■ 宗教・民族から見た同時代世界         荒木 重雄

~フィリピン民衆の情念を映すカトリック~

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  この日は、天国の扉が開いて、死者たちの霊が地上を徘徊し、故郷や家に戻っ
てくる。人びとは早朝、墓地に行って、草を刈り墓石を洗い清め、午後には墓地
でミサが催され、司祭は、依頼された墓の前で死者の霊に祝別をする。普段は離
れて暮らしている人たちも帰省して家族揃って墓参りに出かけ、墓のまわりでご
馳走を広げて団欒する。
  この情景から「ミサ」や「司祭」の言葉を少し替えればそのまま私たちが馴染
んだお盆の情景になる。じつはこれは、カトリック教会暦の11月1日・万聖節、2
日・万霊節のフィリピン版、ウンドラス(死者の霊の日)の情景である。


◇◇土着化したカトリック


  16世紀半ば以来、19世紀末にアメリカに統治権が譲渡されるまで、300年余り
に亙ってスペインに植民地支配されたフィリピンでは、人口の85%がカトリック
教徒である。しかし、カトリックはいわゆる普遍宗教のなかでも組織・教義・儀
礼とも世界規模でもっとも整備・統一された宗教であるにもかかわらず、さきの
一例にもみるようにフィリピンのカトリックはいささか風変わりである。ラテン
・アメリカと並んでこの土着性の強いカトリックはフォーク・カトリシズムとよ
ばれている。
 
  フィリピンのカトリックが独特な要因のひとつは、それが、東南アジアに特有
の精霊信仰の世界観のうえに成り立っていることである。たとえば、フィリピン
各地にはサマハンとよばれるカトリックの信徒組織(講)がある。ところがこれ
はシャーマン(巫者)を中心に結成されているのである。シャーマンは多くの場
合、女性で、憑く霊もカトリックの国だけあって、聖母マリアや聖リタの霊とな
る。とりわけサント・ニーニョ(幼きイエズス)の霊の人気が高い。
 
  サマハンの集会は、普通の民家の礼拝所で催される。信徒がギターの伴奏でサ
ント・ニーニョに捧げる歌をうたうなか、シャーマンの女性が突如、神がかりに
なり、サント・ニーニョの霊の言葉を語りだすのである。
  サント・ニーニョの霊は、信仰や信徒の務め、終末の日の予言など、聖なるメ
ッセージを伝えた後、信者の個人的な問題や悩みの相談にのり、豊かな実りがあ
るよう稲の苗に祝別し、さらに病気治しも行う。治療は、患者に取り憑いた霊と
の対話から原因をつきとめ、患者に触れたり、息を吹きかけたり、呪文を唱えた
りして、悪霊なら追い出してやり、善霊が懲らしめのために憑いているならなだ
めてやる。
 
やがてサント・ニーニョの霊は次にくる日を約して去る。シャーマンの女性は
ばったり倒れ、信徒の女性たちの介護を受けて常態に戻る。
 
  イエズスの霊が巫者に宿るなど、正統的なカトリックからみれば到底容認でき
ないところであろう。しかし多くの人びとがこのサマハンの活動によって救いを
得、カトリックの信仰に結ばれているのである。


◇◇歴史を映す受難への感情移入 


  「聖像コンプレックス」といわれるほどの聖像にたいする思い入れも、フィリ
ピンの特異性のひとつである。聖金曜日や復活祭、フィエスタとよばれる町の守
護聖人の祭りには、等身大の「十字架上のキリスト像」や聖母マリア像、聖ペテ
ロ像、聖ベロニカ像などの聖像が、山車に載せられ、楽隊の伴奏つきで華やかに
町中をパレードする。これらの聖像は、普段は、裕福な信徒の家の寝室などに安
置され、家族の一員のように丁重に扱われている。これも、カトリック布教以前
の信仰体系にあった、人びとの願いを叶える精霊の役割が、カトリックの諸聖人
に引き継がれ、その聖像に移されたものと考えられている。
 
  フィリピンのカトリックのもうひとつの特徴は、キリストが「幼きイエズス」
か、十字架上で受難の死を遂げるキリストという形で受け容れられていて、福音
を宣べ伝える説教者キリストのイメージがほとんど欠落し、とりわけ受難への感
情移入が強烈なことである。

 年中行事のなかでももっとも盛大、かつ心を込めて行われるのが、ここでは、
キリストの受難と死に思いを馳せる復活祭前6週間半の四旬節である。四旬節の
間、信徒たちは仲間の家に集まって、パションとよばれるキリストの受難物語を
、独特の節回しで夜を徹して詠唱する。
  同じ時期、セナクロ(受難劇)の上演も盛んである。これはパションをもとに
イエズスの受難を歌劇として再現するもので、町の人たちがそれぞれの役に扮し
て演ずるほか、旅回りの専門劇団もあり、テレビでも豪華なセナクロが放映され
る。
 
  そしていよいよ聖金曜日。町にはペニテンテと呼ばれる、裸の背や手足をナイ
フや尖った竹片・貝殻などで自ら傷つけ血を流しながら歩く男たちが現れる。痛
みからキリストの受難を追体験しようとするのである。教会では、扉を閉ざし電
灯を消した暗い堂内でキリストの「最後の七つの言葉」の朗唱がはじまる。7人
の男が順番に十字架上のキリスト像の前に立って、イエズスの最後の言葉と付随
する祈りを捧げる。朗唱者は感情の昂ぶりで涙声になる。朗唱に合わせてドラム
が響き、最後の朗唱が終わると、十字架上のキリストのそこだけスポットライト
が当てられた顔の部分が、うなだれるように傾く。会衆は興奮のあまり泣きだし
卒倒するものもあらわれる。聖像の行列が市街に繰り出される。
 
  キリストの受難に民族の苦難の歴史を重ねているとみるのは筆者の憶測に過ぎ
ないだろうか。ともあれ、教義や組織だけでなく民衆の情念からみるとき、宗教
はまた別の側面をみせるのである。
        (筆者は社会環境フオーラム21代表)

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