■ 温存される日米地位協定への沖縄の怒り         羽原 清雅

    ~この不平等でなぜ「日米『同』盟」なのか~
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 沖縄では、三つ重なった怒りが収まらない。沖縄をめぐる問題について、地元
にはあきらめや屈服、妥協や容認といったさまざまな思いがあるが、今の時点で
は怒りが渦巻いている。
  第一は、日頃からの抜きがたい不平等という思いがある日米地位協定に対する
怒りだ。
  第二は、米軍属による交通事故の裁判は、本来日本側で行われるべきところ、
米側の『好意的考慮』によって恩恵的に、かつ異例な措置として日本側に与えら
れ、この程度の米側の譲歩を玄葉外相ら政府要人らが『歓迎』の意を表したこと
への怒りである(2011年11月24日)。日本の本源的権利をなぜ恩恵とし
て受けなければならないのか、不可解だという思いである。
 
  そして第三の怒りの火が、防衛省の田中聡沖縄防衛局長の「犯す前に、これか
ら犯すというか」という発言である(11月28日、翌日更迭)。

 昨今の本土のメディアは、地位協定の不平等性についてはあまり書いていな
い。また、米軍属の裁判権がとりあえず日本に返されたことを概して歓迎的に書
いている。防衛局長の発言についてだけは、テレビ、新聞を中心に叩きにたた
き、騒ぎにさわいでいる。本土と沖縄との遠い距離は、遠く海を隔てただけでは
なく、精神的にも、理性的判断の面でも、むしろ構造的にかけ離れている。

 日米安保条約による基地の沖縄集中のみならず、普天間基地の移転をめぐって
も、その苦衷が本土的政治家や官僚には理解されない。鳩山元首相の「普天間基
地の国外か県外への移転」発言は、沖縄県民はやっと当然のことを言ってくれ
た、との期待を抱いたが、結局当事者であるアメリカとの交渉の場に持ち出すこ
となく、空回りか口先だけに終ってしまい、かえって基地移転の空気を消し去
り、島内を「反対」一色に染めてしまった。

 筆者は、1972年に沖縄が本土に復帰する直前、100回にわたって朝日新
聞に連載した「沖縄報告」(同社刊)のチーム取材に参加させてもらったうえ、
その後九州勤務も4回あってこの地に出かけるチャンスに恵まれ、最近も年に1
回は行っているので、沖縄の最近の「怒り」はおおいに関心がある。そんな立場
から、メディアのありようも含めて取り上げてみたい。
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*なぜ日米地位協定の改定を言わないのか
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  第2次世界大戦後の日本が東西冷戦、朝鮮戦争の「おかげ」で独立を手にした
とき、講和条約とともに日米間で安全保障条約と行政協定が結ばれ、独立国同士
の関係で「日本を守る代わりに、基地などを提供する」約束をした。1960
年、不平等性の強い行政協定は地位協定に切り替えられ、若干の改善を見た。

 地位協定は、安保条約に基づいて米軍の法的地位、基地の管理運用などを決め
ている。安保条約に付属・補完・具体化するものだ、と外務省はいう。裁判権が
日米で競合する場合、米軍人、軍属の事件事故の際、「公務中」なら第1次裁判
権は米軍にあることがうたわれている。「公務外」なら日本側にその権利がある。
  だが、米軍は日頃から「公務」証明書を発行するので、大体は「公務」とさ
れ、日本側は手が出せない。

 2006年から10年までの5年間に、「公務中の交通事故」は62件あっ
て、米側は第1次裁判権を主張したものの、刑事訴訟されたものはなく、かろう
じて懲戒処分35件、処分なし27件だった(法務省)。また、軍属については
平時に軍法会議にかけることは違法とされているので、「公務中」とされれば、
その裁判はアメリカでも日本でも行われないことになる。そこに被害を受けた沖
縄人の、日常的な不満や批判がある。

 これまでも訓練場で弾拾い中の女性が米軍属運転の戦車にひき殺されても不起
訴。演習場で草刈りの青年がピストルで狙撃されたが、当初の「公務外」の扱い
を「公務中」に切り換えられて不起訴。1995年の少女暴行事件を機に、殺
人、強姦などの凶悪犯罪については日本側に身柄を引き渡すことになったが、適
用されたのはわずか2件だけだ。

 今度の米側の「好意的考慮」の措置として、米軍属の犯罪について米国内で刑
事訴追をしない場合には、日本側が裁判権の行使を要請できることになり、那覇
地検は24歳の米軍属を自動車運転過失致死罪で起訴している。ただ、これも米
軍が5年間運転禁止という処分をしているので、日本での刑事訴追は一事不再理
の原則に反しないかどうか、という問題が残る。

 このように軍属裁判が可能になったとしても、また「飲酒事故」は「公務」と
はしないなどの妥協案を出してきたとしても、一歩前進とは言えるにせよ、部分
的、条件付きの「好意的考慮」程度のことで、沖縄が納得できるわけがない。

 そればかりではない。米側の免税措置や、車庫証明の問題なども、沖縄県民と
はかなり違った優遇や逃げ道が開かれている。基地による環境汚染、誤爆、騒音
などの解決に当たっても、沖縄県民は納得していない。さらに、いくつもの「日
米密約」が生まれ、いささか論拠について説得力の乏しい「思いやり予算」が組
まれるのも、その背景にあるのは両国の非対等の関係である。

 要は、この協定や日米関係のあり方の「不平等性」が問題である。日本の国内
で発生した一般的な犯罪については、日本の法律に基づいて裁かれなければなら
ない。外務省のいう「一般国際法上の原則に基づくもの」だけの説明では、実害
のある沖縄を説得することはできない。

 日本は、アメリカの「核のカサのもと」で安全を守ってもらっており、その点
での従属意識があるのかもしれない。ここではその問題点には触れないが、それ
にしても独立した国家として、主張すべきは主張すべきではないのか。おもねり
というか、言いなりになるもみ手外交はおかしい。たとえその交渉が長引き、ま
た険悪な状況が生まれるとしても、主権者たる国民を守る立場を鮮明にしないよ
うな姿勢ではどうしようもない。

 昨今の政府を形成する民主、自民両党を問わず、政治家群にせよ、外務や防衛
官僚らにせよ、対米の取り組みにあたって「日米同盟」と気楽に言うが、この稿
の標題にうたったように『同』といえるか、対等と言えるか、その姿勢はどうに
も疑わしい。あらためて思うのだが、連合軍占領下の状態の「馴れ」と、歴史的
事実の「風化」のままに、「沖縄」を考えていていいのだろうか。

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*明治期に学ぶ
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  明治期の日本外交の課題は、長きにわたって、安政の5カ国条約(1858
年)の不平等性をいかに改定させていくか、であった。それは、領事裁判権(治
外法権)の廃止、関税自主権の回復、そして片務的最恵国待遇の撤回などだっ
た。なかでも、領事や外交官が日本に在留する自国人の犯罪を自国の法律で裁
き、日本の法律の手が伸びないことへの「不平等性」を打破することは、日本の
プライドにおいてももっとも重要視される課題だった。

 明治早々に欧米諸国への視察に出向いた岩倉具視の任務は、条約改正の予備的
な交渉にあった。その後も寺島宗則、井上馨、大隈重信、青木周蔵、榎本武揚、
陸奥宗光、小村寿太郎まで、歴代の外相らが取り組んだが、その交渉は難渋し
た。領事裁判権が撤廃されたのは陸奥の時代の1894年、関税自主権の完全回
復は小村の1911年だった。裁判権回復までに36年間、関税制度回復に半世
紀以上かかっている。

 その間、ノルマントン号事件、大隈襲撃事件、大津事件など交渉を挫折させる
事態があり、また国力の弱い日本が帝国主義に向かう途上にあった先進国を相手
にする交渉でありながら、決して手を拱くことなく、独立国としての主張を続け
ていた。

 今の国際情勢とは全く違う状況であったとしても、「地位協定の改定交渉はし
ない」と明言する今日の政府には、独立国の誇りと主権を守ろうとする姿勢、気
迫が乏しいように思われてならない。
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*「犯す」発言の本音
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  田中沖縄防衛局長の「犯す」発言は、仲井真知事の言うように「(コメントす
るのも)口が汚れる」ものだった。普天間基地の環境影響評価書を提出する時期
の質問に対して、品性を疑われるような女性と県民に対する蔑視発言で答えるこ
と自体、わからない。だが、局長の前にも沖縄勤務のあった彼は、「カネでも優
遇措置でも、強引に迫ってくるのを待つ沖縄」という認識で職務に当たっていた
から、つい本音が出たのではないか。

 あるいは、「犯す以外に打開の道はない」との切羽詰まった意識だったか。
言ってみれば、沖縄問題はいま、犯すか、犯されるか、の「腕ずく」の状態にお
かれている。それは、日本人の問題としてしか取り組もうとせず、一方の当事者
である米国の存在については別格の扱いとして、なんらの譲歩も求めようとしな
いところに打開が図られない大きなネックがある。

 そんな意識が日常化、常識化していたのではないか。まさに差別の構造化であ
る。「上から目線」で基地機能としての沖縄としてしか見ない。米側要請こそ第
一、沖縄県民の受け止め方などは二の次。実態として「辺野古への移転」はム
リ、と感じながらも、そのことを認めれば「普天間移転による危険回避」の努力
をしていないことになるため、とりあえずは沖縄に頭を下げ続けるポーズをとる
――といったところか。

 ここに、本土と沖縄との、意識の構造的距離を感じざるを得ない。本土側は
<安保の恩義優先、防衛上地の利のいい離島、「犯されるのを待つ沖縄」、基地
の定着した今の状態が存続してこそ波静か>と考える。沖縄は<琉球処分、太平
洋戦争の大きな犠牲と戦争禍体験、戦争イメージの基地反対ないし削減>から発
想している。両者の立脚点の違いは大きく、本土側の発想は変えずに、沖縄を
「犯してしまえ」という臨み方ではムリなのだ。

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*琉球新報の立場
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  いわゆるオフレコ「懇談」で飛び出した田中沖縄防衛局長の発言を報道した琉
球新報は、「オフレコ」についてどう考えたのだろうか。オフレコと言う信義を
破る論理はどのようなことだったのだろうか。

 同紙によると、懇談のあった夜、帰社した記者はまず、防衛局の広報担当者に
電話で「書く」と通告、広報は「発言は否定せざるを得ない」「(公表すれば)
出入り禁止」という。だが、同紙は「読者に伝える責任があると判断して報道に
踏み切った」として、識者の見解として「オフレコの原則よりも国民の知る権利
が優先される」との見方を引用している。その問題は別に触れるとして、琉球新
報があえてオフレコ破りをした状況を考えてみよう。
 
  同紙は、11月25日付の一面トップで「日本にも米軍属裁判権」、また社会
面などで「県民望むは改定実現」「政府と意識差大きく」としている。翌26日
は一面トップで「米軍属を在宅起訴」、社説で「『運用改善』納得できぬ」と抜
本改定の主張を展開している。27日は沖縄を訪問した玄葉外相と仲井真知事の
会談を報じて、知事の「地位協定の抜本改定」の主張を大きく取り上げている。
そして、社会面では4回にわたり、米軍属の交通事故で亡くなった遺族らの姿を
連載している。
 
  つまり、地位協定と軍属裁判の問題を大々的に取り上げており、並々ならぬ関
心を抱いていたのだ。そこに、29日の田中発言である。発言の引き金は地位協
定問題ではなかったが、沖縄現地では連日、基地の抱える基本的な問題が話題に
なり、紙面もそこにエネルギーが注がれていたから、刺激的なこの発言の報道に
踏み切った、と考えられる。とすれば、オフレコ破りの観点を別とすれば、田中
発言の持つ意味は無視できなかっただろう。
 
  しかも、琉球新報は2004年に、外務省が作成した日米地位協定についての
政府の基本解釈をまとめた機密文書「日米地位協定の考え方」を入手し、そのス
クープを紙面化している。その後も当然、この問題を重視して報道している。現
地を熟知するジャーナリズムとして、沖縄の構造的差別、沖縄基地の現状とマイ
ナス面に目を向け、打開を図ろうとするのは、いわば任務ともいえる認識なのだ
ろう。単なる「言葉狩り」、スキャンダル志向ではなかろう。
 
  この田中発言を掲載できずに抜かれたかたちのライバル紙沖縄タイムスも、同
じような視点から長く報道を続けており、琉球新報のトクダネを率直にフォロー
している。タイムスは「本紙記者は離れたところにいて発言内容を確認できな
かった」としている。

 つまり、沖縄の意識と本土の感覚とのズレが、このような報道結果を招いたと
もいえよう。本土主体の全国紙は、問題意識はあるにしても、紙面の展開として
は地位協定に以前ほどの深い追求はしていないし、米軍属裁判の譲歩についても
「大きな前進」(朝日新聞社説)ととらえつつ、地位協定の改定を主張してお
り、やはり沖縄紙の現場の熱気はなくクールである。日々の生活の中で基地にか
らむ諸問題を抱え、これを追い続け、打開の道を探る地元紙との違いはやむを得
ないのだろう。
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*「オフレコ」を考える
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  報道の立場からだけではなく、報道される政治、政府、企業などの取材源に
とっても、オフレコ取材は必要な措置だと考えられる。それは、情報源が問題の
背景や深層の説明をして真意を伝え、国益などの配慮から立場としては言えない
までも理解を求め、確定前の状況を説明し、要は視聴読者の理解と納得を導く情
報提供の場である。ときには、自分サイドの利益や世論リードのために使おうと
するケースもあるが、報道の側がその真意を見抜けばいい立場だ。

 もっとも、その前提として双方の信頼関係が必要になる。「書かない」「外部
に漏らさない」前提が守られなければ、話すことはできないからだ。この原則は
重要である。日本新聞協会の出した「見解」でも、「取材源の秘匿」「記者の証
言拒絶権」と同次元のものと捉えている。

 ただ、内容次第では黙過できず、書かなければならないケースもある。公共、
公益にとって重要な場合、緊急かつ重大な場合など、見逃してはならないケース
において、である。つまり、国民の側にある「知る権利」にこたえる、という責
任あるジャーナリズムの使命も果たさなければならないからだ。

 その場合、(1)抜き打ちで書く (2)相手に了解をとったうえで書く 
(3)取材源に「NO」と言われても書く (4)自社の判断で書く (5)オ
フレコ懇談の出席者で協議し同一歩調をとりつつ、取材源と交渉したうえで書
く、といったケースが考えられよう。難しいところである。

 琉球新報の場合、(3)(4)のケースだろう。できうるなら(5)がよかっ
たのではなかったか、と思えるが、そこにはライバル紙との関係、トクダネ競争
の問題、締切時間の制約がある。しかし、「公共、公益」が報道の立場であり、
信義を崩すオフレコ破りの一面もある以上、それらの課題を超えるジャーナリズ
ムの責任の自覚と、そうした場数を踏んでの訓練が必要ではないだろうか。

 鉢呂吉雄経産相の辞任の契機になった「死の町」や「放射能うつすぞ」発言の
ように、「オフレコ破り」をするだけの内容とは思われないような言葉狩りや、
各紙異なる発言の表現(つまり、当事者への取材不足による)でクビをとり、か
つバスに乗り遅れまいと付和雷同の報道をするような各社相乗りではなく、各社
が「オフレコ取材」の重さと報道者の責任を自覚して報道に踏み切るかどうか、
深く考える姿勢が必要と思われる。

 ジャーナリズムの責任は大きい。視点をどこに置くか、上から見おろすか、足
場から見上げるか、おのれの利害から見るか、全体に眼を配るか、面白ければい
いのか、『沖縄』はその学習の場でもある。
   
       (筆者は帝京平成大学客員教授・元朝日新聞政治部長)

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