【西村徹先生を偲ぶ】

追悼 西村徹様

高沢 英子


 三月はじめ、編集長の加藤宣幸様から思いがけない悲しいメールを頂き愕然としました。それは畏友西村徹様の訃報でした。

 西村さんは私と同郷の伊賀上野のご出身で、二十代の学生時代からの長いお識り合いでした。同郷で互いの生家がご近所同士でもあり、学生時代は文化サークルで文学談義などをするお仲間のひとりだった思い出に加え、思いがけなく大阪出身の私の夫と金沢の旧制第四高等学校での同年生、しかも級も同じ文乙だったという奇遇に恵まれ、共通の話題が多く、1985年に夫は亡くなりましたが、変わらず親しくお付き合いをさせて頂いていたのです。

 パソコンを使うようになってからは、よき先輩としてメールでいろいろ教えていただいたり、ときには故郷のことをほろ苦く回顧し、共通の友人知人の消息を交換したり、家族の消息を伝え合ったり、愉しく交流させていただく大切なお友達でした。

 そして十年前、娘の家族の転勤を機に上京したとき、オルタにご紹介下さり、寄稿するよう取り計らってくださったのも西村さんでした。ここ数年、体調がすぐれておられないこと、あれこれ厄介な病を抱えて、入退院を重ねておられることを伺って、案じていたのですが、お見舞いに行く機会も持てず、最近「横丁茶話」というユニークなコラムで健筆を振るっておられるのを拝読し、聡明な奥様始めご家族やお友達がお支えになり、すぐれた近代医療の力を賢く適用されつつ、乗り切っていらっしゃるのだと考え、まだまだお元気だと安心していたのでした。

 ところが、昨年暮れ12月号「幼稚な質問ですが」というタイトルで冒頭「私はただいま肺がん療養中である。水準の高いことを書ける状態ではない」と前置きされつつ書かれたエッセーで、肺がんという初めて聞く病名に、胸を衝かれました。

 短いながら鋭いコメントで、現今の安倍政権の独走ぶりを危惧し、原油価格の変動と日本の対処に気遣いされ、国の将来を心底憂慮されている内容で、病んで尚、国を思う気迫のこもった一文でした。衰えていらっしゃらないとは思ったのですが、しかし不安は拭いきれず、思い余ってお尋ねともお慰めともつかぬ一文を送りましたところ、すぐさまお返事が届きました。

—たしかにガン絶望という時代じゃないですね。
 ただ放射線治療の侵襲がきつくて52キロが39キロになり、筋力を失い階段を踏めず常によろめいている状態になります—。
 これは大変苦しいかもしれない、と胸騒ぎはしましたが、一時的な副作用かも、と言い聞かせ、年を越しました。思えばすでに卆寿に近く、実は非常に重篤だったのだ、と今更申し訳なく胸が詰まります。

 昨年4月には富田昌広様がこれも突然他界され、西村さんは心のこもった哀悼のことばを捧げられました。私もその少し前に「春には大平の桜を見に来てください」とお便りを頂いたばかりだったので、悲しく思いながら、西村さんの「富田さん さようなら」という一文を読んだのですが、その中に「富田さんより四年ばかり多く生きてしまった私は、先立っていった友人たちを羨ましく思う気持ちが、近ごろ日増しに強くなって来る気がしております」ということばが少々気になりました。

 さらに、どうせなら悪い時代を見ないですむのがいい、とか、いつものような軽いジョークと聞き流せない文が目に付きました。けれども追悼文は一転して場面が急展開し、旧制高校時代の下宿先の文学女給おケイさんが登場します。彼女が寄稿文に添えた一句
 —花吹雪 恋五十年の 行方かな—
は秀逸です。俳人であられた富田さんに捧げられたかのような、はんなりと粋な句であります。場面は再び一転し、今度は昭和18年10月発令の学徒出陣の話になります。白秋はいいときに死んだわ、とおケイさんは言うのです。

 北原白秋の死んだのは昭和17年11月2日「その後日本は音を立てて奈落の底に落ちてゆきました。昭和17年秋に死んだ白秋はさいわいそれを見ずに死んだというわけです」。というおちになります。「その後櫛の歯の抜けるように学生は駆り立てられていきました」と。私の夫もそのなかの一人でした。無事に生きて帰ったものの、腎臓を一つ失い、40名に満たないクラスからは10名の戦没者を出しています。

 こうして「おなじように富田さんも、あるいは禍々しく様変わりする日本の行く末を見ずにすんだかもしれません。合掌」と締めくくられます

 詩的な回想を鮮やかな展開でとりいれた優しい追悼の辞を幾度も読み返しました。若い頃から西村さんは話題の大変豊富な方で、しかも非常に聞き上手でもあられました。記憶のいいことでも抜群でした。質の高い感性と驚くばかりの該博な知識をお持ちでした。旺盛な知的好奇心と日本の現状を深く憂慮されての鋭い指摘。最後の最後まで真理への探究心は少しも衰えを見せず、知的で冷静に内なる魂を凝視された素晴らしい方でした。

 ともあれ「横丁茶話」には死との葛藤がたびたび描かれるようになりました。それは渾身の力を振り絞って書かれた「白鳥の歌」だったのだと今にして思います。

 9月号は「リルケ最後の詩—火刑台上の死」—それにしてもこのようにも孤独な、「確実に未来を購う」病いの苦痛を、このようにも美しい結晶体にまで昇華させる詩人の魂とはいかなる魂なのであろうか。—
 先日奥様は私に次のようなお便りをくださいました。胸打たれる思いと共に一部ご紹介することを許していただきたいと思います。
 「・・・13か月の間 死と向き合う日々はどれほど辛かったか 昨年の9月以降オルタに書いた彼の文章を読み返して 私の至らなさを涙と共に悔いております・・・」

 私はお慰めの言葉も見つかりませんでした。けれども至らないということは決して無かったと思います

 追悼といえば、悲しみの慟哭をもってお送りするべきでありましょうが、限りなく寂しいのに、なぜか、またすぐに会えるような暖かい余韻だけが胸に残り、いまだにお亡くなりになったということが現実と結びつかず、お元気な頃の温顔しか浮かんでまいりません。

 無頓着に振舞っておられるようで、実は限りなく繊細で誠実、些事にこだわらず飄々と振舞われて相手に負担をかけまいと気配りされながら、実は緻密な頭脳で杜撰さや誤りは忽ち見抜かれ、ちょっぴり苦い皮肉を込めながらも、決して裁かず、責めようとしないユーモアたっぷりの暖かい目線でくるまれた言辞。

 長い生涯を通じてどれほど教えられ、助けられ、慰めていただいたことか、貴重な先輩を失って呆然としておりますが、あなたがおっしゃるようによい時期に彼岸にお移りになったのなら、どうか安らかに下界を見下ろしつつ、ゆっくりお寛ぎくださいますよう。

 (筆者は東京都在住・エッセーイスト)


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