【オルタの視点】

A級戦犯分祀、「賊軍」合祀では靖国問題を解決できない

内田 雅敏


◆◆ 1.はじめに

 4月、靖國神社春の例大祭、10月、秋の例大祭、そして8月15日の敗戦記念日(「終戦」と呼ぶのが多いようだが)が近くなると、安倍首相、稲田防衛大臣らが靖國神社を参拝したくて身悶えしている。「追悼」とは本来、個人的な静謐な行為なはずなのに、国会議員たちが、みんなで参拝するなんとか団とか称して、集団で参拝する異様な光景も春、夏、秋の風物詩になっているようだ。後述するように、これではいつまでたってもアジアの人々からの信頼を得られない。

◆◆ 2.A級戦犯分祀と「賊軍」合祀

 世情、靖國神社参拝問題を巡っては、A級戦犯合祀の是非が中心となっている。それもA級戦犯が合祀されたままだと天皇の参拝が得られないからという内向きの論議でしかない。
 そこに今度は、西郷隆盛のようないわゆる「賊軍」の合祀運動という新たな(前からくすぶってはいたが)問題が加わった。合祀運動の中心人物の一人、亀井静香らが開設したホームページに以下のようにその趣旨を述べる。

 「我が国は古来より森羅万象全てに八百万の神が存在し、弱きものに寄り添う判官贔屓という心を育んだ、世界でも類を見ない寛容さを現代に至るまで連綿と引き継いできた国であることは間違いありません。
 神話の国譲りに始まり、菅原道真公を祀る天満宮や、将門首塚など我々日本人は歴史や文明の転換を担った敗者にも常に畏敬の念を持って祀ってきました。
 そのような中で西郷南洲や江藤新平、白虎隊、新選組などの賊軍と称された方々も、近代日本のために志を持って行動したことは、勝者・敗者の別なく認められるべきで、これらの諸霊が靖国神社に祀られていないことは誠に残念極まりないことです。
 ご承知とは存じますが現在も会津では長州人を嫌うといった官軍、賊軍のわだかまりは消えておりません。今日世界中が寛容さとは真逆の方向に突き進んでいることから、我が国の行く末も案じられてなりません。有史以来、日本人が育んできた魂の源流に今一度鑑み、未来に向けて憂いなき歴史を継いでいくためにも、靖国神社に過去の内戦においてお亡くなりになった全ての御霊を合祀願うよう申し出る次第です。」

 亀井静香は、2016年10月28日、石原慎太郎元都知事ら6名の呼びかけ人、中曽根康弘、村山富市、森喜朗ら元首相、衆院議長、国会議員、経済人ら多くの賛同者と共に靖國神社への申入れをしたという。これもまた内向きな論議だ。この考え方は後述する《靖國神社による戦死者の魂独占の虚構》に金縛りになっているものである。「賊軍」合祀がないだけでなく軍人・軍属以外の戦没者一般の合祀がなされていないことこそ問題なのである。

◆◆ 3.戊辰戦争は政見の異同のみとする原敬の気概

 「賊軍」合祀に関連しては、すでに1917(大正6)年、盛岡、報恩寺で行われた「戊辰戦争殉難者五十年祭」で、原敬が読んだ以下の祭文が興味深い。
 原敬が首相に就任する1年前のことである。

               祭文、
 同士相謀り旧南部藩戊辰戦役殉難者五十年祭本日を以て挙行せらる
 顧るに、昔日も亦今日の如く、誰か朝廷に弓を引く者あらんや。戊辰戦争は政見の異同のみ。当時、勝てば官軍負くれば賊との俗謡あり。其真相を語るものなり。今や国民聖明の沢に浴し、此事実天下に明らかなり。諸子以て瞑すべし。余偶々郷に在り、此の祭典に列するの栄を担ふ。乃ち赤誠を披瀝して諸子の霊に告ぐ。
                   大正6年9月8日
                             旧藩の一人 原 敬

 この「祭文」に、前記《靖國神社による戦死者の魂独占の虚構》に金縛りになることはなく靖國神社=「長州神社」何するものぞと云う気概を感じとるとしたら深読みであろうか。

◆◆ 4.靖國神社参拝問題の本質

 靖國神社参拝問題の本質は、A級戦犯合祀の是非、→分祀論、や「賊軍」合祀にあるのではない。靖國神社参拝問題の本質はA級戦犯の合祀にあるのでなく、A級戦犯合祀に象徴されるような靖國神社の聖戦史観にこそある。靖國神社発行の「やすくに大百科 私たちの靖國神社」は靖國神社に祀られている「神」について以下のように述べる。

 「日本の独立と日本を取り巻くアジアの平和を守ってゆくためには、悲しい事ですが、外国との戦いも何度かおこったのです。明治時代には、日清戦争、日露戦争、大正時代には、第一次世界大戦、昭和に入って、満州事変、支那事変、そして大東亜戦争第二次世界大戦が起こりました。(中略)戦争は本当に悲しい出来事ですが、日本の独立をしっかりと守り、平和な国家としてまわりのアジアの国々と共に栄えて行くためには戦わねばならなかったのです。こういう事変や戦争に尊い命をささげられた、たくさんの方々が靖国神社の神様として祀られています。……また、大東亜戦争が終わった時、戦争の責任を一身に背負って自ら命をたった方々もいます。さらに戦後、日本と戦った連合軍(アメリカ、イギリス、オランダ、中国など)の、形ばかりの裁判によって一方的に、“戦争犯罪人”という、ぬれぎぬを着せられ、むざんにも生命をたたれた1068人の方々、靖国神社ではこれらの方々を『昭和殉難者』とお呼びしていますが、すべて神様としてお祀りされています。」

 七十余年前の話ではない。現在の靖國神社の祭神の解説である。このような日本の近・現代における戦争はすべて「アジアの国々と共に栄えて行くための)やむを得ない正しい戦争であったとする歴史観、すなわち「聖戦」史観は、
○「政府の行為によって、再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」(1946年11月3日公布 日本国憲法前文)、
○「日本側は過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」(1972年9月29日 日中共同声明)、
○「戦争終結後、われわれ日本人は、超国家主義と軍国主義の跳梁を許し、世界の諸国民にも、また自国民にも多大な惨害をもたらしたこの戦争を厳しく反省しました」(1985年10月23日 中曽根首相の第40回国連総会演説)、
○「我が国は遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への途を歩み、国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略により、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対し多大な損害と苦痛を与えました、私は、未来に過ち無からしめんとするがゆえに、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここに改めて痛切な反省と心からのお詫びを表明いたします」(1995年8月15日 村山首相談話)
と真逆なものである。村山首相談話は、その後の橋本首相、小淵首相、小泉首相、福田首相ら歴代政権によって踏襲されてきており、日本の国際公約である[注]。

◆◆ 5.何故「聖戦」史観か

 何故、靖國神社は世界で通用しない「聖戦」史観に立脚しているのか。
 それは同神社の生い立ちと密接な関係がある。靖國神社は明治以降に作られた新しい神社である。それが他の先輩神社を凌駕する存在となっていたのは、同神社が《戦死者の魂独占》という虚構によって成り立ち、陸・海軍省の所管となる宗教的軍事施設であったからである。そこでは追悼よりも、戦死者を「護国の英霊」として顕彰することが主要な目的とされる。戦後、同神社は、陸・海軍省の所管を離れ、一宗教法人となったが、《戦死者の魂独占》の虚構、戦死者の顕彰は、そのまま維持されている。これには厚労省の「戦傷病者・戦没者遺族等援護法」の執行と靖國神社合祀を巡る不適切な関係が大きく影響している。
 戦死者の追悼=靖國神社、という図式に疑問が呈されなければならない。毎年、8月15日、戦没者の追悼は武道館で行われているが、この追悼式に中国、韓国らからの批判は無い。批判がなされるのは、「聖戦」史観に立脚した靖國神社での追悼、顕彰だからである。
 靖國神社は、世界で全く通用せず、日本の公式見解にも反する「聖戦」史観を何故、放棄できないのか。それは靖國神社の「生命線」である《戦死者の魂独占》の虚構と密接に結びついている。靖國神社は戦死者の魂を独占し戦死者を顕彰する施設である。顕彰するためには、戦死者を生み出した戦争が不義なものであってはならない。不義な戦争で亡くなった戦死者では顕彰することができない。
 《戦死者の魂独占》の虚構を維持するためには聖戦史観が不可欠となる。そして、《戦死者の魂独占》の虚構を維持するためには、一人の戦死者も逃がさない → 遺族の意向を無視した無断合祀が不可欠となる。それは徹底しており、かつての植民地支配下にあった台湾、韓国の戦死者に対して問題である。合祀を止めてくれという韓国、台湾の遺族の声を無視して、「護国の英霊」として日本名で祀ってしまっている。こんな無茶なことが許されていいはずがない。

 安倍首相は2014年5月30日、シンガポールで開かれたアジア安全保障会議(シャングリラ・ダイアローグ)で基調講演した。その中に以下のような一節がある。

 「国際社会の平和と安定に多くを負う国ならばこそ、日本は、もっと積極的に世界の平和に力を尽くしたい。積極的平和主義のバナーを掲げたい。自由と人権を愛し、法と秩序を重んじて、戦争を憎み、ひたぶるに、ただひたぶるに平和を希求する一本の道を、日本は一度としてぶれることなく、何世代にもわたって歩んできました。これからの幾世代も変わることなく歩んでゆきます。」

 一体どこの国の話だろうか。この歴史観は前述した靖國神社の特異な歴史観、すなわち「聖戦」史観そのものである。
 稲田防衛大臣も『WILL』2006年9月号で「靖國神社というのは不戦の誓いをするところでなくて、〈祖国に何かあれば後に続きます〉と誓うところでないといけないんです」と述べている。この靖國神社観は正しい。

[注] 安倍首相が本音では村山首相談話を否定したかったにもかかわらず、内外の批判、とりわけ米国の批判に抗しきれなかった。結局、戦後70年談話は、村山首相談話におけるキーワード、「侵略と植民地支配」、「痛切な反省」、「心からのお詫び」を入れたわけの分からない無様なものとなった。
 安倍晋三は麻生内閣の時代、一衆議院議員として『正論』2009年2月号の対談で、以下のように述べる。

 「自民党が野党に転落するまでは、どの首相も侵略という言葉を使っていない。竹下さんも踏みとどまっていた。ところが村山談話以降、政権が代わるたびにその継承を迫られるようになった、まさに踏み絵だ。
 だから私は村山談話に換わる安倍談話を出そうとしていた。
 村山さんの個人的な歴史観に日本がいつまでも縛られることはない。
 その時々の首相が必要に応じて独自の談話をだせるようにすればいいと考えていた。むろん、村山談話があまりにも一方的なので、もう少しバランスのとれたものにしたいという思いがあった。ところが、とんでもない落とし穴が待っていた。平成十年、中国の江沢民国家主席が訪日した際の日中共同宣言に『(日本側は)1995年8月15日の内閣総理大臣談話(村山談話)を遵守し、過去の一時期の中国への侵略によって中国国民に多大な災難と損害を与えた責任を痛感し・・・』という文言が盛り込まれていたのです。この共同宣言、53年の日中平和友好条約についで中国が重視していますから、日本が一方的に反古にすることは国際信義上出来なかったのです。しかし、『政治が歴史認識を確定させてはならない。歴史の分析は歴史家の役割だ』と国会で答弁した。野党からは『それでは村山談話の継承とはいえない』と批判されましたが、戦後レジームからの脱却がいかに困難であるか、改めて実感しました」

 日中共同宣言において村山首相談話の遵守が謳われているので、村山首相談話の否定は日中共同宣言の否定になってしまうから出来ないという奇妙な弁明なのである。

 (弁護士)


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