【北から南から】中国・吉林便り(7)

豊満西山で蛇に咬まれて

今村 隆一


 もしかしたら死ぬところでした、と言うと大げさかもしれませんが、今回思わぬ事故に会い、沢山の吉林人(ジーリンレン)に助けていただきました。今は自分の勘を頼りにリハビリで正しい姿勢での歩行と左足筋力強化に励んでいます。日ごろから吉林人に迷惑をかけたくないと、私は細心の注意を払っていたつもりでしたのに、本号では恥をさらすことになり、慚愧に耐えない中での報告です。

●このひと月、巷では

 5月から7月中旬まで中国の至る所で発生した豪雨が、大都市から農村まで広範囲に洪水の爪痕を残して、続いて現れているのは酷暑です。地球の温暖化に加えて今年の中国では災害大国としての被害新記録が残ることでしょう。私が病院から退院して家に戻るとCCTV(中国中央テレビ局)ニュースではアメリカのTHAAD(ミサイル防衛システム)の韓国配備を決定、表面的には北朝鮮核問題への対処だが、これを韓国野党と市民が強烈に反対していることを、映像ニュースで連日流していました。時々沖縄県辺野古の米軍基地建設の反対運動も流しますが、韓国のそれは中国吉林省が北朝鮮と地続きで近距離なため切実な問題だということが判ります。

 日本からのニュースは、相変わらず中国政府内がギクシャクし、習近平が党内抗争に明け暮れている、中国経済が破たんしかけている、韓国が中国寄り政策を転換した、中韓関係が破たんなど、中国と韓国の中傷と揚げ足取りが目立ちます。中国の市民生活について最近の日本でのニュース「ちょっと違うなぁ」と思ったことが2つ。その1つは、これまで無かった日傘が今年中国で流行っている、というもの。2つは、中国では婦人の広場ダンスが流行している、というものです。
 私は吉林市に住み始めた時から日傘も広場ダンスもよく眼にしてきたし、他の地域を旅行したときも度々どちらも眼にしていましたので、今に始まったことではありません。ただ、どちらも益々多くなっていると言えそうです。共通することは、誰でも安価で手に入り、誰でもできることですね。広場ダンスについては、今はしていませんが、2009年には当時70歳の修先生(以前北華大学体育教師)に誘われて、私も家の近くで20~30人の女性に交じってやっていましたが、結構良い運動になったものです。修先生はこの2年一度も見ていないのが気になっています。

●心構えと裏腹は失敗を招く

 トラブル発生のリスクをできるだけ減らすようにしているつもりでしたが、それは対外的でも自分自身にもそうしていたつもりでした。普段から、避けられない事件や事故に遭遇することもありますが、自らの注意で避け、あるいはできるだけ最小にしようとすることは自然なことで大切なことだと思っています。私にとって健康と安全は常に優先されるべき概念です。だから対極にある戦争や原子力発電、兵器を最も嫌悪し、何処にいても空気・水・土壌など環境の汚染を危惧します。考えていることと実際の行動が裏腹だといけないことは分かっていても失敗することが得てして起こるのです。

●豊満西山

 日本侵略時に建設された豊満ダムは吉林市松花湖の北端にあります。そのダムの西に隣接する豊満西山に登って下山途中、私は左足首を蛇に咬まれてしまいました。7月14日、乗り合いバス停の吉豊街を下り、午前8時から歩きはじめ、ゆっくり登って9時45分山頂着、10時から西方向の腰屯に向けて下山を開始してからの負傷でしょうが、蛇に咬まれた自覚はなく、11時頃から左足首がヒリヒリ痛く、蜂に刺されたものと翌日病院に行った頃までずっとそう思っておりました。
 メールマガジン「オルタ」の代表に送った送信済み7月14日午後11時(中国と日本の時差は1時間)のメールを見てみますと、“加藤様 吉林便りを添付します。吉林も暑くなっています。今日は朝7時に家を出て一人で豊満西山735mを登りました。下山中に左足首付近を蜂に刺されたようで、今腫れて痛くて片足歩行しかできません。明日朝少しでも治ってくれると良いのですが。”と通信していました。
 豊満西山は2年前の12月25日、積雪時に戸外群(ハイキングクラブ)の活動に参加し登ったことがあり、今回は明後日の7月16日に豊満ダム下の豊満橋を出発して、元旦登山で人気の豊満東山830mから白石砬子、北猞猁湖を経て豊満橋に戻る環形山歩きを予定していたので、この日は軽い足慣らしのつもりの日帰り登山でした。私は、未熟な人の単独登山が危険なのであって、単独行が危険だとは日頃から思っていません。ただ怪我したり、体調不良になった時は細心の注意が必要で、基本的に自分の力で困難を克服するのは何処であっても、それが複数でも一人でも同じと思っています。でも吉林では私も未熟な登山者の一人だったのでした。

●反省すべき軽率さ

 未熟な登山者の具体的失敗の第一はスパッツ(靴の上から着けて足首の上まで覆うカバー)を着けなかったことです。私は冬用と冬以外の二種(長短の別あり)を持っているのに今回は持って行かなかったのです。スパッツを着けていれば咬まれることは避けられたかもしれません。次に登山杖を忘れたこと、更にいつも冬以外は白色系の服装をして蜂や虫刺されをできる限り少なくするよう注意しているのに、この日は下半身の服装は黒色だったことです。結果論と言ってしまうこともできますが、この3点が反省点です。これまでも持って行く物を忘れることが時々ありましたが、準備に取り掛かるのが早いほど忘れ物は少なくなるので、その当然のことをなおざりにしていました。

●迷惑をかけて申し訳ない

 どこにいようと生きている間、他の人に迷惑をかけることは避けられないと承知していますが 今回は思いがけない迷惑を多くの方々にかけてしまいました。
 私の愛読雑誌はメールマガジン「オルタ」を除いて『週刊金曜日(編集人平井康嗣・発行人北村肇)』で、発行物は日本の家族が一月分をまとめて北華大学国際教育交流学院(外国人留学生への漢語指導と受け入れの他、北華大学学生の海外留学送り出し支援等を行っている学部)の蘇先生の所に送付してもらっております。本週刊誌は今年4月からスマホやタブレットでも購読できるようになったようですが、現在はまだ郵送してもらっていて13日に到着した旨、蘇先生から連絡いただきましたので、15日に受け取りに行くと伝えておりました。
 予定の15日朝、左足は腫れあがり痛くて歩けない状態でしたので、出勤している蘇先生に電話し郵便物は来週取りに行くことにしたいと伝えたところ、彼女は怪我したのなら病院に行くべきで自分が学院長に外出許可をもらって随行してあげると強く勧めてくれたのでした。そして学院長は同学院で私と家も近く接することが多い男性の楊先生を同行させるよう計らい、二人の先生が大学から私の住む家までタクシーで来て、病院に連れて行って下さることになったのでした。

●誤認:蜂に刺されたのではなかった

 電話して二人を待っている間に、予想もしなかったことに気持ちが悪くなり、病院に着くまでタクシー以外の場所で小刻みに6回も朝食べたパンを吐いてしまいました。家から病院までタクシーで10分位、昼頃に吉林中西医結合医院の正門に着くと、1階ロビーに隣接する200㎡ほどの救急大庁があり、中央が数人の医師と看護婦のいる円形カウンター、その周辺に救急患者用ベッドが10床とTV観賞コーナーとなっていました。
 早速空いているベッドに誘導され採血と点滴、その後は楊先生の話によると左足の5本の指の間に針を刺し、患部近くから血を絞り抜く処置をされたそうです。臆病者の私はとても患部を見れません。握っていた右手の指を楊先生の手の指にからませ痛みをこらえました。救急大庁は誰でも入れ、病人以外の人の方が多いくらいですが、この時は患者も少なくベッドのほとんどは空いていて静かでした。丁度血を抜く処置をされる直前、刘学院長が様子を見に来て、処置が終わったところで、私に安心して養生して、と言って帰られました。

●治療の仕方

 患部周辺を押されながら血を抜かれたときは何のための処置かは理解できても、痛さを堪えるのは容易ではありません。早く終わることだけを祈っておりました。時間にして5分間位だったでしょうか、気絶したり意識が朦朧とすることもなく、処置は早く終わったように感じました。
 その後退院するまでの1週間は、早朝採血後、輸液と患部に漢方薬を浸したガーゼを貼付されました。輸液は塩化ナトリウム250㎎と七葉皂苷钠20㎎が主に使われ、1日目は深夜11時ころまで、2日目は夕刻に終わり、3日目以降は6~7本と少なくなりました。貼付した漢方薬は医師の言うことでは秘薬だそうです。
 左足の腫れは入院1日目と2日目が最大で、退院するまでに段々と引いて行きましたが、皮膚の色の回復は遅々としていました。痛みも日を増して薄らぎましたが、退院してからも左足を下に着けると痛く、椅子に座っていても左足を膝上まで上げないと痛くなる始末、歩行に支障なくなるのは8月に入ってからでした。

●入院生活

 1日目に救急大庁から大庁に面した、面積は100㎡位ありベッドが10床あった部屋に移りました。その部屋は広さはたっぷりあったし、衛生的には見えましたが窓が無く空調も扇風機もないためか空気がよどんでいて、この部屋にも患者以外誰もが出入り自由で、患者もスマホでイヤホーンは使わず音量を部屋いっぱいに聞こえるほど出すうえ、加えて誰もがスマホで大きな声で長時間会話するのですから、私にとっては想像を超えた異次元の環境でありました。
 蘇先生は女性で気が利く方で、私に確かめてから医師に部屋を変える交渉をしてくれ、3日目からは大庁を出て廊下を回り込んだ2床ベッドの小部屋に移りました。その部屋には窓はないもののエアコンに似た空気清浄器が設置されておりましたのでその風で十分涼しく感じました。話し好きの楊先生は大部屋に戻りたかったようですが、私は喧噪の中は苦手なので小部屋にいることにしました。吉林の多くの人は賑やかなのが好きなようで、街も道路に面した商店は音楽や呼び込み宣伝をヴォリュームいっぱいに上げて流します。

●吉林中西医結合医院

 これはこのたびお世話になった病院の正式名称で、別称吉林市第三人民医院です。吉林市では最も評判の高い医院と聞いています。吉林市の有名三大病院の一つで、他には北華大学付属医院と中心医院があります。「中西医結合」の「中」は漢方医療、「西」は西洋医療、「結合」は二つをつなぎ合わせることを意味しています。従って診査と治療は西洋医療と漢方で施されるのがこの病院の特徴です。私は、吉林に来た翌2009年秋に、当時北華大学外国語学院日本語学科長だった鉄先生の奥さんがこの医院の漢方医だったこともあり、奥さんの案内をいただき、この医院で一日だけ診療を受けたことがありました。

 その後、居住ビザ更新に必要な体格診査を受ける関係で、これまで3度来たことがありました。総じて医師と看護婦、検査技師の方々は上品でサービスは良く、私を日本人と知ると日本をほめる人が少なくなく、それは今回も同じでした。ただ、病院の設備に不足を感じました。トイレが少ないため患者によっては遠いことと、信じられないことに便座も椅子式になっておらず、大便はしゃがまなければならず、トイレが汚いのも気になりました。また車いすが少ないと感じました。医師はじめ職員の服装は清潔で、動きも無駄なく、話し方も表情も穏やかだったことに好感が持てました。

 私が入院中、休むことなく毎日患部に漢方治療してくれた30才過ぎであろう男性の陳医師は、二人きりになった時、自分がいかに日本に憧れを持っているか、日本に行きたいか語ってくれました。明るく穏やかな表情の40才代に見える女性の主任医師は、高校と大学時代ずっと日本語を学んできたのに使わなかったので忘れてしまった、と私や周りにいる先生達に笑いながら語っていました。

 退院後解ったことですが、この病院は蛇による受傷処置については東北三省では最も優れているようで、吉林市外はもとより吉林省以外の黒竜江省や遼寧省、内蒙古自治区からも患者が運ばれて来るようです。病院の建物は、吉林では大通りの一つの長春路に面して長く伸びた6階建てのビルと、そのビルに隣接して2棟の病棟があり、正面玄関には高さ3メートル以上の石造獅子像が仰々しく鎮座されていて他の病院と比較しても大きな病院であることが分かります。獅子像は政府関係、銀行、保険会社、ホテルなどの玄関口に設置されていて、威厳を誇っているのです。

●国際教育交流学院の先生による看病と世話

 入院当初から退院後3日まで、私は言葉で言い尽くせない助けを4人の先生から頂きました。
 唯一女性の蘇昕先生は2歳の女児がいる若いお母さんで、日本の大学を入学卒業した、関西弁なまりがありますが数少ない流暢に日本語を話せる職員です。2012年から2年間、私は彼女と共に日本へ留学希望の中国人青年に日本語指導をしたことがありました。現在彼女は日本語指導ではなく、日本を含め外国に留学を希望する学生対応の事務に特化しています。
 入院して絞り出した血を受ける洗面器やウェットティッシュ、水分補給の為のスイカやミネラルウォーター購入など、女性らしいやさしい気使いをしてくださいました。

 楊先生は陽気で話し好きな52才、北華大学(以前の吉林師範学院)の英語学科卒業後、母校に勤め始め、29才の時、1年半アメリカ留学を経験したそうです。外国人教師対応の事務を担当しています。彼と初対面の時に小学3年生だった息子はもう高校2年生になっていて来年は大学受験です。今回奥さんがロシアのウラジオストックに旅行中で不在だった2日間、病院に泊まってくださいました。彼の素人判断でする痛めた足をたたく行為が私には痛くて迷惑だったうえ、足治療に逆効果だったこともありましたが、もう笑い話です。

 病院との交渉や事務をすべて仕切ってくださいました石先生は30才前の漢語の先生。彼の父親(北華大学外国語学院の副学院長)が楊先生の同窓だったことから、楊先生に呼び出され2日間、病院に泊まってくださいました。石先生は春学期では私の漢語授業の担任ではありませんでしたが、担任の出張や休暇時に臨時で授業を3度程してもらったこともあり、彼と改めてゆっくり話ができ、私には有り難かったばかりか、17日は彼の両親(母親は英語教師から現在中高一貫校である吉林第二中学の校長)が見舞いに来て弁当を差し入れてくださいました。

 趙先生は2年前から韓国の大学に派遣されており、今回帰国直後から私のために最も長時間、何度も病院と自宅を訪問してくださいました。
 彼の専門は漢語指導ですが、当然、韓国語も英語も話せます。何といっても映画に詳しく、欧米作品と監督に詳しく、日本映画では小津安二郎、山田洋次監督作品を好まれ、極め付きは夫婦揃って「男はつらいよ!寅次郎」の大ファンです。これまで私が最も懇意にさせて頂いてきた先生です。住まいが徒歩10分ほどの距離で、退院後も治療の薬貼付、松葉杖の提供、スマホの充電器が壊れたための購入等生活面での支援もいただきました。

 他に夏休みで韓国から帰国したばかりの主任の黄先生なども見舞いにみえ、その時の私は3人の女性に囲まれ、ベッド回りは華やかになりました。なお入院後の5日目と6日目は、朝から夕方まで病院で血液検査と輸液をし、外出泊として夜は自宅で過ごしました。7日目の昼過ぎに、趙先生と共に蘇先生の車で退院した次第です。

 国際教育交流学院には漢語指導の先生は20人ほどいますが、現在5人の先生が韓国に派遣されています。8年前にも派遣はありましたが今は最も多くの先生が派遣されていて語学ばかりでなく事務の先生も国内研修や出張する機会は多いようです。不足する語学の先生は北華大学の文学院の先生や大学院の先生が助っ人しますので、欠課することはありませんし、長く在籍している私は文学院の先生とも交流も楽しむことが出来、有り難く感じています。何より中国人の先生が韓国に派遣され韓国人と交流し、朝鮮の文化に触れることは中韓両国にとっても良いことは言うまでもありません。

●退院後

 退院直後は未だ左足には腫れも痛みも残っておりましたが、日一日と快方に向っていきました。私は小学5年の時、虫垂炎手術のため入院して以来60数年、入院経験はありませんでしたが、今から13年前の3月末にバスケットボール競技中、右足アキレス腱を断裂したことがありました。その時は定年退職3年前だったことと、4月の人事異動で仕事を休みたくなかったので、手術を受けず時間のかかる自然治癒を選択し、入院することもありませんでした。ギブスで固定した自然治癒の闘病生活は半年以上に及ぶ長期間の忍耐とリハビリが必要でした。

 その時に比べれば今回の治癒は早く、楽な予後でありましょうが、両足の正しい姿勢と保持に向けたリハビリについては13年前とは医療環境に雲泥の差があります。吉林にはリハビリ治療医院などありません。従って、当時日本屈指のリハビリ病院(千葉県船橋市飯山満町)と評価されていた医院での体験を思い出しながら自己リハビリに取り掛かっています。幸い息子が病院勤務の理学療法士をしており、彼の意見を取り入れております。しかしこれまでのような戸外活動での登山がいつ頃から可能か現在見当がつきません。治りが遅ければ、始まりが早く長い冬の間のリハビリをどうするかと思案中であります。

●思いがけない再会

 退院後の8月、家にいたとき今年85歳の馬先生が訪ねて来て下さいました。彼は私の最年長の漢語教師です。文化大革命のさなか北京大学の学生時代に逮捕投獄され、長年の牢獄生活を経て北華大学の教師になられた方で、定年後も留学生の漢語指導の授業を週3日持っておられました。就職も遅く、結婚も遅く、漢語の大家でありながら博士号の取得もできず、大学では最後まで教授になっておりません。文化大革命の不条理は、馬先生からは命は奪わなかったものの人生を大きく狂わせ回り道をさせたのでした。しかし北京大学のエリートでしたから、当時、他の先生方は誰も一目置いていましたし、不思議なことに何故だか女性の留学生に人気がありました。以前先生からご恵送いただいた漢語の東北方言辞典や随想の本は先生の著作です。現在、先生は奥さんと息子の3人で北京に住んでいらっしゃいますが、夏の涼しい吉林で1ヶ月程過ごしておられる時、私の負傷を聞いて訪ねて来られたのでした。帰り際、君と会うのは5年振りだ、漢語が上手くなったなぁ、と言われたのは、先生からいただいた初のお褒めの言葉でありました。

 (中国・吉林市在住・吉林大学日本語教師)


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