≪連載≫

■ 落穂拾記(5) 羽原 清雅

  ~「藪の中」の自殺騒動~
───────────────────────────────────
90年前の騒ぎである。古い縮刷版で調べものをしていると、長々と続く記事が
出ていた。原稿締切の忙しいときに限って、ムダな方に関心が行く。急がなくて
はいけないとわかっていたが、つい脇道に遊び、デスクに怒られた。そんなこと
で、一度取り上げてみたかったのが、この「藪の中」の自殺騒ぎである。

この内情を見ていくと、西鶴なら飛びついて筆を執るだろうし、また紅葉なら
「金色夜叉」以上の力作をものしたに違いない。この筋立てはそれほど人情もの
としての要件を備えていたのだ。

ときは大正10年。この1921年といえば第一次世界大戦に勝った直後ながら、す
ぐシベリアに出兵し、米騒動が起き(1918)、戦後の不況で小作、労働争議に加
えて普選運動が高まろうとし(1919)、この年には原敬首相が暗殺される一方、
全国水平社、日本農民組合、非合法共産党が生まれている(1922)。翌23年に関
東大震災、25年には治安維持法と普選法が同時に公布された。いわば官と民、富
と貧、武力と協和、権力と反権力といった十字路に差し掛かった時代だった。こ
の話題も、新旧思想、新旧時代の交差する時代の難しさがあった。

大正10年6月17日。浜田栄子(18歳)が身ごもりながら殺鼠剤を飲んで自殺す
る。当時の東京朝日新聞を見ると、約2週間にわたって5本の雑報記事、7本の連
載物が掲載された。旬刊朝日、サンデー毎日の発刊は翌1922年だから、まさに週
刊誌のない時代に、社会問題化して、さまざまな関心を呼んだのだ。

じつはこの栄子の父・浜田玄達(1854-1915)は、日本の産婦人科学界の始祖
で、初めて産婆養成所を設立し、日本産婦人科学会を創設した人物で、栄子はそ
の長女だった。著名人の娘の自害、というだけでもメディアはとびつくが、その
舞台がまた複雑だった。

まず栄子は、お茶の水付属小学校のころ、明治天皇夫人である昭憲皇太后の前
で講演し、同女学校を卒業した才女だった。
恋をした相手の男性は、母捨子(ステとも)の甥の野口亮(30歳)で、浜田家
から早大商科に通い、その後卒業して1年間の志願兵を務めたあと、また浜田家
に戻ってきた。記事によると、病気がちの母だけの家庭のせいもあって寂しく、
話し相手だった亮を慕う気持ちが次第に高まっていったという。

 亮は相場で稼ぎ一家を成すと、栄子は家出をし、同棲に至る。
最初に生まれた長男「寛」はわずか2日で亡くなる。 
さらに複雑なのは、栄子の兄で長男の浜田捷彦(34歳)は慶応大卒業後に、
「放蕩」のうえ、新橋の芸妓音子と結婚、栄子自殺のころはふたりで渡米中、と
いう事情があった。すでに玄達は鬼籍に入っており、多額の遺産は元代議士で弁
護士尾越辰雄の管理下にあって、この「放蕩」から捷彦は廃嫡の扱いを受け、一
時ながら相続権を失っていた。

では、母親捨子のポジションはどうだったのか。
夫玄達の名を汚すことなく、経営する病院、駿河台の豪邸と土地など30数万円
以上という遺産を守ることが未亡人の任務だっただろう。また、長男の不祥事
(?)に続き、長女までも望ましくない結婚になりそうで、頭を痛めていたに違
いない。

それに、新聞によると、「強度のノイローゼ症に罹り」「(栄子への)母刀自
のヒステリックな怒罵の声」「栄子が人目耻しい懐胎の身を(実家に)運んで初
めて身二つになる時の迫って居る事を母堂に打ち明けやうとした時、母堂は只黙
って娘の身体見た丈ですげなくも其場を外して外出」などとある。これらの表現
はオーバーだとしても、かつての日本の倫理観からするとありうることだっただ
ろう。

従って、母親は最期までこの結婚には反対だった。反対の陰には、財産管理の
弁護士尾越がいたようだ。長男の廃嫡により、相続権は栄子にあり、法的には栄
子の正規の結婚相手が野口ということになれば、遺産はそちらに行く。玄達の遺
言通りにいかなければ尾越の立場はない、といった事情もあっただろう。

栄子と野口の結婚を阻止しようとする障害はほかにもあった。
栄子をほかの優秀な男性を養子として迎え、結婚させようとの動きがそのひと
つ。その相手は、父玄達と同郷・同世代で、いまの東大医学部、ドイツ留学、東
大医学部教授と同じ道を進んだ緒方正規の二男益雄(1891-1976、岡山医大教授
などに務め衛生学の泰斗)だった。この話は栄子が「医者はいや」と拒絶して立
ち消えになった。また、野口のほうも軍隊を離れたころ、郷里である熊本で結婚
話が持ち上がったが、野口は栄子のもとに戻っている。

また、身重になった栄子を某医学士の養女として結婚するという案も出たが、
これも栄子は「堂々と浜田栄子として野口家に嫁ぐ」と言ってつぶれた。「法律
上の自由結婚ではどうか」という弁護士の案も消えた。

さらに、「野口がひとり渡米する」という案には、栄子が「二人なら」と言っ
て実らなかった。滞米中の兄・捷彦は尾越弁護士宛に手紙を送り、これは朝日新
聞に「恋に狂へる妹へ」の見出しで紹介されている。これによると、二人の同棲
は「栄子に毒薬を飲ますも同様」とし、さらに「栄子を宅に置き三箇年計り野口
の行為を見て、もし彼が人格を得し事を証明せしなら、其暁に立派に渡す」と一
時的離別の提案をしている。

 その意味は、「底の知れぬ野口の心中」「栄子の恋は本当に目の恋には無之と
信じ候」とあり、さらに「栄子が生活に困れば野口の心中もわかり、詫びてくる
から一切の援助を断つべきだ、というものだった。

栄子自殺のあと、事態はますます「藪の中」に入り込む。浜田家の後見役であ
る捨子未亡人の義兄である熊本県会議長、玄達の弟子である京都の医師ふたりが
登場する。この弟子たちは、大いにしゃべるのだ。文脈からすると、尾越弁護士
からの受け売りとも考えられる。

・栄子の結婚を認めるが、しばらく渡米させて「貴婦人に仕上げた上で野口と
正式に結婚させやう」とした。栄子は大いに喜び、渡米時の洋装をどこで仕立て
るかなどと喜んだ。だが、野口は「絶対に之を押止めた。従って若く恋に酔って
居る栄子は忽ち渡米の意志を翻して了ひ我我の苦心は蹂躙された」。しかも、野
口とふたりでの渡米を勧めても、野口は一蹴した。

・栄子が死ぬ前日、野口からなんども電話があった。
栄子は「『まだですの・・・』其度毎に栄子の答へはまだ財産の話が纏まらぬと
言う泣く様な声だった」。

・「栄子の頭脳は真に天才的異常の発達をして居た」。「実に其増長し切った、
僭越至極な態度は吾々も憎み度いイヤ憐みたい位だった。栄子は全く浜田家の女
王気取りで居た。未亡人等は木っ葉とも思はない」

これに対して、翌日の朝日新聞には、野口亮が「事実を捏造」と強い口調で反
論を寄稿している。

・両医師の談話は捏造である。栄子が渡米に乗り気、洋服をどこで仕立て、野
口が渡米押し止め、などは非常なる事実相違だ。「尾越氏は栄子に5、6年間渡米
せよと勧め、・・・私は異存なしと答へたが、栄子は一言の下に渡米の勇気なし
とて拒絶した」。その後、栄子はふたりならいい、といったが、尾越氏曰く「二
人連れの渡米は許可せぬ」。

・栄子が財産分与を強要したと言うが、「是れ亦大なる虚構の事実。死人に口
なしとは言え余りに非礼である。浜田未亡人は川島氏(栄子側弁護士)と栄子は
財産の事は一言隻語も発しなかったと言ふではないか。・・・私も意地ある九州
男子である、他人の財産に目がくれる様な卑劣な心は毛頭ない」。「30万円云々
の如き是れ亦架空の説で只々財産と私とも連結して私を窮地に陥れんとする術策
に外ならない」。

・栄子の最後の電話についても、3日も帰らないので、帰宅を促した。手紙を
書いた、というので、確かめたら、出さなかった、という。

・「栄子が入籍を急いだのは離間策に対抗するためと、今度のお産の時精神的
慰安を得んが為めである。正式結婚を来年捷彦が帰朝する迄延ばせと言へば如何
に馬鹿でも栄子は必ず待つに違いない。栄子は死する間際まで親の慈愛といふこ
とを知らなかった」。

なにが真実だったのか。これは当事者であっても、相手の胸のうちはわかるま
い。ただ、栄子と野口の気持ちのほうに理があるように思われるのだが、巨額の
財産に対する俗世の思惑、それに当時の倫理観がからむと、きわめて複雑だ。

栄子は18歳。野口に残したその遺書には
「私は遂に最後の手段を採りました。私は死にます。・・・私は何と言ふ不幸
な女でせう又貴方も何と言ふ不幸な男でせう。併し考へて見れば三年と言ふもの
貴方から随分愛されて暮した事は幸福でした。母が最少し理解に富んでゐた人で
したら私等は此の様な不幸を見る事は決して無かった事と信じます。

併し子として親を怨む事は出来ません。・・・後に残った貴方はどうぞ紳士とし
ての立派に行くべき道に従ってください。・・・私は貴方が男らしい復讐が立派
に出来る事と貞淑が求められ楽しい家庭を得られる事を神様に祈ります」
とあった。90年前の悲劇である。野口亮のその後はわかっていない。

      (元朝日新聞政治部長・平成帝京大学教授)

                                                    目次へ