■海外論潮短評【番外編】              初岡 昌一郎  

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 おなじみの英『エコノミスト』8月30日号に、重要な国際機関の最新報告に
関して、気になる記事が2編掲載されているので、要旨の紹介を簡単にしておき
たい。

 その一つは、「グローバル・ヘルス」と題した、最新の世界保健機構(WHO)
報告に関する論評である。ニューヨーク発のこの無署名記事の筆者は、8月28
日に公表されたWHOが委嘱した外部著名人による報告書を、所得レベルや貧困な
どの社会経済的な諸条件に短絡的に結びつけた"イデオロギー"的なものと、批判
的にコメントしている。しかし、評者にはこの記事こそがネオ・リベラル的イデ
オロギーに基づいていると思われるので、この記事から窺えるWHO報告の要点の
紹介にポイントを限る。

 二つめは、2007年4月に発表された世界銀行報告が、世界の貧困層が初め
て10億人の大台を割り込んだとし、これを経済成長の成果と評価していたこと
の訂正だ。去る8月26日に、このことに世銀の指導的エコノミストが反省的見
解を公にした記事をとりあげる。経済成長が貧困を削減した証拠として、200
7年世銀報告は日本のエコノミストたちもしばしば援用しているだけに、この記
事の内容は注目されてしかるべきだ。これによると、世銀エコノミストたちも従
来の貧困の定義と概念の不十分さを指摘している。


◇グローバル・ヘルス ― 福祉の対価


  保健と開発に関するWHO賢人パネル報告は、8月28日に発表された長文の野
心的報告を「社会的公正こそが死活的な問題である」という言葉で始まっている
。このパネルは、ノーベル経済学賞受賞者のアルマティア・センなどの有識者で
構成されており、WHOの委嘱により、健康と不平等の問題を広い観点から論じて
いる。2年間掛けて作成されたこの報告は『一世代でギャップを解消するために
』とのサブタイトルが付されている。

 スラムの住人は、富裕な郊外地に住む人より寿命が短い。それには、所得や医
療保険制度という既知の要因の他にも、一見あまり関係のない社会的経済的なフ
ァクターが影響している。それらが、「子どもが成長でき、潜在能力を十分発達
させ、充実した人生を送ることができるかどうか」を決定する。

 専門家報告は、リスクを軽減するために多くの措置と施策を提言しているが、
特に子どものケアと教育への投資、貧しい国における女性と少女の日常生活にお
ける平等と、労働諸条件の改善の重要性を強調している。同報告はまた、良いガ
バナンス、市民社会に対する支援、より平等な経済政策を通じて、「パワー、カ
ネ、資源の不平等な分配を克服する」必要を力説している。世界をより公正かつ
健康な場とするための最後の提案は、保健の不平等解消に取り組む上での透明性
とより良い測定尺度である。このマニュフェストを起草した専門家委の議長サー
・マイケル・マーモット教授(ロンドン大学)は、開発に新しいパラダイムを設
定したと述べている。

 この報告の特徴点は、保健について非金銭的な社会的決定要因に焦点を当てて
いることだ。その一例としては、雇用保障の欠落がストレスを高め、メンタルな
健康障害の引き金となるという指摘がある。無料で普遍的な免疫ワクチン注射に
アクセスできるかどうかも保健に大きく関係する。その他、報告が必要な改革と
してあげているのには、ソーシャル・セーフティネット、少女の教育機会、栄養
についての情報普及などがある。

 委員会報告は、同じような経済水準にあっても、普遍的な医療制度を持つ社会
のほうが、異なるアプローチを取る社会よりも、より良い保健を享受していると
分析している。例えば、コスタリカの市民は、無保険者の多いアメリカ人にない
利点を持っている。

 人びとの健康と病気の問題は、厚生省の管轄範囲に収まるものではない。厚生
省が農村住民に食事前に手を洗うように奨励しても、清潔な水が入手できなけれ
ば効果なしだ。各国の厚生大臣が、ほとんど非力な閣僚であることも改善を困難
にしている一因、とは『エコノミスト』の辛口コメント。


◇貧困 ― 底辺の14億人


世界は考えられていたよりも貧困なことを世界銀行が発見した。

 2007年4月、世銀は、世界中で9億8600万人が極貧層に属すると発表
していた。10億の線を切ったのは、1990年以来の報告で初めてのことだっ
た。しかし、二人の世銀チーフエコノミストによる8月26日の発表がこの数字
の正当性を覆した。訂正された数字によると、2005年現在、貧困者数は約1
4億人である。

 これは必ずしも、窮状が深刻化したことを意味しない。むしろ、実情の把握が
進んだことによる。世銀の生計費分析がより精緻になり、特に貧困国において生
活費が実際にはもっと高騰していることがわかった。

 彼らはまた、新しい貧困ラインを引いた。世銀はこれまで、貧困者の所得を一
日一ドル以下としていた(正確には、1993年物価換算で、1.08ドル)。
この有名な定義は、1990年の世界開発報告によって初めて用いられ、後に国
連によって取り入れられて、2015年までに貧困を半減させるという決議がな
された。

 研究者たちは、信頼しうる貧困ラインを設定している15カ国で採られている
尺度をこのんで用いている。この定義によれば、2005年のアメリカにおいて
一日1.25ドルで暮らす、生活水準を満たしていない人が貧困者とみなされる

 4億人もの貧困者の新発見も、世銀が貧困者数を過小評価しているという批判
者たちを満足させるものではない。

 生計費は、'代表的な家計'の費用を基に算出されている。ところが、貧困者に
とっての物価は代表的なものではない。彼らは纏め買いではなく、タバコ一本、
米100グラム単位で買うので、すべてが高くつく。ところが、発表された9カ
国の場合、貧困者はものやサービスを安く買っている。それは、散髪を理髪店で
はなく、路上でしてもらい、品物は安売り店で廉価品を購入するからだ。品質は
統計に反映されない。

 アジア開銀は、中国を除き、加盟16ヶ国の貧困者について独自の調査を行な
っている。それは、貧困者が実際に支払う価格で生活水準を計算している。その
結果、インドネシアでの貧困ラインは、世銀統計基準よりも21%低い。アジア
開銀の調査では、インドやバングラデシュなどの人口の多い国の生計費を10%
以上割り引いて計算している。アジア開銀の調査方法は、その考え方自体にに理
論的な挑戦を受けている。

 理論的には、一定の生活水準を充たす所得のないものが貧困者である。しかし
、米でも銘柄米からくず米まであるように、被服でも安い化繊から上等なブラン
ド品まであるし、車もオンボロ中古から高級車まである。住宅でもあばら家から
エアコン付高級マンションまで差がある。こうした質の面は、比較において無視
されており、実際の貧富格差は統計よりもはるかに大きいと見るのが至当だ。衣
食住の量的比較には大きな落とし穴がある。

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