■宗教・民族から見た同時代世界

~スリランカ内戦は政府軍の勝利で終わったが…~    荒木 重雄

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  25年の長きにわたって7万人を超える死者を出したスリランカの民族紛争が終
結した。政府軍の攻勢ですべての支配地域を失った少数派タミル人の反政府武装
組織タミル・イーラム解放の虎(LTTE)は、北部の密林の一角に追い詰められ、
そこで20万人近い住民を「人間の盾」に立て籠もったが、4月以降、そこも政府
軍の攻撃に曝されて、最後の抵抗もむなしく「敗北」を宣言するも、政府軍は攻
撃の手を緩めず、5月18日、ついに、プラバカラン議長ら幹部を含む多数のLTTE
戦闘員が殺害されて結末を迎えた。


◇◇停戦、そして再び戦闘


  思えば長い紛争であった。
「インド洋の楽園」と呼ばれ、また、整った福祉制度から「第三世界の優等生」
とも評されたスリランカであったが、そこで人口の約70%を占めるシンハラ人と
20%弱の少数派タミル人との対立が深まったのは1970年代の後半からである。少
数派タミル人はLTTEを結成し、タミル人の多く住む北東部2州の分離独立を主張
して、83年から政府軍と内戦状態に入った。2002年に一旦は停戦が合意されたも
のの、和平交渉はすすまず、05年に強硬派のラジャパクサ大統領が就任すると翌
年から再び戦闘が激化し、08年1月には政府側が停戦を破棄して軍事攻勢を強め、
今日の事態に至ったのである。


◇◇83年に何が起こったのか


  9.11以降の「対テロ戦争」で醸された雰囲気のなかで、民族紛争ではなく「テ
ロリストとの戦い」とするスリランカ政府の主張を鵜呑みにした報道機関によっ
て、「スリランカでは70年代、多数派シンハラ人に対するタミル人の分離独立運
動が始まり、83年ごろから政府軍とLTTEの内戦に発展。これまでに7万人以上が
死亡した」などと表面的に伝えられがちなスリランカ内戦であったが、その原因
や真相は何であるのか、83年にいったい何が起ったのだろうか。

 多数派のシンハラ人とはシンハラ語を母語とし多くが仏教徒である。少数派タ
ミル人はタミル語を母語としてヒンドゥー教徒が多数を占める。このような違い
があるものの、ともに紀元前からの長い歴史をつうじてインドから渡来してきた
人たちで、定着の過程で、あるグループは仏教に改宗してシンハラ化し、他のグ
ループはヒンドゥーにとどまった、それだけのことである。
ところが19世紀後半、英国植民地支配下でキリスト教の普及がすすむなか、これ
に反発して仏教やヒンドゥー教の復興運動が起こり、これがシンハラ人意識、タ
ミル人意識の形成へと繋がり、ひいては互いの差別・対立感情を醸していった。

 1948年に独立した後のスリランカでは、ともにシンハラ人エリート層の利益を
代表する統一国民党とスリランカ自由党が覇を競い合うが、バンダラナヤカ率い
るスリランカ自由党は、56年の選挙で、多数派のシンハラ人意識におもねた「シ
ンハラ仏教ナショナリズム」を掲げて勝利すると、さらなる大衆迎合路線を展開
して、シンハラ語の公用語化と仏教の国教化を押しすすめ、大学入学にもシンハ
ラ人優遇制度を盛り込んだ。
 
これはシンハラ大衆の支持を受けて同党の政治基盤を確実にしたが、他方、タ
ミル語話者でヒンドゥー教徒のタミル人には社会的存在そのものを脅かされる事
態となった。さらにタミル人地域の北東部へのシンハラ農民入植が政府の手によ
ってすすめられ、タミル人はますます追い詰められることとなった。
 
  こうして険悪になりつつあった民族対立を決定的にしたのが、83年7月の宗教
暴動であった。これは、タミル人女学生を暴行したシンハラ人兵士が報復で殺害
された事件をきっかけに起こった、コロンボ市内でのシンハラ人によるタミル人
大量虐殺である。シンハラ人たちはタミル人の住居や店、工場を手当たりしだい
に襲い、破壊し、略奪し、女性を犯し、無差別に殺戮した。一説では4000人もの
タミル人が命を奪われ、10万人を超えるタミル人が家を失って難民となった。

 この暴動で目につくことは、与党傘下の労働組合を中心に暴力行為が組織的に
行われたこと、軍や警察も直接・間接に虐殺に関与したこと、そしてさらに、多
くの仏教僧が先頭に立って大衆を煽動していたことである。
「タミル人は仏教徒ではない、すなわち人間ではない。だから仏教徒が彼らを殺
しても悪行ではない」。仏教僧の口々からそんな言葉が叫ばれた。 
 
  不殺生(アヒンサー)を標榜する仏教社会でなぜこのような殺戮が起こるのか
。その根底にあるのは宗教のナショナリズム化にほかなるまい。「シンハラ仏教
ナショナリズム」、すなわち、シンハラ民族こそがこの国の主人公で、仏陀の法
を遵守する選ばれた民であるとの観念である。
 
崇高なる民族と宗教を守れ!!
このような観念は、社会が閉塞し不安や不満が鬱積したとき容易に他者排斥に働
き、また政治家もこれを利用する。83年暴動は、折からの経済自由化政策で貧富
の格差が拡大し、その大衆の不満がタミル人排除に向けられたことが指摘され、
また、暴動の組織的な展開や暴徒たちのなかに閣僚の姿が認められたことなどか
ら、政府関与も疑われている。

 シンハラ・タミル両民族はこの事件を契機に本格的な内戦に突入し、今日に至
った。


◇◇「仏教徒が彼らを殺しても」


  「○○は人間ではない。だから仏教徒が彼らを殺しても悪行ではない」。これ
は同じ仏教国タイでも仏教僧の口から発せられた言葉である。その対象は民主化
運動の学生や市民であった。

1973年、タイで、学生・市民の運動が多数の犠牲者を出しながら腐敗したタノ
ム=プラパート軍事独裁政権を打倒し、民主体制を樹立した一時期があった。そ
のあいだ、軍部や右派勢力と結びついて露骨に民主体制転覆を策した僧たちがい
た。彼らは、タイの伝統的国体原理である、民族・仏教・国王の三要素からな
る「ラックタイ」原理を損なおうとするすべての勢力と戦うことが仏教徒の務
めであるとして、「共産主義者は人間ではない。だから仏教徒が彼らを殺して
も悪行ではない」との説法を繰り返していたのである。
 
76年、国外亡命していたプラパート元陸軍司令官とタノム元首相は仏教僧の姿
で帰国する。やがて同年10月、学生たちが集会で演じた寸劇が王室を侮辱したと
の口実で軍・警察・右派組織がタマサート大学を取り囲み、「血の水曜日事件」
として記憶されるタイ現代史上もっとも残虐なしかたで民主化運動を壊滅させた
のであった。


◇◇住民は「解放」されたのか


  スリランカの現状に戻ろう。
  LTTE殲滅を祝して、政府は各機関に国旗の掲揚を指示し、コロンボ市内には歓
喜の声と爆竹の音が響き渡ったという。
  シンハラ人の興奮をよそに、不安を強めているのがタミル人である。彼らは、
政府側の軍事的勝利が「シンハラ仏教ナショナリズム」にさらに過剰な自信を与
えることを懸念している。「プラバカランは死んだが、タミル人の大義までが死
んだわけではない。タミル人の文化やアイデンティティーが存亡の危機にあるこ
の国の民族・宗教差別が解消されないかぎり、問題の解決はない」というのが、
彼らの偽らざる心情であろう。
 
さしあたり懸念されるのは、政府側や報道機関が「『人間の盾』から『解放』
された」とする、最後までLTTEと行動をともにしたタミル住民たちの処遇である
。先に赤十字国際委員会は彼らの6割が負傷者であると明かしていたが、「安全
のため」と政府軍によってキャンプに収容された彼らには、タミル人であるうえ
、そのなかにLTTE関係者やその家族もいるはずと厳しい視線が注がれている。

               (筆者は社会環境フオーラム21代表)

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