【自由へのひろば】

異文化結婚にみる民族の交流と共生
—グローバル化時代の新たな可能性を探る—

吉田 正紀


◆はじめに:異文化に学ぶ

 日本人が歴史的に海外に雄飛した時代、いわゆるグローバル化の奔りとなった時代は15世紀の安土桃山時代であるといわれる(註1.ハルミ・ベフ、2006)。その後、鎖国時代に入った日本が、オランダを除き、海外に再び目を向け始めたのは黒船の到来以後のことである。
 日本は、歴史的に外来文化、とりわけ明治以降、憧れの対象となった西欧文化を積極的に受容した。一方、一般の日本人が、大規模に異文化のなかで生き、異文化に学ぶ経験をしたのは、海外への移民や植民地化や戦争を契機とするものであった。

 本論文では、日本人が異文化体験を通じて、異なった文化をもつ人たちとどのように生き、互いの相違をどのように乗り越えているのか、異なった文化や民族との共生の在り方を日本人とインドネシア人の異文化結婚から考えようとするものである。

 日本人にとって、日常的に民族が意識されず、ましてや日本が多民族社会であるという認識は少ない。日本人は異文化体験を通じて、やっと他の民族を理解したり、異民族に違和感を抱いたり、その結果、異民族との対立の解消や共生の問題を考えることができるようになる。確かに、誰もが同じように異文化に対応できるわけではない。例えば、食習慣に見られるように、その受け止め方に個人差があるのは通常である。それゆえ、異文化との関わりのなかで摩擦や対立や葛藤が生まれ、異文化結婚においても、離婚などの結末も生じている。本論では文化と民族を超える共生について焦点を充てるために、異文化結婚で成功した事例を多く取りあげた次第である。

 本論に入るまえに、海外で異文化結婚を営む日本人についての歴史的概略と、筆者の異文化結婚をふくむ異文化研究への関わり、このような課題の解明に示唆的な文化人類学の方法についてふれる。

◆異文化結婚を営む日本人

 これまで日本では、「国際結婚」を国籍の異なる者同士の結婚とみなしてきたが、実際は、国籍だけでなく、人種や民族や言語や宗教や社会的階層や社会組織や食習慣など多くのことが異なる人々の間の結婚である。それゆえ、国際結婚を互いの文化が異なるということで「異文化結婚」と呼びたい(註2.吉田正紀 2010)。英語では Intermarriage と呼ばれているが、西欧では結婚は本来、異文化結婚であるという認識が強い。

 第二次大戦前、フィリピンのミンダナオ島のダバオ社会に生きた日本人が、現地のダバオ族と結婚し、現地の言葉を学び、彼らの服装を身に付け、現地の生活の溶け込んで生きた、民族共生の模範にもなる異文化結婚の事例がある(註3.大野俊 2008)。

 第二次大戦直後、東南アジア各地に駐留していた元日本兵のなかには、さまざまな理由から現地に残留し、現地の女性と結婚して生きてきた者たちがいた。とくに、インドネシアに残留した日本兵たちは、現地の女性たちと結婚し、多くの子孫を作り、その2世、3世たちは、今、日本へ出稼ぎ労働者としてやってきている(註4.吉田正紀 2010)。

 また戦後、日本に進駐してきたアメリカ人などの駐留軍兵士と結婚し、異国に生きる多くの戦争花嫁たちがいた。あるいは戦後賠償で来日したインドネシア人学生が日本人女性と結婚し、連れて帰るという事例が見られる。それらは植民や戦争と深い関わり合いのある異文化結婚の事例である。

 近年、海外での長い企業活動の過程で、現地の女性と結婚したり、晩年を海外で暮すために、現地の人々と結婚して生きている日本人男性がいる。一方、仕事や留学や観光や結婚や宗教参加などを介して、滞日中の外国人と知り合い、結婚し、日本で生きる日本人女性(註5.工藤正子 2008)や海外で知り合った女性を日本に連れて帰る日本人男性や、海外で知り合い、結婚し、夫の国で暮す日本人女性など、現代の異文化結婚がクローバル化している状況が見受けられる(註6.吉田正紀 2010)。 

◆人類学と私—異文化への憧れ

 人類学者は「文化とは何か」「人間とは何か」という壮大な問いをもって、極北地域から熱帯地域まで世界各地の多様な文化を訪ね、あるいは生活を共にしながら、直接的な経験をもとに、人間や文化の理解に挑む。

 1970年、大学紛争も終わり、宗教問題に苦慮していた当時25歳の私は、異文化や人類学にこそ、私に何かを教えてくれる、私を救ってくれる何かがあると信じて、パプア・ニューギニアに一人で出かけた。当時出版されていた本多勝一の「ニューギニア高地人」や有吉佐和子の「女二人のニューギニア」にそそのかされたこともあるが、そのような突飛な行動がその後、本格的に人類学をめざす思いを強くさせた(註7.吉田正紀 2012)。

 その後、30代から40代、日本とアメリカの大学に籍を置きながら、ジャワの農村やスラウェシのトラジャ族を訪ねたり、北スマトラのプランテーション地域で長期滞在したり、海外での異文化体験を積むことができた。

 調査地域も、20代のニューギニアから30代のインドネシアへ、研究テーマも未開社会の宗教や儀礼から、多様な民族の関係と交流の在り方へと移った。博士論文は、多民族地域の北スマトラにおける民族の交流を、民俗医療の利用を通じて考察するものであった。その後、多民族都市メダンにある民族料理のレストランの利用から民族の交流の在り方を考えたり、さらに結婚を通じた民族や文化の交流や共生の課題を日本人とインドネシア人を対象に考えることになった(註8.吉田正紀 2011)。

◆人類学的フィールドワークと文化理解の方法

 民族や文化の交流や共生の課題を人類学の立場で推進していくには、人類学の最も基本的な方法であるフィールドワークの手法に触れておかなくてはならない。まず、人類学者は調査対象地の文化を自文化の鏡として見るために、現地の人間や文化を相対的・客観的にみるだけでなく、主観・感情を伴って見るようにしなくてはならない。そのためには、異なる民族や文化へ体を張った関わり方をとる。

 人類学者は、調査地域に数年滞在することが望ましい。私の場合、インドネシアで2年ほど家族と生活しながら調査を行ったのだが、現地に到着するまでにはインドネシア語を習得したり、現地の交通、医療、住宅などの情報も得ておく必要があった。現地の生活を経験するために、お手伝いを雇った。妻にはお手伝いからインドネシア語とインドネシア料理を学んでもらった。幼い二人の子供たちには現地の幼稚園に通わせたり、近隣の人たちと親しく付き合い、現地の生活に溶け込みながら、日常生活の上でも文化を学んでいけるように努めた(註9.吉田正紀 2013)。

 人類学者にとって、フィールドワークを実践するうえでまず大切なことは、日常生活においてだけでなく、自己が対象とする文化から何かを学習したいという意欲と態度を調査地の人たちに示さなくてはならない。そのため、関心のある地域の家々を直接に訪ねて、私が何者であるか、何をしに来ているのかを明らかにしながら交流を続ける。その結果、彼らと良好な意思疎通ができるようになる。とりわけ、キー・インフォーマントと呼ばれる最も頼りとなる調査協力者と出会うことが調査の鍵となる。

 キー・インフォーマントは、人類学者の言葉や質問を的確に理解でき、その人類学者に自らの文化を適切に説明できる、柔軟な思考と想像力豊かな人物であることが望ましい。そのため、人類学者はインフォーマントが自らの文化を相対化し、その結果を人類学者に説明できるように仕向ける必要がある。幸い、調査地域の村長の息子で、異民族結婚をし、民俗治療者であり、好奇心のすこぶる強いウマールというシマルングン人のインフォーマントと出会えたことが、私の研究の基盤となった。

 人類学者とインフォーマントの関係は、人類学者がインフォーマントに現地の文化を問い、インフォーマントが単にそれに応えるという一方的な関係ではない。人類学的なフィールドワークとは、インフォーマントが人類学者からの問いを自らの文化のなかで理解し、人類学者にわかるように返答する。人類学者はそれについてさらに質問をするといった、絶え間ない会話に基づく相互交流といえる。それは二人が自己内省を繰り返しながら行う相互学習であり、共同作業ともいえるものである(註10.シュルツ&ラヴェンダ 1993)。私は調査の過程で、ウマールとの間にこのような関係を築くことができたと思っている。

 フィールドワークとは、ダイアローグを通じて、二人の間に、調査される文化についての新たな理解や解釈が生まれてくる過程である。そこで、両者は知り合う以前とは異なった人間となり、新しい文化を発見していく。このような人類学者とインフォーマントの関係は、人類学的な文化理解の基本ともいえるものである。とはいえ、二人が行う調査地の文化の理解はまだまだ部分的な理解でしかない。真に文化を理解するためには、さらに別の研究者たちによる相互学習の努力が継続されねばならない(註11.吉田正紀 2013)。

 異文化を理解するためにとる人類学者とインフォーマンとの関係は、異文化結婚における男女の関係にも充当できるのではないだろうか。異文化結婚は、異なった文化を持つ者同士が、互いに内省し合いながら、自らの文化を説明し、相手の文化に耳を傾ける相互学習のための共同作業である。その結果、二人はこれまでと異なった人間となり、そこに共有する世界を見出し、真に共生し合う方法を発見していくといえる。

◆異文化結婚を生きる—共生のための戦略

 筆者はながらく、民族と文化の交流の在り方をさぐるために、日本人とインドネシア人の異文化結婚に焦点を充ててきた。異文化結婚が、異なった文化を持つ男女が、ダイナミックに出会い、交流を深め、これまでにないライフスタイルを作り上げる場であるとみなすからである。しかし、一旦結婚すると、夫婦の言語や言葉づかい、食習慣、親子や家族との関わり方、時間や空間に関する認識の仕方、社会的経済的地位など、日常生活のあらゆる側面で異質なものと直面する。だが異文化結婚は、結婚した男女が互いの文化をどのように受け入れ、互いの相違をどのよう調整しているのか知ることができる格好の場を提供してくれると考える。

 筆者は、1998年から10年ほど、異文化結婚を研究するために、インドネシアのジャカルタに住む日本人の男女、メダンに生きる日系人家族、日本でインドネシア人女性と暮す日本人男性家族などと会い、彼らに異文化結婚についての経験を語ってもらった。彼らが異文化結婚をつうじて、どのような新たな知見を得たのか、日常生活にどのような変容と新たな創造が見られたのか尋ねた。その結果は私たちに、多文化のなかで共生し、生き残っていくための新たな知恵と教訓を与えてくれるのではないかと考えた。異文化との出会いが加速化し、多文化共生が叫ばれる今日、異文化の理解や他者理解を発展させる一つの方法は、異文化結婚の営みから学ぶことにあるだろうと思う(註12.吉田正紀 2010)。

 調査の過程での最大の発見は、それぞれの家族が継続して生活ができる中心に、それぞれの男女が、何が大切か、すなわち自らのアイデンティティに近いものを相互に理解し合い、それを互いが維持していることである。一方、家庭生活をスムーズに遂行していくために、相手に譲ってよいものは何かを理解し、実践していることである。たとえば、ムスリムと結婚した日本人男性は宗教や言語は現地の文化に合わせるが、仕事や食生活は日本人として譲らない。このような互譲の精神こそ、彼らが共生していく戦略といえる。以下、いくつかの家族の事例をとりあげる。

(1)ジャカルタに住む日本人女性の異文化結婚
 世代、出会いの場、夫の民族帰属の相違などによって、女性たちの日常生活は多様である。賠償留学生の夫と日本で出会ったのか、あるいは欧米の大学で出会ったのか、世代によって異なる。60代以上の女性は留学や研修で日本に来ていたインドネシア人夫と日本で出会い、30代から40代の女性は、アメリカやヨーロッパなどの欧米留学中に夫と出会っているケースが多い。当然二人の会話は、前者が日本語、後者が英語である。

 夫はインドネシア人だが、彼らの民族帰属はジャワ人、スンダ人、バリ人、ミナンカバウ人など多様であり、彼らのジャワ語やスンダ語やバリ語などの民族語も家庭によって異なる。しかしほとんどの日本人女性は夫の民族語の世界には入れない。

 さらに、夫の宗教も多様で、イスラーム教かキリスト教徒かヒンズー教徒かなどによって、宗教儀礼や食物摂取の在り方が異なる。誰と結婚するかによって、彼女たちのインドネシアにおけるライフスタイルが異なる。

 日本人女性が結婚するときに直面した共通の体験は、彼女たちの家族や友人が異文化結婚へ理解がなかったこと、「なぜインドネシア人なの」と言う偏見から反対したこと、彼女たち自身もインドネシアの民族や宗教や文化へ全く無知であったことである。さらに、インドネシアで生活を始めてから直面した課題や経験は、インドネシア語を速やかに習得しなくてはならなかったこと、夫の民族や宗教的慣習を理解し、学習することであった。とくに親や兄弟を重視する家族との関係、豚肉やアルコールを摂取しないムスリムの食生活、家族内での多言語による会話(家族内ではインドネシア語、母と子は日本語、父と子はインドネシア語、夫婦は日本語か英語かインドネシア語など)、ベビーシッターを雇用できる家庭環境、異文化結婚をしている日本人女性の親睦会(ひまわり会)への参加などを経験しながら、異文化のなかで積極的に共生の努力をしている。
 多くの夫や夫の家族は遠方からきた日本人女性に温かい配慮をしている。将来に備えた彼女の国籍の維持や子どもへの日本語教育や英語教育を重視する彼女たちの意向を理解する。また夫側は、妻に宗教生活への参加を強制しないこと、親せきが集まったとき、彼女がいるときは民族語を抑制すること(彼らは集まれば、通常ジャワ語やスンダ語などの民族語を話す)、日本人女性が作る日本料理への関心(断食月などには腹持ちが良い日本食を好む)など協力的である。

 日本人女性は、全体としての多様なインドネシアの言語や文化、さらに夫の所属する民族の慣習や宗教を学ぶ。反対していた日本の家族も、現在は頻繁にインドネシアを訪ねるようになっている。インドネシアの夫は、妻から日本人の食生活、日本語と英語の重要さ、宗教への態度など、これまでにない生き方を学んでいる。まさに、二人にとって、異文化結婚は相互学習と文化を超えた新たな家族の形成の場であることがうかがえる。

(2)ジャカルタに住む日本人男性の異文化結婚
 2000年代半ば、筆者はジャカルタで、インドネシア人と結婚し、さまざまな仕事をして暮す日本人男性20名ほどに会った。インドネシアに来た理由、妻との出会い、仕事、言葉、食生活、子どもの教育、宗教、インドネシアの文化や社会への見解などを尋ねた。全体として強く印象に残ったことは、仕事への強い執着、言葉や宗教への適応、日本食へのこだわりであった。

 日本人男性の多くは、転職を経験したり、インドネシアで再婚して仕事をしている者がいる。中には40代半ば、あるいは50代を過ぎて結婚し、インドネシアで暮しているものがいるので、彼らのライフコースは一般化できない。しかしながら、日本人男性は、インドネシア社会での生き方において、譲るべきところと譲れないところをよく認識している。言語や宗教や食物など、日常生活の側面にそれがうかがえる。

 仕事や生活の必要上、日本人男性がもっぱらインドネシア語を学び、話す。妻は日本語に関心がないことが多いが、子どもたちは、日本人学校に通う者も多いので、日本語を理解する。家族内ではインドネシア語が共通語である。
 生活していくうえで、摩擦の起きそうな宗教について、夫は妻の意向に沿うようにしている。イスラーム教には改宗しないと結婚できないからであるが、深く入り込もうとはしない。インドネシア人のイスラーム教徒にも、敬虔なムスリムと名目的なムスリムいるから、その点大丈夫である。それゆえ、妻の立場を考慮して、日常の礼拝は適当でも、断食の慣習には付きあう。自宅では豚肉は食べないし、お酒も飲まないし、お酒を置いておかない。もし親戚がきてそれを見たら、妻の面目がつぶれるからである。

 日本人男性が最も固執するのは日本食である。インドネシア料理に全く問題がない男性から、全く純粋な日本食派まで分かれるが、日本食がなければ生きられない男性がほとんどである。妻が日本に留学中に知り合った日本人男性は、結婚の条件が日本食であったほどである。
 筆者はインドネシア料理を全く食べないとはっきり言う男性に何人も出会った。ある人は「面白いですね。食文化だけは本当に捨てられないですよね」と答えている。だから、その男性の自宅ではいつも日本食なので、妻は料理本やテレビや日本人の主婦から日本料理を学んだという。妻が日本料理をどうしても作れない男性は、それが唯一の不満で、一人日本食を外食して帰るという。
 夫の食嗜好の結果、家族全員が日本食派になったり、夫だけが別メニューの日本食を食べたりするが、子どもたちは大体インドネシア料理派が多い。日本に嫁いだインドネシア人女性の食卓でも、類似した現象がおきる。インドネシア人女性は自分の分のインドネシア料理をこっそり、一品作ることがあるという。

 難しいのは子どもの教育である。それは日本にいても同様な問題であるが、中学までは日本語学校があるが、インド系やオーストラリア系の英語で教える小学校に入れる親もいる。日本の高校はないので、シンガポールの日本人向けの高校に行かせるか、地元のインターナショナルスクールに通わせるか、オーストラリアの高校に行かせるか、日本の高校に行かせるか、選択しなければならない。教育の面では、日本人男性の子どもたちの方が、日本人女性の異文化結婚家族よりも選択幅が広い。
 日常的に外から日本を見ているので、子どもたちが将来どのように生きたらいいのかに関して、異なった視点でみることができるようだ。

(3)メダンに住む日系人家族の異文化結婚
 北スマトラ州の州都メダンには、第二次大戦後、残留した日本兵が多く、その子孫は現在3000人から4000人と推定されている。日系人組織福祉友の会のメダン支部には、現在146家族の名簿と家系図がある。これまで、東南アジア史の専門家は、残留日本人の歴史的・政治的役割に注目してきたが、異文化結婚の事例として注目されてこなかった。
 2009年と翌年、筆者はメダンを訪ね、生存している残留一世の30家族の配偶者32人(当時)のうち、13人と面談した。二世の子どもたちも同席し、父の思い出を語ってくれた。

 メダンに残留した日本人の配偶者の民族は、ジャワ人と華人が圧倒的だが、北スマトラのさまざまな民族が含まれていた。ジャワ人の多くはイスラーム教徒であったので、比較的敬虔なムスリムになった。結婚形態も複婚の割り合いが多かったため、設けた子孫は多数で、今日の日系社会の基盤を作った。面接した32名の配偶者だけでも、子ども166人、孫451人、ひ孫130人、総計910名の子孫がおり、一人当たり5.1人と多産である。
 残留した日本人は、農業、自動車や自転車の修理、軍人、民間の医療従事者などさまざまな仕事をして食いつないできた。インドネシア語を始め、民族語も理解し、日本食に固執せず、何でも食べ、ムスリムのインドネシア人として生きてきた。地域に日本企業が進出したあとは、それらに雇用される者もいたが、子どもたちは、時間的な余裕もなく、必要ないと言って日本語を教えてもらえなかったという。とにかく、仕事と結婚を通じて、現地社会に必死に適応しようとしていた。

 日本語は必要がないと言っていた父も、日本料理で正月を祝い、日本食は夫が作った。配偶者も子供たちも、刺身、てんぷら、味噌汁、煮物などの日本食の言葉を口にし、父が生きていた時代と生活を、良く覚えていた。
 父親たちが、仲間たちと集まっては、洋酒を飲み(当時日本酒は手に入らなかった)、日本の歌を唄い、碁や将棋や麻雀や花札などをして望郷の念を癒していたようだと子供たちは述べている。ある娘は日本の童謡や遊びを教えてもらったり、浴衣を着せてもらったことを、誇らしげに回想してくれた。
 日系人の就労の解禁とともに、ブラジル日系人のように、日本の企業に雇用される日系インドネシア人が生まれ、日本とのつながりが深まっている。そこには、日本とインドネシアの新たな共生の事例が生まれている。

(4)日本で異文化結婚を営む日本人男性とインドネシア人女性
 2001年夏、横浜市を中心に住む、日本人男性と結婚しているインドネシア人女性の10家族を訪ねた。彼女たちはインドネシア人家族の会のメンバーで、年齢は30代が中心である。子どもたちの多くはまだ小・中学生である。彼女たちはジャワ人、バリ人など様々な民族に属し、また信仰する宗教もイスラーム教が半数であるが、カトリック、プロテスタント、ヒンズー、仏教など多様である。日本企業に勤める夫たちがインドネシアへ赴任している間に知り合い、結婚し、現在は日本で生活している。
 夫婦や家族の言葉、家庭での食事と料理、宗教信仰、社会的活動や地域交流、夫の役割・妻の役割、異文化理解の課題などを主に尋ねた。彼ら夫婦がこれらの課題をどのように処理し、生活しているのか。自己のアイデンティティをどのように維持しながら、他者に関わっているのか明らかにしようとした。

 インドネシア人女性は、インドネシアの日系企業で働いていた頃は英語で話していたが、日本に来てからは子どもや夫や夫の両親や近所づきあいのなかで日本語を習得した。インタビューしたとき、どのインドネシア人女性も日本語を流暢に話した。しかし日本語の読み書きは不得手なので、子どもたちは、学校からの知らせを父のところに持っていく。
 筆者が訪問した家族では、基本的に日本料理であり、訪問時に赤飯と煮物を出してくれた家族があった。とはいえ、豚肉を使った料理は出てこない。良く作る日本料理は味噌汁、てんぷら、すき焼きなどで、刺身やスシや納豆は好まれない。ムスリムの断食明けの大祭やイベントのときには必ずインドネシア料理を作るが、週に何回か、あるいは食べたいとき一品添える程度である。
 女性がイスラーム教徒の場合、日本人男性がイスラーム教に改宗し、割礼の儀式を行う。息子たちもインドネシアに帰ったとき行うという。夫にとって、イスラーム教は慣習でしかないが、妻たちにとっては、日本に住んでいても、ムスリムとして生活し、死後はイスラーム風に埋葬してほしいそうである。

 現在、インドネシア家族の会のメンバーとして、横浜市や区の国際交流のイベントに参加したり、クリスマスや断食明けの大祭には集まって親睦を深めている。クリスマスにはムスリムのメンバーが支援するし、断食明けのイベントにはキリスト教徒のメンバーが支援する。イベントに持ちよる料理などを通じて、他民族や他宗教の料理を互いに食べる機会があり、インドネシアでは経験できないことができる。
 国際交流活動では、地域のPTAのお母さんにインドネシア料理や舞踊を紹介したり、呼ばれれば学校でインドネシアの文化の話をするという。子どもたちもそのような母親をみて、改めて尊敬したり、異文化結婚がマイナスのことではないことを知るようになる。地域での生活が長くなり、日本語が上達にするにつれ、ゴミ捨てなど近所の付き合いが普通にできるようになり、安定した生活ができるようになる。

 夫たちは、母親と妻の苦情受付係であり、妻への日本文化の説明係となる。妻たちは、インドネシアではお手伝いがしていた掃除や洗濯や料理やベビーシッターなどの仕事は、日本ではすべて主婦の仕事なのが普通であることなど、主婦の役割を学習していく。また、夫の会社からの帰りがなぜ遅いのか、日本人の働き方や企業文化についても徐々に学んでもらう。
 夫は妻の病院に同行したり、子どもたちの勉強の面倒をみたり、家計の管理についても日本人の夫のように妻にすべてを託さないなど、夫の役割は普通の日本人の夫より丁寧かつ複雑である。
 それでも異文化間で生じる問題が異文化結婚家族では頻繁に起きる。双方の立場をうまく仲介できる友人がいればよいが、いない場合、納得のいく説明をする努力を続けなければならない。例えば、クリスマスには帰国する準備をしていたところ、息子が部活があるから行かないと言い出したとき、息子にとって部活の重要さが理解できない妻がパニックに陥ってしまった例など、納得してもらうまで、粘り強い説得が必要であった。

 このように、日本人男性とインドネシア人女性の異文化結婚において、日本に住むインドネシア人女性は、日本語を覚え、日本食を作り、さまざまな日本の文化や慣習を理解しなくてはならない。一方、夫はイスラームへ改宗するほか、子どもの世話や妻の日本への定着にさまざまなアドバイスや配慮をしなくてはならず、その分、通常の日本人の夫よりも、きめ細かな生活への関与が必要になる。さらに、イスラーム信仰を自己のアイデンティティとして捉える妻を理解しなくてはならない。
 カップルにとって、異文化結婚は、互いに譲るものは譲り、主張することは主張するという相互依存的な共同作業であり、その過程で、ジェンダーと異文化が共生するライフスタイルを築きあげていく。

◆おわりに:異文化を持つ人間同士の交流は新たな人間を作り出す

 異文化結婚では、異なる文化をもつ二人が、一方の文化の中で生活を始める。しかし、二人は、自由な意思によって相互交流し、文化を越え、新たな人間になる。当初、結婚を反対された日本人女性は、もう帰れないと思い、その分必死に頑張った。引っ込みがちだった性格も変わり、心の奥に好奇心や冒険心が生まれてきたという。やがて、自分が日本人であることを時々忘れてしまうとか、結婚相手が外国人であることをあまり意識しなくなったという心境の変化を経験するようになった女性がいた。
 人間は他者が好きになると、他者の文化が好きになり、他者の文化を受け入れるようになる。そこに新たな自己が生まれる。そこにはそのような自己を変貌させる異なった他者がいる。人間の交流と共生は弁証法的であるといえる。

 グローバル化が進展し、人々が国境を越えて生き、異なった文化をもつ人々が結婚したり、同じ地域で生活したり、同じ職場で働いたりする機会が増大している。そのような状況のなかで、異なった文化を持つ人々に偏見をもち、彼らを排除するのではなく、彼らから学び、自らの新たな活力と視点とすることが重要である。
 民族や文化の共生とは、個々人が「信頼のできる、心をゆるせる他者(配偶者、家族、友人、仲間など)と争いなく、共に生きること」である。しかしながら、実際、それを実現するためには、多くの民族や文化との対立や心の壁がある。そのためには、異なる他者と相互交流の努力が絶えず求められる。それは終わりのないプロセスでもある。

<参考文献>

註1.ハルミ・ベフ「グローバルに拡散する日本人・日系人の歴史とその多様性」『日系人とグローバリゼーション 北米・南米・日本』レイン・リョウ・ヒラバヤシ、アケミ・キクムラ=ヤノ、ジェイムズ・A・ヒラバヤシ編 人文書院 2006
註2.吉田正紀 『異文化結婚を生きる 日本とインドネシア/文化の接触・変容・再創造』新泉社 2010
註3.大野俊 「異民族結婚した移民一世とメスティーソ二世—フィリピン日系人問題の起源を考察する」足立伸子編著(吉田正紀・伊藤雅俊訳)『ジャパニーズ・ディアスポラー埋もれた過去・競走する現在・不確かな未来』新泉社 2008
註4.吉田正紀 註2.と同じ
註5.工藤正子 『越境の人類学—在日パキスタン人ムスリム移民の妻たち—』東京大学出版会 2008
註6.吉田正紀 註2.と同じ
註7.吉田正紀 「私のフィールドワーク:パプア・ニューギニアを訪ねて」『国際文化表現学会会報』 Vol.35, no.1, 2012
註8.吉田正紀 「文化交流と人的交流の拡大—異文化結婚から考える」『アジア共同体の創成に向かって』佐藤洋治・鄭俊坤編 芦書房 2011:171−183
註9.吉田正紀 「フィールドワークの実践と日常生活の経験—インドネシア北スマトラの事例から」『国際文化表現研究』No.9:327−334 2013
註10.シュルツ&ラヴェンダ(秋野晃司・滝口直子・吉田正紀訳)『文化人類学—異文化への視角 I 』古今書院 1993
註11.吉田正紀 註9.と同じ
註12.吉田正紀 註2.と同じ

<筆者略歴>

吉田 正紀(よしだ まさのり)

学歴 立教大学経済学部経済学科卒業
   立教大学大学院文学研究科地理学専攻修士課程修了
   イリノイ大学アーバナ・シャンペーン博士課程修了(Ph.D.:人類学)
職歴 日本大学国際関係学部教授 (2015年3月まで)
現在 日本大学国際関係学部 非常勤講師

専門分野 文化人類学、東南アジア研究

主な著書 『民俗医療の人類学:東南アジアの医療システム』(古今書院 2000)『異文化結婚を生きるー日本とインドネシア/文化の接触・変容・再創造』(新泉社 2010)
主な訳書 『千年王国と未開社会』(紀伊国屋書店 1981)『異文化結婚』(新泉社・監訳 2005)『ジャパニーズ・ディアスポラ』(新泉社・共訳 2008)『和製英語と日本人』(新泉社・共訳 2010)


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