【オルタの視点】

笑いながら死にたい
―むのたけじさんとの長い旅(4)

河邑 厚徳


 ドキュメンタリー映画『笑う101歳×2 笹本恒子 むのたけじ』の劇場上映が決まった。6月3日(土曜)から、都内は恵比寿の写真美術館とヒューマントラストシネマ有楽町でいよいよ公開である。むのさんの最後の日々がその映像に残されている。むのたけじは、いかに死を迎えるかを数年考え続けてきたようだ。
 2015年1月2日の100歳になった誕生日は、戦後70年の年でもあり十社を超えるマスコミが集まったが、101歳の誕生日には別の取材もなく、思いがけなくむのたけじの素直ないのちへの思いを聞くことができた。伝説となった孤高の新聞記者と呼ばれる、むのさんは改憲反対や反戦主義のジャーナリストとして見られているが、人間としての奥深い魅力を持つ茶目っ気のある人物でもある。まず101歳になっても女体へのあこがれがあるというような話に続いてこんな話題になった。

 「なんと考えればいいかわからんが、ただ私は生命について2、30年くらい前からしばしば言ってるけど、生まれるのはめでたくて、死ぬのは悲しいっていうのは、これはおかしいっていうんですよ。うん、生まれるのがめでたいなら、死ぬのも、めでたいとは言えなくても悲しむ必要はないはずだと。そこが私、わからないんですよ。だから、10年くらい前からかな、死んだとき親しい友だけは「あーよくぞ、くたばった、むのたけじ」と実感を込めて言うんじゃないのかな。そう言ってもらいたいなんてね。そう口にして言ったことあるんだけど。そこの気持ちが他の人にはわかってもらえないんだよね。
 だもんだから、最後の本はニコニコ笑いながら死にますなんて本を書こうかなって言ったら、練習してみたら?って家族(武野大策)に言われて、息を引き取るような表情をしながらニコニコ笑おうと思ったら全然できないね。不思議なもんでね。大策に聞いたら、それはそういう人間が今までいなかったからだ、だから体の構造が笑いながら息を引き取るって具合にできてないんだって。そうであればなるほど、その練習しながら死にたいなって笑い話半分に言いながらも、本当は本気なんですよ。だから息子に言ってるんだけど、カメラ買っておくから死んだらパッと俺を撮ってくれって。そして笑ってるか、笑ってないかよく見てくれ。そんなことむのは言ってたけど、結局は笑えないで死んだとか、笑いながら死んだとか、そう考えると人生の締めくくりが問題のような気がしてね、しかもこれが各人の責任に、任された格好になってるところに人間のひとつの大きな問題があるような気がしてね」

 思わず聞いてしまった。
 「むのさん。いよいよ死期を悟ったら呼んで下さいね」
 「はいはい。そうします」
 「でも相当先ですね」
 「いやいやいや。どうなりますか。私は75まではね、青年だと思ってて、実際75までは横手で暮らしていて、たいていの用は自転車で済ませていました。75歳の夏ごろかな? 北上駅へ電車へ間に合うように走って、梯子段のぼって途中でダウンしかけて、あー我老いたりと。私に言わせれば、75までは元気でいくと思うけどね」

 話を聞きながら、むのさんが死ぬときには何を考えるのだろうと思った。昭和15年7月20日(1940)の報知新聞に写真入りで豆記事が載っている。「武野記者北支へ特派 興亜学生汗の奉仕を現地から紙上へ。炎熱の大陸で汗の奉仕を行う研修隊員一行に従ってその現状の報告をするため、本社では社会部武野武治記者を特派することに決定。武野記者は19日、壮途についた」。時にむのさんは25歳で入社から4年目の夏であった。日中戦争から4年目に入り、当初の不拡大方針を捨て、陸軍は暴支膺懲(ようちょう)のスローガンのもとで、暴虐な支那(中国)を懲らしめよと喧伝していた。若い武野がなぜ抜擢されたのかは不明であるが、誰も現地に入っていない中国北部の取材は絶好のチャンスであった。従軍記者ではないので戦場を取材するわけでもなかった。武野記者がたどった道は、ちょうどNHKでのシルクロード取材と重なっている。武野記者は関心の赴くまま、自由な取材を続けた。

 むのさんはまず北京郊外の盧溝橋をその目で見に出かける。そこで自分を被写体に入れての記念撮影。日中戦争の起点の現場で何を感じたのかは聞いていないが、案外ミーハーだと思った。そこから万里の長城を超えて張家口駅に汽車で到着したのが大陸到着の5日後である。なぜか遠くへ行きたいと思い、『たいまつ十六年』によれば、当時日本人が行き得た一番遠いところで過ごしたという。25歳の青年らしい心情があふれる取材行だった。外蒙古ではラマ教のゴンパ(寺院)に泊まり込んだ。記事は戦争を忘れたような今でいう紀行ルポルタージュのようなものであった。一連の記事の通しタイトルはふたこぶラクダのイラストに「草原に芽ぐむもの」であった。
 「これは草原の旅日記であり、いま草原に芽ぐむもの、新東亜の息吹があの広漠千里の草原に如何に反映しつつあるかというささやかな報告書である」。という、なんだか戦時下とは思えない暢気なものであったが。むのたけじは何を考えていたのだろうか? 聞いてみた。

 初めて大陸の土地を踏んで、むのさんはアメリカのジャーナリストのエドガー・スノーを強烈に意識したようだ。スノーは中国共産党と深い関係をもち、中国の近代史をライフワークとしていた。特に昭和12年(1937)に発売されたリポルタージュ『中国の赤い星』は毛沢東を好意的に取り上げ、その後の共産革命を予言する大ベストセラーとなった

 「東京外国語学校に入って何が変わったと言ったら、当時学校があったのは毎日新聞社の前。あそこは江戸城の外堀と内堀の間で、蛮書取り調べ所、徳川幕府の外国語の文章を取り締まるところがあったの。そこに外語があって、そこから歩いて15分で神保町の古本屋街。古本屋には本が山のようにあって、しかも自分が見たこともないような本が安くずらっと並んでいるもんだから、それを買うための工面をして、まもなく毛沢東とかレーニンとか、もう恋人だもんな。特にレーニンの奥さんのクルプスカヤはいい人だったらしいね。女性の教育問題を一生懸命にやった。それと同時に、新聞記者になって中国に行くようになったとき、毛沢東たちの革命派が延安というところを拠点にしていたが、世界に様子が伝わらなかったの。そしたらエドガー・スノーという、アメリカ人のジャーナリストが延安に飛んで毛沢東や周恩来とあってレポートを書いた。それが『レッドスター・オブ・チャイナ~中国を覆う赤い星』。日本語では『中国の赤い星・毛沢東』という単行本が出てね。それを見たときに、熱狂するような感動を覚えた、そこにつながっていくわけ。」

 「初めて大陸を踏みしめて特派員として何を目指していたんですか?」

 「あなたが聞くから告白するけど、昭和15年の夏に中国に行って、本当に日本は勝った勝ったというけど実態はね、日本軍が何万何十万と行って占領しているけどね、実態はどうなっているかを見るためには一番新しい戦場がいいと思って内モンゴルに行った。包頭とか、そういうところに行って見てみた。
 そして分かったことは、中国の民衆は大人も少年少女もひっくるめて、日本に屈服する可能性はゼロだということ。日本軍が中国を攻める限り、中国の人は最後まで、日本兵が居られなくなる日までとことん日本と戦う。これでは戦争を止めるしかないけど、日本政府は止められない。それで私が決意したことは、ちょうどその時、子供が一人生まれていたんです。だから、日本に子供がいるのに女房と何も相談しないで、延安に行こうと思った。
 黄河の付近に、八路軍、中国共産党の軍が出入りして活動していると分かったから、リュックサックにいろいろなモノをつめて、包頭の宿屋を出て、とことこ歩いていったのかな。黄河のほとりへ行って、ごろんと横になった。たぶん朝の9時頃。八路軍に捕まりに行ったのよ。捕まったら延安に行きたい、毛沢東さんの所に送って下さいと頼もう、それだけ考えていた。向こうが何を言うか。ブスッと殺すかもしれないけど、そういうのは何も考えなかったね。中国語のイーアルサンスーも言えない時代なの。馬鹿でねー、とにかく25歳。そこまで思い詰めていたの。でも中国の人は私を殺さないと思っていた。その時、寝ながら撮った写真があったんだけど、とうとう見えなくなっちゃって。一番惜しい写真です。そこまで思い詰めた。やっぱりそれが、私のジャーナリストの活動の土台にあるんだよ」

[註 包頭から黄河の下流に、延安、西安は位置する。]

 「結局は空振りに終わりますが、そのへんは記事に出来ませんね?」

 「していないです。なんかおかしいもの。自分でも。でも、それを書いてみても、どうってこともないと思うし。黄河のほとりで仰向けに寝ながら八路軍、中国の共産軍に連れて行って貰って、延安にエドガー・スノーのように行ってやろうというような、馬鹿げたことを妻とも相談せず、殺されるかもしれないことなのに。そういうところがあるの。隣近所の民族に甘えるところがあるな、私には。敵だと思えないもん」

 「期待が満たされないことを知った旅人は、河心に向かってカメラのシャッターを切った。はるかな対岸が一本の黒い横線を描くだけで、帆影も人影もない、ただ満々たる水がきらめいているだけの変哲もない写真が、しばらくたって報知新聞社会面に三段抜きで掲載された。下欄の短い説明文は次のように結ばれていた。かって寧夏を過ぎ、回教圏をこえてインドに達したアジア横断ルートの起点であった南海子〇頭よ、そのルートに新生命のかよう日は、古いもの邪なもののほろびを待たねばならないのか、黄河にたずねる、その日は一体いつなのだ?」(『たいまつ十六年』より)

 むのたけじは尊敬する第一の作家として魯迅をあげている。むのさんの部屋には魯迅の肖像写真が掲げられていた。どうもむのたけじの最後の夢は大陸の大地を自由に浮遊していたのではないかと考えた。

 (映画監督)


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