【書評】

盲点突くタイムリーな啓蒙書
『南シナ海 領土紛争と日本』

   矢吹 晋/著 花伝社/刊 230ページ 2,000円+税

岡田 充


 南シナ海問題で仲裁裁判所は7月12日、中国が歴史的経緯から大半の管轄権を主張してきた「九段線」には、法的根拠がないとの裁定を下した。中国の法的敗北と外交上の痛手は明らかだ。裁定は同時に、南沙諸島に「島」は存在しないと断じた。中国だけでなく台湾、フィリピン、ベトナムなどが実効支配する「岩礁」は、200カイリの排他的経済水域(EEZ)を主張できないとしたのだ。
 メディアは「中国大敗」を大絶賛したが、「島」と「岩礁」について下した裁定は、日本の「沖ノ鳥島」のEEZの主張にそのまま跳ね返る。なぜなら「島」の要件として「満潮時においても水面上にある」こと(海洋法条約121条第1項)と「人間の居住または独自の経済生活が維持でき」ること(同第3項)を挙げたからだ。本書は判決前の出版だが、南シナ海問題が沖ノ島問題に波及するとみて「沖ノ鳥島基点のEEZ主張が危うい」と、警鐘を鳴らしている。

 現代中国を専門とする筆者は、『尖閣問題の核心』(2013年 花伝社)をはじめ、計4冊の尖閣本を上梓し今回は5冊目。興味深いのは、日本政府による尖閣国有化は、中国に「二つの決断を下す契機を与えた」とし(1)東シナ海の大陸棚延伸を申請(2)沖ノ鳥島の教訓を模倣して南沙での埋め立てを強行—を挙げた点である。
 ナショナリズムにとりつかれると、「あちら」の非ばかりに目を奪われ、「こちら」の行為には無自覚になる。沖ノ鳥島についても、多くの人は政府の説明を鵜呑みにしてはいないか。では沖ノ鳥島に関する日本政府の主張に果たして正当性があるのだろうか。綿密な調査に基づく分析は説得力に満ち、読み応えがある。これを読むと、日本政府の主張が詭弁に近いことが分かる。主題の南シナ海についても、戦前は「新南群島」の名称で日本軍が支配していた事実を知る人は少ない。その意味で、われわれの盲点を自覚させるタイムリーな啓蒙書である。

 南シナ海紛争について筆者は「帝国主義による領土分割競争の戦後処理という要因が紛争の原点」であり「人類が経験した最も複雑な領有権紛争」と位置付ける。だが各国の主張のいずれかを支持する立場には立っていない。「親中派の代表」とみなされがちな筆者だが、「九段線」については「終始曖昧な説明」と中国側主張に懐疑的だ。
 一方、筆者は国際政治の文脈から「中国脅威論を煽る材料としてしばしば利用され、ついに安倍内閣の安保法制成立への援軍として悪用された」と論じ、「国際法下の秩序」という「キレイゴトを前面に押し出す米国」が、いまも海洋法条約を批准しない矛盾を厳しく突いている。21世紀初頭に東アジアで噴出した領土、領海紛争は、大国間の勢力移動が背景にあり、仲裁裁判所の裁定もそれを色濃く反映している。裁定を絶対視せず、領土・領海ナショナリズムから脱却して、人類共通の財産である海の平和的な利用の道を探らねばならない。

 紛争の出口について筆者が「資源保護を優先させ、領有権争いを凍結した知恵」の重要性を説き、地域住民だけが利用できる共有材としての「ローカル・コモンズ」はなく、主権国家の管轄を超える「グローバル・コモンズ」の必要を訴えているのは傾聴に値する。全体を貫く基調は、日本外務省の姿勢とそれを無批判に伝えるマスメディアへの批判である。特に「日本のマスメディアは真実を報道しない」という絶望的ともいえる不信に、メディア側も正面から応えねばならない。

 (評者は共同通信客員論説委員)

『南シナ海 領土紛争と日本』
  http://www.alter-magazine.jp/backno/image/151_08-01.jpg


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