたいしたことはないです。友好関係のもとで、もしアメリカの船が来たら、水や食糧を補給してくれといったものが書かれています。
 特徴的なのは、実はペリーがよく琉球に来ていたときに、ある水軍兵士がレイプ事件を起こすんですね。それに対して、住民が怒って、石を投げて海まで追い詰めて殺害するんです。この事件のことを、ペリーは問題化するんです。しかし琉球側が強く出て、こんな事件を起こす方が悪いんだ、ということで、そういう事件に対する取り決めも条約に盛り込まれています。日米和親条約とはこの点が違うのですが、いずれにしてもこれは、日本に現存する最古の国際条約の原本なんですね。

 これがなぜ沖縄の自己決定権と結びつくのでしょうか。琉球は嫌々ながらもこの条約を結びました。なぜなら中国との関係があるからです。中国とは冊封関係を結んでいまして、当時、琉球は薩摩の支配下にありましたが、薩摩はほとんどの主権を琉球に残したまま、そこから得る経済的利益を搾取するという方法をとって、薩摩が琉球を支配しているということを対外的には隠ぺいするんですね。
 一方の琉球も隠ぺいしていて、実は中国との冊封関係、琉球の王を中国の皇帝が任命するという関係ですね、いわゆる中国の属国ですが、この関係を維持して、朝貢貿易、年貢みたいなものを持っていって、莫大な利益を得るという関係を続けるんですね。みなさんも首里城をご覧になってご存知だと思いますけれど、(首里城は)紫禁城にそっくりなんですね。ミニチュアみたいなものです。

 琉球王国は500年くらい続くんですが、この間もいろんな西洋の船が漂着していますが、対外的にはバックには中国がいることを示すことによって、自分たちの安全を保障する地位を見出したんだと思います。
 たしかに武器を捨てて、ほとんど兵力もありませんでした。琉球処分の時に、処分官が明治政府から来て、首里城のものをごっそり持って行かれるんですけれども、倉庫の中にさびて使えなくなった鉄砲が残っていたそうです。それぐらい、琉球という国は、わざと兵士とか武器を見せずに、「攻めても何の物資もありません。資源もありません、貧乏な国です」というところを見せて、隔離したところで接待して(本国に)返していく。絶対に華やかなところは見せないというのが、琉球のやり方でした。

 話が少しずれてしまいましたが、さっきの条約ですね、これは実はアメリカだけではなくて、琉球はフランスとも結びます。そのあと、オランダと結びます。ご存知のように、当時はアメリカよりも、フランスやオランダの方がものすごく強いです。そういうところと条約を結ぶことは、国際法上の主体として、琉球王国が認知されていたという事実を示しています。国際法の主体ということは、もし琉球を併合しようとするなら、国際法的な手続きが必要になるということなんですね。
 1854年にアメリカと、翌年、フランスと、1859年にオランダと条約を結びます。そして、1879年に琉球処分が起こります。このとき、首里城の門の前に明治政府軍が武装して取り囲みました。こうして、実は一方的に、琉球王に対して「沖縄県の設置」を宣言するんですね。半ば武力で脅しています。もちろん王は承認しません、最後まで抵抗しますけれども、武力的な抵抗はできず、結局首里城を追いやられ、最終的には東京に拉致されます。なぜなら、沖縄に残しておけば、抵抗勢力を息づかせるシンボルになるからです。こうして琉球処分が実行されました。

 国際法上の主体であるはずの琉球王国が、このように併合されるということは、いったいどういう意味があるんでしょうか。この点について、阿部先生と上村英明先生という国際人権法に詳しい方にお聞きしました。結論から申し上げますと、国際慣習法が禁じた、国の代表者への強制の禁止という事項に当たるのではないか、ということです。要するに不正な行為です。そして、これを最終的に主導したのは、実は伊藤博文です。伊藤博文はこのやり方を1910年の韓国併合に応用するんです。
 琉球処分という事柄は、ただ単なる日本による琉球併合、一地域の併合にとどまらない。帝国日本が帝国として、アジアに侵略していく一つのステップ、礎にしていたと言うことができると思います。琉球併合をモデルにして、韓国を併合して、その後大陸を侵略していくという道筋の第一歩を踏んだということなんですね。その意味でも、沖縄というところは、日本とアジアとの関係を考えていく上では、非常に重要な歴史的なポイントを握っているところだと言うことができると思います。

 ハワイでも似たような事件がありまして、ハワイも1893年にアメリカ合衆国に併合されるんですけれども、それは不正だと追及をうけて、その100年後の1993年、ときのクリントン大統領が、これは不正だったと認めて謝罪の決議にサインをしました。この不正性は単なる過去ではなく、今の人たち、今を生きている子孫たちにとっても、主張できる権利としてあるわけです。
 なぜ137年前の琉球処分のことをいちいち言うのか、なぜそんな昔のことを言うのか、というと、現在からでもその不正を主張することによって、当事者国に謝罪だけではなく、いろんな連続性がある、併合後、植民地化され、植民地的な状況に置かれてきた沖縄の権利を、もう一回主張できるという、そういう歴史的な大事な根拠となり得ると思うんですね。このあたりを阿部先生に解説をしていただければと思います。

【阿部】 クリントンの署名、この1893年のハワイ併合に対する謝罪の理由の一つは、ハワイの人たちの自己決定権を侵害したということなんですね。今になって—今になってということばは語弊があるかもしれませんが、相当の年数を経てから、過去の不正が明らかになり、それに対して謝罪をする、という現象が1980年代、90年代から増えてきています。21世紀に入って始まった対テロ戦争のもとで、なかなか日常的に私たちの目にとまらなくなっているかもしれないんですけれども、紛れもなく、こういう謝罪の潮流というのが、国際社会に広がってきています。
 これはスペインによる「新大陸」の征服以来、脈々と続いてきた不正を、国際法を用いて是正していくという潮流です。自己決定権ということばは、これを先導している概念なんですね。この潮流が脈々と続いていると言いましたけれども、対テロ戦争をリードしているのは、帝国主義的な考え方にもとづく国際法のルールです。15世紀以来、長年にわたって、ヨーロッパが対外的に進出してくる過程で国際法が作られてきたという話をしましたが、そのため、帝国主義的な国際法のルールというのはたくさんあるわけです。
 近年ではアメリカ合衆国が武力侵攻を行って、各国の秩序を世界中で破壊しているわけですけれども、そういう帝国主義的な秩序づくりというのが、アメリカを中心にして行われ、そしてそこに、例えば日本も参画していくわけです。最近のこうした帝国主義的な国際法を表す象徴的な用語が、「集団的自衛権」というものです。アメリカ合衆国が行使する武力をサポートするということで、帝国主義的な秩序、敵を作り敵を殲滅して、世界を一元化していく、こういうものがずっと今も脈々と続いていることがわかります。小泉政権以来、安倍政権もこれに加わっていくことを宣言しました。
 しかし他方では、自決権という概念に基づいて、抵抗していく潮流があります。そして、こうして2つに分けてしまうとあまりに単純かもしれないけれど、あえて言えば、こうした潮流が複雑に絡まり合いながら、国際社会の現実が作られてきているところがあるんです。

 帝国主義的な国際法というのは、一元的なルールを、一元的な価値のもとに世界をならしていくことです。グローバル化、経済のグローバル化もそうです。しかしこれに対して、自決権という概念は多元的なものをつくり出すことなんです。そこに住んでいる人たちの意思をもとにして、その人たちの生活を最重視する秩序、それを世界各地でつくり出していく。これは一元化の帝国主義的な考え方と対立していくものです。
 そういう自決権を求める潮流というのは、現在の不条理をもたらしている過去の不正と向き合うことによって、今の社会を変えていく。今の社会を変えていくためには、あるいは、今の自分たちが置かれている状況を変えるためには、なぜ私たちの社会は、あるいは私たちは、このような状況に置かれているのかということを、当然に振り返らないといけないわけですね。そうしたときに、過去に何があったのかということを、もう一度見つめ直すことになります。そうするとそこに、多くの不正があったことに気づくわけです。そして、その不正をきちんと指摘することが、今につながってくるということになります。

 マイノリティの人たちが置かれている状況、あるいは社会的に支配されている集団が置かれている状況というのは、昨日今日始まったようなことではなく、長い歴史の積み重ねですから、どうしても過去の不正というものにつながっていくわけです。過去の不正があって、現在の劣位性がある、というつながりなんです。だから、過去を見るということは、現在につながってきて、そしてそれが、未来を拓いていくという、過去・現在・未来というつながりの中で、謝罪の時代というのがあるんですね。過去について謝罪をすることによって、現在から未来に向けた、多元的な社会というものをつくり出していく、そういう潮流があります。
 そういうものが、世界的に80年代、90年代、21世紀にかけて、21世紀には対テロ戦争というものが世界を覆ってきましたけれども、脈々と広がってきています。こういう流れというのは、みんながあらかじめ連帯してやっているというわけではなく、それぞれの地域でそれぞれの人たちが、独自のたたかいをしているわけですけれども、不思議とつながっているように見えるわけです。地下茎がつながっているかのように感じられます。

 沖縄の状況というのも、まさに私は国際法の観点から見ると、そういうグローバルな潮流の中の東アジアにおける現れではないかと思えるわけです。もちろん沖縄の人たちは、世界的な潮流を踏まえてやっているというよりは、とにかく目の前のものに対して、怒りを表明していくという中から導かれてきているものだと思いますが、しかし少し後ろに下がってみると、いかにも大きな世界的な潮流の中にあると言うことができると思います。

 琉球は1854年に、修好条約をアメリカとの間で結ぶわけですが、全く同じ年に、日本も日米和親条約という条約を結びます。日本が国際社会の仲間入りをしたのは、その1854年の日米和親条約を通じてです。「日米和親条約を日本はどうして結べたのですか」というある議員の質問に対して、政府の公式の見解は、「なぜなら日本は主権国家だったから」ということでした。「主権国家だから、1854年に日米和親条約を結べたんだ」と言ったわけですね。
 その同じ年に、ペリーは琉球で修好条約を結んでします。なぜ琉球はアメリカ合衆国と条約を結ぶことができたのか。アメリカと日本が条約を結べた理由が、「日本が主権国家だったから」だとすれば、琉球王国がアメリカ合衆国と条約を結ぶことができたのも、「(琉球王国が)主権国家だったから」となるのが当然の帰結だと思います。そして、この条約はアメリカ合衆国では、きちんと議会によって批准の手続きを取っている。アメリカ合衆国は主権国家としか、条約を結ばない。そしてそのような国として、琉球が存在していた。そして、同じようにフランスもオランダも、琉球王国と、主権国家として、条約を締結していたんです。

 この時期ちょうど、東アジアは中国を中心とする中華秩序、華夷秩序から、新しいヨーロッパ中心の国際社会への移行期だったので、かなりの混乱がみられたことは事実です。例えば日本は、1879年の琉球処分、この琉球処分ということばは、上の者が下の者を懲らしめるという響きで、意識的に使われてきたものだと思いますけれど、琉球が主権国家であったとすれば、日本による琉球処分も、本来、琉球王国の併合と表現すべきです。処分ということばは、ひとつの国の中で、上位者による下位の者に対する懲らしめですから、この言葉は実に意図的につくられてきたように思います。従って、琉球併合と言い直させてもらいますが、この琉球併合の7年前の1872年に、琉球王国の国王を藩王にして、琉球藩を設置しています。
 1872年に、廃藩置県というのがありまして、日本にある藩が全て県になったんですね。そして、沖縄はそれまでは島津藩との関係を持っていました。附庸関係にあったんです、島津藩と。宗属関係は中国ともありましたが、東アジアにおけるそうした関係は支配・従属というものではなく、現に、琉球王国は独自の政治的な実体として存在していたのです。
 その琉球王国は、島津藩を通じて江戸幕府とも関係があったんですけれども、天皇とは一切関係なかったんです。しかし版籍奉還・廃藩置県は、日本の土地と人民を天皇に返す、という「王土王民」思想を前提にして行われました。従って、琉球王国を日本に県として編入するためには、天皇に対して、琉球の人々と土地を返すという理屈をつくらないといけない。そのための理屈をつくるために、1872年に一旦、琉球国王を藩王として冊封し、天皇と結びつきを付けて、そのうえで1879年に沖縄県を設置するという段取りを、日本としてはやったわけです。

 しかし、国際法的には、これは日本内部の理屈にすぎず、琉球王国の併合は明らかに主権国家による、主権国家の併合にほかなりませんでした。国家が他国を合法的に併合するには理屈が必要なんですが、その理屈が全くない。暴力的にこれを行ったということで、これは今日に引き続く、国際法の不正であり、そしてこうした不正があると、その後、ハワイもそうでしたけれども、決まって植民地主義的な支配を、その国の中で受けることになります。つまり、一国の中で、いろいろな面で低い立場に置かれる地域になってしまうんですね。ハワイがそうでした。
 こういう形で、過去の不正がその後の植民地主義的な取り扱いにつながり、それが様々な不条理を生み出し、そしてそれが怒りを生み、抵抗を生み、自決権を引き出し、というかたちでつながってくる。従って、自決権を語るというのは過去の不正とどうしても結びついていくと言うことになって、沖縄も1879年の琉球処分という名の琉球併合、これはいかなる根拠で行ったのか。何の根拠もなかったではないか、ということを問い直す状況になるのはしごく当然の成り行きなのだと思います。

【新垣】 通常、条約の原本は当事者国は2つあるので、原本も2つあるはずですよね。しかし、琉球王国が結んだものは、なぜか外務省の外交史料館にあります。「なぜ、外交史料館がお持ちですか」と公式な質問をしたことがありますけれども、「わかりません」ということでした。おそらく、琉球処分の時に、諸事情から持ち帰っていたと言うよりも、わざと没収したんですね。「持ってこい」と命令するんですが、条約の原本を(琉球王国側が)持っているとまずい、と明治政府はわかっていたんですよ。琉球処分の5年前に没収するんです。外交権を奪わないとだめだと思っていて、中国と外交をしている琉球から、いろんな外交の証拠を奪いたかったんですね。

 ところがもう一つの原本が、今でもアメリカの公文書館にあることを突き止めました。アメリカ国務省のホームページには、きちんと、日本国が1879年に琉球を併合したと書かれております。公式にはアメリカはこの条約を持っていることを認め、琉球との関係があったことを、公式にはわかっているんですね。翁長さんはこれを使えると思います。
 私たち琉球新報は、この条約の原本を外務省から何とか説得して借りて、沖縄で展示したことがあるんですね。2015年の3月です。そのときに翁長さんも見に来ています。浦添市美術館に原本を持ってきて、延べ約2万人の人が来て、見ていきました。やはり琉球は主権国家だったと言うことを、もう一度県民に知らしめようと言うことで、琉球新報の企画でやりました。

◆◆ 沖縄に対する植民地支配の不正性とは ◆◆

【新垣】 今琉球併合の話をしましたが、その後も植民地的な支配の不正性というのはずっと続きます。ものすごくポイントだけ説明します。併合後は植民地的な政策がしかれます。皇民化教育です。日本全国の地方でも実施されました。しかし、沖縄は非常にモーターが強く働いた。それはなぜかというと、やはり国家の辺境だからです。
 台湾人や朝鮮人が差別される中、自分たちも差別されるのではないか、差別の対象にされるのは怖い。その恐怖で日本人への同化がすごく強く動機付けされて、自ら方言札で方言を捨てていって、沖縄の風習というのを捨てていって、しゃべり方、くしゃみまでも日本人にまねなさい、ということを、実は琉球新報の社長とかが宣言したりするんですね。そうして同化して皇民として生きていく、その最大の悲惨な結末が、沖縄戦における集団自決です。
 あれは玉砕なんですね。当時、一般住民は自決ということばを使っていません。自決は軍隊の用語です。一般の人たちは玉砕として使います。天皇のしもべとして散る。沖縄の人たちが自ら死んでいく、あるいは、子どもを、家族たちを自分たちで殺していく。これこそが沖縄の植民地化政策・同化政策の一つの結末と言うことができると思います。
 ご存知のように、沖縄というのは本土決戦の時間稼ぎのために、捨て石だと言われてきました。今でも沖縄の人たちの中には、ずっとこの沖縄の平和を願うための根底に、沖縄戦があります。自分たちの戦争のトラウマに、ナイフが刺さっているようなもの、それが米軍基地だと考えていただければと思います。
 ここまで平和を希求している人たちにとって、他国に軍隊が、アメリカの軍隊が爆撃しに行くと言うことのつらさ。いつも、騒音や兵士たちが悪さをするごとに、沖縄戦を思い出さないといけないつらさ。ベトナム戦争の時には、沖縄は悪魔の島とベトナム人に呼ばれました。自分たちがこれだけの被害を受けたにも関わらず、加害者になる、戦争の加担者にさせられるという、非常に人間としての尊厳が奪われていることが、今の沖縄の中にあるわけです。

 その後、サンフランシスコ講和条約によって、日本が独立してその引き替えに沖縄が米軍の施政権下におかれるようになりました。その復帰するまでの20年間、いったい沖縄はどういった地位にあったのか。国際法で調べてみました。結論を申し上げますと、世界の他の植民地よりも低い地位だったということです。なぜ沖縄は植民地以下の地位に置かれるのか。それは、共産主義圏の防波堤として、反共防衛の拠点として、米軍基地を自由に使えるような環境がつくられた。だからこそ沖縄は、いまだに軍事植民地と言われております。
 こういう状況の中では、日本国憲法というのはものすごく輝いて見えるんですね。平和主義、憲法9条、あるいは人権の保障、これはものすごく素晴らしい、ここに復帰しよう、という運動が、60年代から強まります。
 最初は実は民族主義的な復帰運動なんですね。子が親に帰るように、同じ日本人なんだから、と言って、戦前の延長のような形で、地域の名士たち、リーダーたちが運動するんですけれども、すごい土地闘争があって、これも人権闘争ですが、米軍用地に奪われていくことに対して、人権意識が芽生えていく。これを最初に朝日新聞が報道して、沖縄問題というのが全国で初めて報道されるようになるわけですが、そうした人権闘争を経て、憲法への復帰というものが、ものすごく大きな柱として出てくるわけです。

 1960年以降、ベトナム戦争が起きました。そうすると、憲法復帰と言うだけではなくて、反戦復帰というものが出てきます。ベトナム戦争に対する反戦運動がインターナショナル化していくと、沖縄もそういう潮流の中にのっていくんですね。反戦復帰と言われるようになってから、沖縄の基地を全て撤去してくださいという要求が、復帰運動の中でも掲げられるようになるわけです。
 ところが、1969年11月、佐藤・ニクソン会談で合意した、沖縄返還協定の中身が明らかになりますが、ほとんどの基地が沖縄に残るとわかった瞬間、沖縄の人たちは失望します。「日本政府は私たちの味方だったはずなのに、裏切られた」という気持ちが非常に強くなった。このときに、沖縄のアイデンティティをもう一回とらえ返そうという、知識人たちの作業が始まるんですね。
 これは復帰論者で言えば、大田昌秀さん、あるいは、芥川賞作家の大城立裕さん、あるいは、反復帰論者だったら、新川明さん、川満信一さんたち。こういう人たちが、「ウチナーンチュ」ということを言い出すようになるんですね。「ウチナーンチュ」(沖縄人・琉球人)ということばは、日本との分断政策のため、米軍がそういうことばを使うよう、最初は推奨するんですね。復帰運動の中でもタブー視されていたものが、この69年を境目に、一挙に吹き出してくるんです。
 このときに初めて、集団自決の話とか、日本軍による住民虐殺の話とかが出始めてくるんです。証言も出始めてくる。「日本に裏切られた」という気持ちの中で、沖縄のアイデンティティをもう一回とらえ返そうという動きが出てきたんですね。なぜこのアイデンティティが重要かというと、沖縄が、暴力、軍隊への抵抗の主体だからです。
 さきほど自己決定権というのは抵抗の法理だという阿部先生からの指摘がありましたが、この抵抗の法理の基礎となる沖縄の抵抗の主体は、このときに見直されていくというプロセスがあります。これが復帰後の自立思想に転移していくんですね。沖縄のアイデンティティとは未開人、野蛮人、日本人に劣った後進的な沖縄人ではなくて、自分たちは中国や東南アジア、世界と交易してきた海洋民族だったのではないか。あるいは、平和を愛する民、平和愛好の民ではないか、といったことを言い始めます。

 キーワードは「命どぅ宝(ぬちどぅたから)」命こそ宝、これは沖縄のスピリッツとしてのキーワードです。「いちゃりばちょーでー」出会えば兄弟、「ちむぐくる」人の心の痛みに寄りそう、「ゆいまーる」共生です。フランス革命以来の自由・平等・共生・博愛・平和、そういった普遍的な価値と言われるものと共鳴するような、そういう主体として、抵抗の主体がつくられていくという流れが、実は沖縄にあるわけですね。
 そこをきちんと理解しないと、沖縄・琉球民族と言ったら、その発想自体に、排外主義を含んでいる、とヤマトの知識人たちとか、右翼的な方々が言うんですが、そもそも沖縄の抵抗の主体のあり方は、民族的な排外主義から生まれてきているものではなくて、厳然と存在する物理的、圧倒的な米軍基地という暴力に抵抗するために生まれてきた主体である、と言うことをきちんと押さえないといけないのではないか、と思います。

 そこで、阿部先生のご意見をお伺いしたいのですが、琉球併合以降、日本復帰までの沖縄に対する不正性というのは、国際法上みたらどう映るのか。そういう連続性について、説明していただきたいと思います。

【阿部】 まず、戦争の終わった後は、米軍による占領状態でありますけれども、戦時中から多くの土地が取り上げられるわけですね。今現在、沖縄に現存している基地は、この第二次大戦期に、また戦争直後における米軍による接収、暴力的な収奪ということの結果です。
 しかし、サンフランシスコ平和条約が締結されるまでの間は、占領状態が続いていましたので、これは国際法的には「戦時」です。武力紛争時に適用される国際法が守られなければならないわけです。このときには占領していた国は、占領した先の土地を取ったり、現地の法令を変えてしまうとか、そういうことはしてはいけないんです。そういうルールがあります。もしそういうことをしたら、きちんと損害賠償をしなさい、とはっきりとハーグ陸戦条約という国際法に明記されています。
 ゆえに、第二次大戦期から、サンフランシスコ平和条約が締結されるまでの間、まずこの間に様々な土地の収奪や、人の強制的な移転がありましたが、これは明らかに国際法に違反していますので、アメリカ合衆国がきちんと賠償すべきなんです。日本国がきちんとアメリカに対して賠償するよう請求すべきなのです。
 その旨の学術論文というのはそれなりに出てきました。しかし残念ながら、行動に移されることがない。琉球の併合それ自体がそうでしたが、第二次大戦期から、その直後の占領期における沖縄の人に対する米軍の行為によって生じた、多くの国際法違反、これもまた、全く治癒されない、つまり、是正されないまま残っています。これは現在においても、原状を回復し、損害を賠償してもらえるものです。

 そしてその後、サンフランシスコ平和条約が発効し、日本は主権を回復することになりました。しかし、沖縄は米軍の統治下に置かれることになりました。この1952年にサンフランシスコ平和条約が発効してから、1972年に沖縄に復帰するまでの間、これはひとことで無法状態だったと言っていいと思います。沖縄の人たちの生活を支えたのは、沖縄の人たちのたたかいしかなかっただろうと思います。
 つまり、まず第一に、形の上では、サンフランシスコ平和条約が効力を生じた後は、沖縄も形の上では日本の領土であるとされ、日本の主権が及ぶんだと言っているんですね。けれども、実際には統治をしているのはアメリカですので、その主権というのは形だけ、潜在的なものでしかない。日本の主権が及んでいるはずなのに、形だけでしかありませんので、日本国憲法は適用されないということになります。
 他方で、米軍の統治下にあることによってアメリカの憲法が適用されたのかというと、アメリカの憲法は領域外には適用されません。従って、沖縄は、日本国憲法の適用を実質的に受けない、アメリカの憲法の適用も受けない、どこの国の憲法の保障もないという状況に置かれていました。そして、1950年代というのは、先ほど述べたような自己決定権を中心とする国際人権法の保障が、まだ未熟なときでした。萌芽期と言ってもいい。従って、国際法の保障もほとんど何もないという状況だったわけで、72年までの間は、沖縄は文字通り無法状態のもとで、典型的な米軍の統治、軍事主義的な植民地支配が行われていたということだと思います。

 72年に沖縄が返還される過程で、ご存知の通り、たくさんの密約があったことが分かってきました。およそ考えられないような約束を裏でアメリカとしていて、それが今日の地位協定の運用の仕方にまで続いているのです。72年に沖縄が日本に復帰する、ということになり、それ以降は日本国憲法の適用を受ける、実質的にも受けうるはずでしたが、しかし現実的にはアメリカとの間の協定—当初は日米行政協定、それが1960年に地位協定になりますけれども、日米地位協定が沖縄では72年以降も、基本法のような形で機能して、憲法が十分に機能していない。地位協定のもとで、非常に差別的な処遇を受けるという状況が、72年以降も続いていくことになったんだと思います。

 実はアメリカにはひとつだけ、他の選択肢が形の上ではあったんですね。アメリカが国連の信託統治と呼ばれる制度に、沖縄を置くことにしたら、日本はそれに反対しないということを、サンフランシスコ平和条約で約束していたんです。しかしアメリカは、国連の信託統治のもとに置くことはしませんでした。なぜかというと、国連の信託統治のもとに置くと、国連の監視を受けることになるんです。
 信託統治というのは、国連のもとで、独立をするまでには至っていない地域を、代わって面倒を見てあげる、そして、しかし独立するというときには独立をさせるという形で面倒を見る制度だったんですね。しかし、そのような制度に置かれることになると、その人たちの面倒を見ているかどうか、国連がチェックすることになりますので、もし沖縄が信託統治下に置かれることになったとしたら、国連の監視を受けることになって、それは好ましくないということで、その選択肢はとられなかったわけです。その背景には東西冷戦の下で、国際的監視のない中で沖縄を軍事利用しようとしたアメリカ政府の思惑があったことは言うまでもありません。

 72年に返還されることになって、それ以降、本格的に地位協定が日本国憲法をしのぐ形で、沖縄を支配している状況になったということです。

◆◆ 沖縄「自立論」「独立論」をめぐって ◆◆

【新垣】 沖縄の「自立論」が復帰闘争の挫折において出てきたというお話を先ほど申し上げましたが、ひとつ政治的に端を開いたのが、大田昌秀さんの県政時代の、3つの沖縄の計画・構想です。

 ひとつは「国際都市形成構想」、もう一つは「自由貿易地域構想」、そして、「基地返還アクションプログラム」です。この「基地返還アクションプログラム」というのは2015年までに、段階的に基地を返還させて、2015年にゼロにしようと。もしこれが実現していれば、去年の段階で沖縄の基地はゼロになっていたわけです。「国際都市形成構想」というのは、アジアなどと交流する世界都市、交流都市をつくろうという構想です。「自由貿易地域構想」は、昔沖縄が琉球王国時代に大交易していた、海洋民族という気概を活かして、沖縄が自由貿易の拠点になる、香港などをモデルにして、経済を切り拓いていこう、経済自立を図ろうという構想です。この3点セットの計画が、ひとつ沖縄の政治的な到達点だったわけです。

 ところがご存知のように、大田昌秀さんは、米軍による土地の強制収容に対する代理署名の裁判で国に負けて、その後、自公政権の候補に敗れてしまいました。そして、沖縄は自公の政権のもとで、沖縄振興計画、これは内閣府が最終的に決める総合計画なんですが、そういう計画のもとで、沖縄の経済的自立というものが模索されていくという展開です。
 ちなみにこの自公政権のもとの振興計画ですが、47の都道府県は通常、自分たちの総合計画は自分たちで決めるんですね。ひとつの自己決定権ですが、沖縄だけ内閣府が決めています。予算も内閣府が決めています。
 よく3000億円純増で、沖縄だけもらいすぎなのではないかという議論がありますが、これも非常に誤解、間違いが多くて、ふつうの都道府県で言うインフラ、道路整備の補助とかも全部パッケージになって入っているんですね。ですから、ひとりあたりの補助金をみますと、沖縄は全国で5位だったり、地方交付税という、一番自由度の高い税金に関しては17位。地方交付税の制度設計自体が、沖縄が復帰する前なので、実は算定基準も沖縄が反映されていないという非常に不利な状況に沖縄は置かれています。補助金という面からもです。

 基地の返還に関して言えば、ちょくちょくいらなくなった住宅地とかが返還された。そうするとその跡地利用が先行して、いまの那覇新都心とか、北谷町美浜とか有名ですが、米軍基地があったときの経済効果よりも、何十倍という効果を上げて、雇用も何十倍と生まれています。「基地があるよりもないほうが発展するんだ」ということになりまして、翁長さんはむしろ、基地は経済発展の阻害要因だと言って、当選するわけです。
 実際、沖縄の所得に占める基地経済の割合は、これは政府からの補助金も含めてですが、復帰時はたしかに15%ぐらいありましたが、最近では5%ぐらいになっております。さらに、こういう跡地利用が成功して、基地がなくなったほうが飛躍することがわかってきているので、経済界も基地がないほうがいいと言う人が増えています。これがやはりオール沖縄の足腰を強くする要因となっていると言えると思います。

 少し自己決定権に引き寄せて言うと、翁長さんは選挙前から「イデオロギーよりアイデンティティ」という言い方を使っています。イデオロギーとは何かというと、保革対立のことを彼は言っているんですね。保革対立を乗り越えようということで、東西対立の冷戦を終わらせたゴルバチョフさんを非常に尊敬しているんです。
 イデオロギーよりアイデンティティと言った場合に、アイデンティティという語は帰属意識、自己認識とかいろいろ定義はあるんですけれども、どうも尊厳という意味合いで使っているような感じがします。沖縄の人々の尊厳を守れ、ということをよく言うんですね。その意味でのアイデンティティの使い方を、翁長さんがやっていて、そのアイデンティティのもとで、沖縄の人たちをまとめようと。島くとぅばも、よくあいさつなんかで使うようになっています。

◆◆ 国際世論へ訴える ◆◆

【新垣】 その翁長さんが2015年9月に国連人権理事会に行きました。沖縄の知事として、国連に直訴するのは初めてのことです。ここでスピーチをしました。沖縄の自己決定権と人権が、蔑ろにされている、と直訴に打って出ます。翁長知事を支える島ぐるみ会議というものがありますけれども、ここに国際部会があり、どうやって国際的にこの沖縄の問題を訴えるかという取り組みが行われております。ここで今の状況を阿部先生がどうご覧になり、国際世論の俎上に、沖縄の問題を載せていくというために、どういった取り組みが必要か、お聞きしたいとお思います。

【阿部】 冷戦が終わって、1990年代から21世紀にかけて、国際人権保障システムが著しく発展してきます。そうした中で、自決権に関する議論も、国際的な舞台、国連でも盛んに議論されて、それを守るために、実現するために、どういうことをすべきかという議論も行われるようになってきました。そうした中で、国連にはいくつかの人権条約があり、日本も人権条約に入っているんですね。そして、人権条約をちゃんと守っているかを定期的に審査する制度があります。先ほど申し上げた国際人権規約には、自己決定権は第1条に規定されています。マイノリティの権利も保障しなければならないと書かれています。

 こうした観点から、人権条約機関は沖縄の人たちの置かれている状況に関心を持つようになってきました。人種差別に関する条約や国際人権規約などの人権条約機関から琉球・沖縄の問題を取り上げられるときに、琉球・沖縄の人たちは、国際人権規約第1条が言う、自己決定権を持つ人民だという考え方、あるいは、マイノリティなんだという認識が示されるようになってきました。
 自決権については、先ほど新垣さんのご説明にもありましたが、民族自決という言葉から、自決は民族が持つものである、と私たちの頭にインプットされていますし、民族というのは、例えば、血のつながりなどによって決まっているようなものにイメージされがちです。しかし、自己決定権を持っているのは、正確には人民なんです。人民というのは日本語訳ですが、英語ではピープル people なんですね。このピープル people であれば、自らのあり方を自ら決めることができるわけです。そしてそれを、例えば、中央政府や外国は侵害してはいけないんです。
 沖縄の人たちがピープル people であるとしたら、沖縄の政治的、経済的、社会的、文化的なあり方は、まず沖縄の人たちが決める。それを日本政府は尊重しなければならないし、助けなければならない。あるいはアメリカ合衆国も侵害してはいけない、妨げてはいけない、これが人権条約上の義務です。このように規定している人権条約の中で、沖縄の人たちはピープル people として認められるようになってきました。独自の言語的なあるいは文化的なつながりをもつ人々なんだということです。
 それを日本政府が尊重しているのか、守っているのか、という議論が行われてきています。多くの勧告が琉球・沖縄の人たちの処遇に関して出てくるようになっています。国際人権機関においては、琉球の人たちは日本の中にいる人たちであることは間違いない。しかし、日本の中にあって差別を受けている。そして、ピープル people として、自己決定権を持っている。という考え方が明確になってきている。さらにそこに加えて、もともとそこに住んでいた人たちであると言うことから、先住民族であるという考え方も出てくるようになってきている。
 いずれにせよ、自分たちのあり方を自分たちで決めることができる人々であるというその考え方が、人権条約に照らして何度も確認されるようになってきているんですね。

 基地の存在というのは、そして、性暴力に典型的に表れる地位協定の暴力性というのは、沖縄の人たちが自分たちのあり方を自分たちで決めるというあり方を、著しく損なっていると考えられます。こうしたことから、国際人権機関は、日本政府に対して、きちんと沖縄の人たちをピープル people として認めて、そのあり方をきちんと尊重するようにせよ、という勧告をするようになってきています。
 加えて、最近は辺野古であるとか東村の高江であるとか、ヘリパッドの建設に対する抵抗運動がありますが、これに対して、強権的にこれを取り締まるということが行われています。例えば、山城博治さんは身柄を拘束されました。目取真俊さんもそうでした。
 90年代以降、国連の制度は著しく発展してきたと言いましたけれども、人権条約以外に、国連の中に様々な手続きがありまして、この手続きの一つが、例えば、表現の自由を守ることを目的にした手続きです。それから、平和的な集会の自由を守る手続きがあります。そして、環境を守る手続きがあります。そして、人権を擁護しようとする人たちを守る手続きがあるんですね。こういうような手続きのもとで、沖縄における基地の建設に対する反対する運動も、日本政府による取り締まり、身柄の拘束が国際的に認められている基準を踏み出している、超えているということで、非常に強い懸念が示されるようになってきています。

 このように国際的な基準に照らし、沖縄の事態について、国際的な人権機関が、何度も勧告や憂慮を表明するようになっています。こういう中で、さらに基地を建設する、ヘリパッドを建設するということになっていくと、さらに国際的な人権基準の侵害が、積み重ねられていくということになります。そうなると、国際人権機関において、例えば翁長さんが、国連の人権理事会で発言しましたけれども、さらに大きく沖縄の事態が取り上げられるということになるかもしれません。
 運動に関わっている側としては、こういう国際的な手続きをどれだけ有効に使って、国際的な世論を喚起していくか、ということが重要なんだろうと思うんですね。国際法自体が沖縄の運動を、自己決定権を手がかりにして支援する論理をたくさん用意していますので、それをどう使っていくかということでもあります。

 国連の人権理事会で翁長さんがスピーチをしたときに、日本政府代表(大使)として嘉治さんという方が、反論をしたんですが、非常に無機質で、官僚的でした。十分に手続きを踏んでちゃんとやっているという趣旨で、官房長官と同じような発言を「粛々と」していました。
 この方は東京大学で、人間の安全保障プログラムを担当する教授として、人間の安全保障を教えていたんですよ。私がこれを非常に大きな問題だと思うのは、研究者で学術活動に携わっている人たちが、こうした問題にどう向き合っていくかということに関わると思うんですが、特に本土の側にいる、国際法であるとか、国際政治に関わる研究者が、この問題を沖縄の問題だから、沖縄の研究者がやればいいとでも思い込んでいるとしたら、これはとても大きな問題です。
 沖縄の問題にとって、本土はまぎれもない当事者ですよね。沖縄の足を踏んでいるのは本土なわけですから。だとしたら、本土にいる国際法や国際政治やあるいは大学で教えている先生が、沖縄について発言をしたりするときに、どういうことを言うのかというのは、とても重要だと思います。
 日本政府がいまのような態度を沖縄に対してとり続けることができる背景には、こうした専門家、学術活動に関わっている人たちがあまりにも沖縄に対して無関心な事情があるのだと思うんです。この人はこの場では、大使として振る舞いましたので、日本政府の公式の見解を述べたに過ぎないんですけれども、ちょっと前まで、人間の安全保障を大学で教えていた人が、人間の安全保障とおよそ異なる発言を公然とすることができるものか、という思いを持ったということを付け加えておきます。

【新垣】 500人の機動隊を全国から集めて投入して市民を排除して、けが人も出している高江の強硬的な工事着工に対して、疑問を投げかけた国際人権団体(反差別国際運動・IMADR)があって、それに対して大使が答弁しているんですが、「詳細を把握していない」と言っていて、「一般的に警察を含め、日本政府は国内法に従って行動している」「日本の法制度は人権を保障し、憲法で平和集会の自由を保障している」と強調しました。
 これに対して、この団体(反差別国際運動・IMADR)の方は、「国内法で人権を保障しているというのは、的外れで不誠実だ」と言っていて、「日本は国連で人権先進国のイメージを打ち出しているが、実際は沖縄に挑戦的な態度を示すなど、事実と異なることをして、顔を使い分けている」とコメントされています。ジュネーブにずっと駐在している団体の方です。
 もう今、現在進行形でこういった問題が沖縄で起きていまして、デイビッド・ケイさんという国連の特別報告者が来て、表現の自由について視察したときも、沖縄の表現の自由についても、懸念をきちんと表明しています。こういう形で、国連の方々が、かなり沖縄に対して関心を持ちつつあるんですね。

◆◆ 今後の展望 ◆◆

【新垣】 一方の沖縄では、どう自己決定権を考えているか、ということについて、2015年、琉球新報と沖縄テレビで世論調査をいたしました。ここでは沖縄戦のことも聞いたりしていますが、自己決定権の拡大に賛成したのは87%に上っています。これは具体的回答としては、「大いにやるべきだ」とか、「ある程度やるべきだ」というものも入れて、全部で87%です。自己決定権への希求が非常に高まっていると言うことだと思います。

 実は琉米修好条約のことは一般の県民にはほとんど知られていませんでした。琉球処分ということばはけっこう使われてきたのですが、国際法でどう位置付けるかという議論はほとんどなかったんですね。そこで私は、その歴史を沖縄の視点で書き、描写しました。条約締結から琉球処分に至るまでの沖縄の歴史について、沖縄の視点で書くということも、おそらくされたことがないと思います。
 「琉球処分」という行政報告書、これは松田道之という処分官が書いたものをもとに、大城立裕さんという作家が小説にされましたが、彼にも非常に褒められました。1990年代以降、琉球の抵抗の様子が資料からだんだんわかり始めてきたんです。ものすごく抵抗していて、当時から、実は国際問題化していたことがわかった。琉球の王国の士族たちが、当時から国際法に訴えていた。そういうことを踏まえ、琉球の視点から書きました。
 だいたい歴史というものは勝者の記録だと言います。勝者の視点から、弱者を矯正とか保護してあげたという視点で語られがちなんですけれども、それを琉球の視点で書き直したというところに意味があります。非常に評価を受けて、早稲田大学の石橋湛山ジャーナリズム大賞もいただきました。

 それを本にしたのですが、この中で意識しているのは、歴史の発掘が縦糸だとすれば、国際社会の今の自己決定権を求めている地域への取材を、空間を広げるための視座として、横糸として紡いだつもりです。
 たとえばスコットランドにも行きました。スコットランドの独立投票は、2014年9月ですけれども、非常に平和裏でした。唯一衝突があるとしたら、独立賛成派の人が、反対派の政治家に生卵を一個投げて、頭に当たったと、これひとつだけだったということです。
 投票日の投票所も、独立イエス派は風船を配って、子どもたちと遊んでいる。非常に和気あいあいとやっている。投票権は16歳で、いま日本では18歳で話題になっていますけれども、こちらは16歳からできたんです。投票率は84.5%というすごい投票率だったんですが、もうシュプレヒコールとか、旗を持ってすごい運動をするような、沖縄の選挙にあるようなことはまったくないんです。静かで、世界から来たテレビカメラの人たちが、どこを絵に撮っていいかわからないくらい、公園でテレビカメラの人みんなが途方に暮れていた。一般市民は淡々と普通に生活をして、あの投票率をはじき出すという、非常に理性的な討議をして考えているという印象を受けました。

 なぜ平和裡な独立運動なのか。いろいろ調べてみますと、EUという枠組みが非常に大事だということがわかりました。ご存知のように、EUというところが、いろんなところで制度を統一化しています。EUを前提とした独立運動がヨーロッパで盛んなんですね。スコットランドだけではありません。ベルギーも取材しまして、フランダース地方も独立運動をしています。スペインのカタルーニャでもやっています。共通しているのは、EUの枠でやっていくという考え方なんですね。
 そもそもEUというものは、フランスとドイツがしょっちゅう戦争ばかりして、第一次世界大戦、第二次世界大戦と戦争をして、ヨーロッパ人がたくさん亡くなった。そういうことはやめましょうというところから始めて、フランス・ドイツの間に、オランダ・ベルギー・ルクセンブルクという小さな国があって、そこに鉱物資源がたくさんあるんですね。これをフランス、ドイツが奪い合うことをやめさせるために、この資源を共同管理しようというところから始まる、これがEUの出発点です。要するに平和の地域をどうつくるか、ということが非常に重要だったわけです。

 このEUという地域共同体は、非常に世界的に参考にされて、いまASEANでは、安全保障分野も密接になってきていると言われております。ではこういう平和的な共同体をどうやってつくるか、というときに、ずっと日本には東アジア共同体構想というのがあります。これはASEAN+3というのが基本モデルです。+3というのは、中国、韓国、日本です。ASEAN+3で東アジア共同体をつくって、ここで経済の緊密化をもっと深めて、人の移動ももっと活発にして、平和裏な東アジアをつくっていこうという考え方です。
 実はこれ1990年代、もう少し昔から発想はあって、政治的に具体化していく瞬間がいくつかありました。最近では、小泉政権の時に、東アジア共同体構想では、中国の影響力が強すぎるので、インドとオーストラリア、ニュージーランドを加えた、RCEPという考え方で進めようとしていました。その後、鳩山政権で、この東アジア共同体というものを強烈にやろうとしたら、アメリカからの横やりでつぶされたと言われていますけれども、学者知識人の間では、これはまだ生きています。鳩山さんもまだ唱えていますけれども、姜尚中さんとか、進藤榮一さんとか、孫崎享さんとか、そういう方たちが東アジア共同体構想を唱えています。

 最近の政治の場では、東アジアとの協調主義といった考え方や政策というものが、ものすごく枯渇しているような感じがしています。この東アジア、近隣諸国と仲良くなりながら、アメリカとも大事な関係を築いていくというバランスがあったらどうかと思うんです。中国と国交正常化をした田中角栄さんですが、最近はロッキード事件でいろいろな特集が出ていますが、田中角栄さんの考え方も、周辺諸国と仲良くできないで、何が安全保障だというところから、中国との関係改善というものが始まっているんですね。
 だから自民党であろうと保守であろうと、そういう考え方というのは、もっと息づいていていいはずなんですが、最近は北朝鮮、中国脅威論、敵視論というものがはびこっていて、それが排外主義の言説と密着になってしまっていて、むしろ危機を生んでいるのではないか。危機の火種を生んでいるんではないかという気がします。

◆◆ おわりに ◆◆

【新垣】 人、カネ、ビジョンということを本土の方々には言っています。人というのは、人権、人に対する人権感覚、これは沖縄に限りません。在日の方々、アイヌの方々、女性や高齢者、子ども、社会的弱者に至るまで、強者の論理で切り捨てるのではなく、そういう人たちの人権を考えていくと言うことですね。おそらく相模原の事件というのは、それをもう一度考えさせるためのきっかけになるのではないかと思います。

 カネについては、例えばオスプレイです。3500億円で自衛隊が17機買うということで、1機200億円くらいの計算なんですね。ところが相場は80億円と言われています。なぜここまで金を、血税を使って買う必要があるのか、ということを検証すべきではないか。熊本大地震でオスプレイの政治利用も言われました。軍事にどう税金が使われているかということをシビアに検証していくことは非常に重要で、沖縄の基地もそこからいろいろな無駄が見えてくると思います。
 空爆でほとんど大勢が決まる戦争、紛争の時代に、海兵隊がこれだけ必要なのかとか、そこに思いやり予算を投じている日本として、本当に中国に対するプレゼンスになっているのか。軍事的な側面から観ても、実はそんなに沖縄の基地集中って有効ではないもしれない。アメリカのシンクタンクの中では、これだけ沖縄に基地が集中してしまうと、ミサイルが飛んできて、1発で全部壊滅してしまうので、軍事戦略上もよくないのではないか、という議論もあるくらいです。こう見ると、軍事、予算、武器について、もう一度、お金という面から検証していくと、かなり無駄が見えてくるかもしれないと思っています。

 ビジョンは、夢です。実現するための夢なんですが、東アジアをどう平和をつくっていくかということをやっぱりきちんと構想していかないといけないのではないかと思っています。東アジア共同体みたいなものができれば、沖縄は緩衝地帯、アジアの緩衝地帯だと翁長さんは言っていますが、平和や交流の拠点として、自分たちの役割を発揮できると思います。
 私はその意味では、EUとスコットランドがすごく強い関係で結ばれているように、沖縄もただ自己決定権だけでなく、あるいは独立論者もそうですが、やはりWin−Winで、本土の方々にも大きなメリットがある形の、平和構想をきちんと持って発信し、お互いに本土の方々とも考えていって、今対立を深めている中国などと、対話をしていく場に沖縄を使っていく。沖縄はそういう役割を果たしていく。自己決定権と、東アジア共同体構想は、車の両輪として活かしていくことが、実は、東アジアの安全保障にもつながるし、沖縄の今までの被害をなくしてくことにもつながると一生懸命訴えているわけです。

 一方で、本土の方々は沖縄に対する植民者・差別者という位置から解放されてほしい。実は私たちも命の尊厳、人間の尊厳を蔑ろにされていますが、みなさんも差別者・植民者にされているという立場から解放される意味での、尊厳のたたかいをしてほしいなと思います。沖縄の尊厳を守ることで、自分たちの尊厳に連なり、さらには、アジアの逆コース、琉球併合が韓国併合につながっていた逆コースをたどって、沖縄からアジアといっしょに共生するような関係性をもう一回結び直す、そういうきっかけにしてほしいと思います。そういう意味で、辺野古のたたかい、高江のたたかいというのは、日本の方々にとっては、植民地主義と決別するためのたたかいだと位置付けてほしいなと。そういう意味で象徴性を持つたたかいではないかと思います。

 自己決定権と言えば、別に沖縄に限られた問題ではありません。今、安保法制ができあがる過程の中で、これだけ立憲主義が脅かされている、要するに主役は誰か、主権者がだれかという話ですから、ひとりひとりの自己決定権が侵害されているという状況に対して、やっぱり声を上げるというのは非常に重要だと思います。その最前線に立って戦っているのは沖縄だと考えていただいて、その象徴性も考えてほしいと思います。
 その他、やはり非暴力で運動をやっている平和主義とか、あるいは地方自治という意味での民主主義、いろんな象徴性を、辺野古や高江のたたかいは凝縮していると思います。これは沖縄の問題ではありません。「沖縄がかわいそうだから」なんて思わないでください。自分たち当事者が、何をすべきか、どういう日本を築いていくか、どういうアジアを築いていくか、世界をつくっていくか、というたたかいとして位置付けて、自分たちの考えをそこから練り、そこから、沖縄と向き合うことで、大きな展望を切り拓く、そういうきっかけにしてほしいと思います。

【阿部】 私は新垣さんとは違って、本土の側で育ってきた人間ですから、最後はやっぱり本土の側の人間として、どう向き合うのかと言うことを触れないといけないと思います。

 新垣さんがおっしゃったスコットランドのケースですが、英国がEUから離脱することになり、EUの枠組みの中のスコットランド、ということが言いにくくなってしまい、今度は、スコットランドが英国から離脱するのではないか、という議論も出てくるようになりました。スコットランドのグラスゴーには、原子力潜水艦の基地があります。英国は国連安保理の常任理事国であり、核兵器を持っていますけれども、その基地がスコットランドに置かれています。従って、もしスコットランドが英国から離脱することになったら、これは仮定の話ですが、核をどうするかという大きな問題が出てくるわけです。

 同じように日本も、日米安保体制の多くを沖縄に寄りかかっているわけです。英国とくにイングランドの人たちは、スコットランドが離脱することになるのであれば、どうしても核兵器をどうするのかという重大な議論をせざるを得ないのだと思いますが、同じように、日本も、沖縄の自立・自律の運動が、日米安保の負担をすべてと言っていいくらい沖縄に押し付けてきたことと、どうつながっていくのかと言うことを考えなくてはいけない、差し迫ったときになってきていると思います。

 沖縄の人たちが起こしている行動を見て、本土の私たちは私たちの振る舞いを、振り返らないといけません。本土は沖縄の側の足を踏み続けている。典型的な植民地主義的振る舞いです。他方で、本土の側はその首根っこをアメリカに押さえられている。いや、むしろ、首根っこを押さえてもらっていることがうれしい、というか、首根っこを押さえてくれていることで、アメリカとつながっていることを実感できるかのような、アメリカに対する従属的な状況が自然のものであると、あるいは、変えることができないというような意識で、ずっと来たんだと思います。全く自立していないと思います。
 それは多くの人たちが感じていたんだけれども、これは変えるのは難しいのではないか、変えられないのではないかと諦めてきたところもあったのではないかと思います。あるいは全く問題意識がないというべきか・・・。でも、沖縄の人たちが自立・自律に向けて行動しているこの段階に至り、本土の側も自立することをきちんと考えないといけないと思います。アメリカとの関係をどのように変えていくのかということ、これが沖縄から本土に突きつけられている、非常に重要なポイントだと思います。そしてその前提には、沖縄に対する植民地主義的なまなざしであるとか振る舞いをどう変えていくのかという重大な課題もあります。

 先ほどのグラスゴーの話に戻るんですが、沖縄がどのような形で自立・自律を具体化するのか、それは沖縄の人たちが決めることであって、それは私にはわからないです。けれども、少なくとも沖縄の人たちは、米軍の基地の問題に焦点をあてて、沖縄にはもういらないという意思を、少なくとも海兵隊はもう出ていってほしいと言っているわけです。
 これ以上基地はいらない、と言ったときに、沖縄に基地がある理由は、日米安全保障条約です。それは日本政府がアメリカ政府との間で締結している条約なんですね、そのもとで日本の駐留を認めると言って、そして沖縄に駐留が続けられてきたわけです。でも、沖縄がノーと明確に言っている。翁長知事も辺野古に基地はできないと言っているわけで、万策尽きたら、ご夫妻で現場に座り込む意思も明確にされているわけです。
 私は、辺野古に基地はできないんだと思いますよ。そうした場合に、じゃあどうするのかと。これは沖縄だけの問題ではなくて、間違いなく本土の問題でもあるのです。沖縄の自立・自律がクローズアップされていると言うことは、本土の側が自ら基地とどう向き合っていくのかという問いかけにほかなりません。

 高橋哲哉さんは、本土が基地を引き取るべきだと言っている。本土の人々への挑発の意を込めてのことかもしれませんけれど、沖縄の運動は、まぎれもなく、日米安保をどうするのかという覚悟を、本土の側に問いかけていると思いますね。第二次大戦の終わった戦後の日本の秩序は、日米安保とともにあったし、常に沖縄を踏み石にして、本土の側の安全が保たれてきた。それが沖縄の自立・自律によって大きく揺れ動いている。今まさにそういう状況なんですね。
 それがあまり臨場感を持って実感できない、というのが本土の状況なんだけれども、ある日突然、ひょっとしたらそれではとても立ちゆかないような状況が、本土の側に突きつけられるかもしれない。英国のEUからの離脱による、スコットランドとイギリスの関係の変容の様に、私は沖縄と本土の関係を重ね合わせていました。沖縄をめぐる問題はまさに、本土の側が自らのあり方をどうするか、本当の意味で安全保障をどうするのかという問題そのものでもあるのです。
 もしアメリカのレンズを通さないで世界を見た場合、世界はどう見えるのか。私は、近隣のアジアの国々と本当にきちんと関係を結ばないと、沖縄の自立・自律がもたらす意味を、本土の側はきちんと受けとめることができないのではないか、と思っています。

●新垣  毅: 琉球新報・東京報道部長
●阿部 浩己: 神奈川大学教授・国際法

※この対談は2016年7月30日、第10回オルタ・オープンセミナーで行ったものですが文責はオルタ編集部にあります。
 なお動画は YouTube の altermagazine で検索できます。


最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧