風と土のカルテ(6)

IYCによせて (IYC:International Year of Cooperative)

色平 哲郎


「人々の中へ」 Go to the people

人々の中へ行き
人々と共に住み
人々を愛し
人々から学びなさい
人々が知っていることから始め
人々が持っているものの上に築きなさい

しかし、本当にすぐれた指導者が
仕事をしたときには
その仕事が完成したとき
人々はこう言うでしょう
「我々がこれをやったのだ」と

          ————晏陽初————

「出会い」は、私にとって人生のエネルギー源だ。
出会いがなければ医療の現場には入っていなかったかもしれない。
あれは、1988年のことだった。
医学生なのに医学界の権威主義になじめず、医師になるかどうかも
決めかねて、国内外を放浪していた。
フィリピンのマニラで、友人から「レイテに面白い医学校があるよ」
と聞き、島へ渡った。
レイテ島は太平洋戦争末期、日米両軍の激戦地となった場所である。

小さなバスに乗り、熱帯の花々が咲く道路から脇道に入ると、
その学校「フィリピン国立大学医学部レイテ校(SHS)」があった。
高床式のお寺のような校舎は、地域の保健センターを兼ねていた。
学生は白衣を着ていない。
日本の医学校からは想像もつかない開放的な空間だった。

ここで、生涯の友となり、兄貴分となるスマナ・バルア医師
(愛称バブさん)と出会った。
バングラデシュ出身のバブさんも医師を目ざしていたが、
同じ医学生なのに学び方が水と油ほど違っていた。
彼は、村のなかに入って、助産師として200人以上の赤ん坊を取り上げ、
看護師の経験を積み、問診や投薬もしていた。
実習が、そのままケアであり、医療行為だった。

その内容が全然わからなかった。
頭をガツンと殴られたようなショックを受けた。
医学知識も大事だが、まずは、「人間が、人間として、
人間のお世話をすること」が医療の原点だと思った。

ちなみに、冒頭の「人々の中へ」は、中国の教育者、晏陽初
(あんようしょ、1893−1990)の詩である。
バブさんが紹介したもので、“口伝”と言ってもよい
(出典は確定できていないので、ご存じの方はご教示願いたい)。
レイテの医学校は、この詩に書いてあるとおりだった。

バブさんに「日本には若月俊一先生が育てた佐久総合病院があるじゃないか。
SHSは若月先生の考え方に共鳴してできた学校だよ。
地域の医療を学びたれば、佐久病院に行けばいい」と教えられた。
そして、気がつけば佐久病院の職員になっていた。

バブさんは、現在、WHO(世界保健機関)の感染症担当医務官
として世界各国を飛び回る。
毎年、来日しては日本の医学生に「金持ちより心持ち」と、
人をお世話する心がまえを説いている。

レイテでの衝撃から二十数年、たしかに医療技術は長足の進歩
を遂げたが、人が人のお世話をする医療の根っこは細くなっている
ような気がしてならない。
自分自身の反省もこめて、たとえば「使命感」。
このモチベーションが薄れかけているのではなかろうか。

静岡県島田市に、地域の医療を担いながら、母国アフガニスタン
の支援に情熱を注ぐレシャード・カレッド医師がいる。

1969年、19歳で来日したレシャードさんは、苦学の末、
医師国家試験(もちろん日本語!)に合格、勤務医を経て医院を開設。
いち早く在宅医療を手がけ、いまでは介護老人保健施設や
特別養護老人ホームも運営する。
島田市の医師会長まで務めていたのだから、いかに日本社会にとけ
こんでいるかお分かりいただけるだろう。

一方で、レシャード医師は、アフガニスタン支援NGO「カレーズの会」
を拠点として、砲弾が飛び交う祖国にたびたび戻り、患者さんを診ている。
至近距離で地雷の爆発や自爆テロに遭遇したのは一度や二度ではない。
胸のなかには「医者として、黙ってみていられない」という強烈な使命感がある。

多くの日本人医師は、レシャード医師のような過酷な体験をしておらず、
偏差値主義の競争社会しか知らない。
経験の幅が狭いから、使命感のもとになる他者への共感が育ちにくいといわれる。
だとすれば、他人への思いやり、「お互いさま」「おかげさまで」
といった気持ちを育むにはどうすればよいのだろうか?

やっぱり、出会いだ。
経験不足は出会いで補う。
とりわけ異分野の人との出会いは、医師が自らの世間を広げるうえでも貴重だう。

福島県南相馬市の桜井勝延市長と出会ったのは、10年ほど前。
環境保護関係のシンポジウム会場で、だった。
当時桜井さんは産業廃棄物最終処分場の建設に反対する市会議員だった。
お互い学生時代にシベリア鉄道を旅したこともあって意気投合、
講演にもお招きいただいた。

東日本大震災の発生後、南相馬市は、地震、津波に原発事故で
瞬く間に「孤立」した。
原発の爆発で市民が一斉に避難を開始、
7万人の人口が1万人をきりそうなところまで減少。
と、ともに外部世界から食料や医薬品、生活物資、ガソリンが入らなくなった。

桜井さんから「市が孤立している。まるで兵糧攻めにあっているようだ」
と電話連絡が入り、インターネットや個人的ネットワークを駆使して、
微力ながら、その状況を各方面に伝えた。
まさか親友があのような大災害と原発事故に巻き込まれようとは
夢にも思わなかったが、災害への「備え」の重要さと脆さ
を改めて思い知らされた。

いや、過去形ではなく、福島は、いまもまだ医療の再生途上にある。
ふだんは空気のように当たり前になっている医療も、緊急時には一変する。
医療は、いつも社会とつながっていて、
「しくみ」と歴史によって支えられているからだ。
大震災は、そのことを痛切に訴えかけてきた。
常々、医療をとりまく、政治、経済、社会心理などを知っておくことは大切だ。

さまざまな人々との出会いを通じて、私なりに医療と、その周辺での
できごとを中心に「心に留めておきたい」と感じたことを
日経メディカルブログ「医のふるさと」に連載している。
医療と世のなかのかかわりを考える手がかりにしていただければ幸いだ。

 (筆者はJA長野厚生連・佐久総合病院 地域医療部医師)
  http://irohira.web.fc2.com/c93_Publishing.htm


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