【コラム】技術者の視点(8)

終末を迎える技術

荒川 文生


 2011年3月11日にメルトダウンを起こした福島第一原子力発電所2号機の炉心下部で放射能を測定したところ、600SV/hであったという。測定に用いたロボットは、高い放射能を浴びて動作不能に陥った。地上の放射能が20mSV/hで、居住環境として許容できるかどうかを論じている場合では無く、その3万倍の放射線量である。そこに絶え間なく注ぎ込まれる地下水は、そのまま太平洋に流れ出て海中の植物や生物を汚染し、福島は勿論 南北米州、豪州、南海諸島、東亜州に汚染は広がりつつある。1960年に公開された映画『渚にて』そのままの情景が現実のものに為っている。

画像の説明
終末の夕陽

 人類はこの状況を食い止める技術を持てるであろうか? それが無ければ、人類は終末を迎えるしかない。この現実から目を背けるわけにはゆくまい。そうなれば技術者は、この現実を冷静に受け止め、終末を迎える技術を開発する使命を負うことになる。

 それはいったい如何いうものであろうか? どう考えてみても、某宗教団体が演出する集団自殺をより優雅に有効に演じるためのものではなかろう。
 映画『渚にて』で名優フレッド・アステアが演じる技術者は、愛車を駆ってメルボルン市内を周回するカーレースに登場し、見事優勝したのち密封したガレージの中で、愛車の排気ガスを吸って自殺する。そこには技術者なりの誇りと満足がある。

 放射能汚染が広がる以前に人生の終末を迎える多くの人々は、誠実な努力と細やかな歓びのうちに自らの尊厳を保ちつつこの世を去ることであろう。22世紀に人類が存続し得ないにしても、生き続ける一人一人の人間は、やはり、その生きざまとして理想と尊厳とを高く保ちたいと願うであろう。その願いを支えるものとしての精神力とともに、その願いを実現する「技術」が、生活手段や医療設備として存在する。それらの助けを借りながら、静かに終末を迎えたいものである。

  冬空に消え入る命千の風   (青史)

 (地球技術研究所 代表)


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