【戦後70年を考える(4)私にとってのアジア】

私の戦後70年秘話

木下 真志


<ある日の思い出>
 1945年8月15日、俊一少年は14歳であった。
 第二次世界大戦が終わったこの年の3月、俊一少年は静岡県浜松市のとある尋常高等小学校を卒業した。進学する人はクラスで5〜6%という時代だった。俊一少年は、浜松市にある鉄道工場へ就職、工場の技能者養成所で一級技術者になる教育を受けた。

 4月30日午前9時過ぎ、空襲警報のサイレンが鳴った。養成所の先生の命令で20名ずつに別れて急いで防空壕へ避難した。中は真っ暗だった。手探りで中へ入った。B29爆撃機の投下する爆弾が炸裂する音がして来た。徐々に「ドカン・ドカン」という音が大きくなり、炸裂するたびに防空壕が地震のように揺れ出した。
 「ヒュル・ヒュル」という不気味な音と同時に、「ドカーン」という耳をつんざく炸裂音もした。防空壕が激しく揺れる。彼らは怖くて同僚と体を寄せ合って怯えていた。2時間余り過ぎて、ようやく空襲警報が解除になったので壕の外へ出たら、10メートルほどのところに直径5〜6メートルの大きなすり鉢型の穴を発見した。周りを見渡せば、工場 (建物の長さ600メートル×5棟) はすべて爆破されていた。
 俊一少年は、13才のときにも学徒動員で軍需工場へ働きに行ったが、14才のときのこの日の死にそうな、「おっかない」体験を忘れることができない。

 「何事も体験した人は納得できるが体験したことがない人は、理解しづらいと思う。現代は、欲しいもの食べたいもの、金さえ出せば何でも手に入る。戦中、戦後は着るもの食べるもの、何もない時代だった。生きていくのが精一杯だった。
 今は平和でありがたい。」
と俊一(しゅんいち)は日々思っている。

 俊一(少年)とは、私の父である。

 (大原社会問題研究所研究員)


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