■ 宗教・民族から見た同時代世界              荒木 重雄

~欧米が制裁解除の条件とするミャンマーの少数民族問題とはなにか~

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  半世紀に及ぶ軍事独裁政治の後、軍主導の総選挙をへて成立したテインセイン
新政権が、アウンサンスーチー氏との対話やメディア規制の緩和を始めてから半
年。1月半ばにはついに、欧米諸国が経済制裁解除の前提としてきた政治犯の釈
放と少数民族との対話・停戦に踏み切った。 

 釈放された多数の政治犯には、最大野党・国民民主連盟(NLD)の幹部をは
じめ、民主化運動が高まった1988年当時の学生運動のリーダー、07年の運
動で先頭に立った僧侶、少数民族政党の代表者などがいた。
 
  一方、少数民族との対話では、数千の戦闘員を擁し、最も長く最も頑強に、1
949年から独立闘争を続けてきたカレン民族同盟(KNU)との停戦にこぎつ
けた。
 
  新政権は昨年3月の発足以来、少数民族武装勢力約10組織と和平交渉を進
め、これまでにワ州連合軍、南部シャン軍など5勢力と停戦合意に至ったが、最
大級の武装勢力・カレン民族同盟と合意に達したことで、カチン独立軍など他勢
力との交渉にも弾みがつくとみられている。

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◇◇民族対立はいつ、どこから
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 独立以来のビルマ(ミャンマー)の政治と社会にたえず不安定要因をもたらし
つづけ、そのために長年の軍事政権の居坐りを許し、欧米から非難されつづけ、
テインセイン政権が掲げる「国民和解」の実現に不可欠の課題である少数民族問
題とは、そもそも、いったい何であろうか。

 ミャンマーの人口の約70%は、殆どが仏教徒のビルマ族であるが、かれらは
国土の中央、イラワジ川流域の平地を占め、その周囲を囲む山地には人口のほぼ
25%に当たるさまざまな少数民族が、精霊崇拝に加えて仏教、キリスト教、イ
スラム教などを信奉して居住している。

 全体で135民族ともいわれるが、主な民族は、居住地(州)にそって西から
時計回りでみると、インドと国境を接する地域に住むチン族、中国と国境を接す
る地域のカチン族、ラオス、タイと国境を接する地域のシャン族、その南のカ
ヤー族とカレン族、さらにその南に住むモン族などであり、これら主要民族を含
む少数民族各派が、合わせれば20を超える、それぞれの民族の名を冠した武装
組織をつくって、束の間の停戦をはさみながらも60年あまり、ビルマ族の政府
と戦ってきたのである。

 しかし、このような強い民族意識がもともとあったわけではない。かれらは、
焼畑や水稲耕作、あるいは象を使った山仕事など、環境に適合した生活形態で棲
み分けながらも、交易と交流を通じて穏やかに共存してきた。

 ところが1885年までにビルマ全土を支配した英国植民地政府は、ビルマ人
と非ビルマ人を類別し、さらに非ビルマ人も民族ごとに細分して、平野部のビル
マ人居住地域は総督による直轄統治、山岳地帯の各少数民族にたいしては土侯・
藩王など伝統的な権力者を残しての間接統治という、英国お家芸の「分割統治」
を実施した。この政策が、人々にはじめて「われわれ意識」(民族意識)を目覚
めさせたことが指摘されている。

 さらに植民地政府は、非仏教徒である山地民にキリスト教の布教を行い、キリ
スト教と仏教の対立を生み出した。布教の対象になったのがカレン、チン、カチ
ンの各民族であった。とりわけ、この中で最大勢力のカレン族は、植民地政府に
官吏、軍人、警官を供給し、ビルマ人の弾圧に手を貸すこととなった。

 これに対してビルマ族の民族運動は仏教を推進軸に進められ、ビルマ族を抱き
込んだ日本軍政下では逆にカレン族が「英国の犬」と蔑まれることとなった。

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◇◇勝てなくとも戦いぬく
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 こうして煮詰まっていた各民族の民族意識は、1948年の独立を前に、独立
後の権益をめぐる自己主張と化して膨らんだ。 ビルマ族の国軍を率いて独立を
導いたアウンサンは、民族居住地別の州編成と州の連邦からの分離権を定めて少
数民族の統合に努力したが、独立を見ずして没し、少数民族側はビルマ族と平等
の権利や一層の民族自治を要求して、カレン族を先鋒として各民族団体が次々と
反政府武装闘争を開始した。

 少数民族と共産党などビルマ族反体制派の勢力に押されて、中央政府は195
0年代初めの一時期には、僅かに首都ラングーン(現ヤンゴン)のみを統治する
状態に陥ったが、やがて国軍を中心に態勢を整え、反乱勢力を辺境のジャングル
に追い込むまでに至った。それ以来、各少数民族は、絶対に勝つ見込みのない、
しかし決して武器を置かない抵抗をつづけてきたのである。

 転機はもう1つあった。カレン州のジャングルにあるカレン民主同盟の根拠地
マネプローは、カチン、モン、シャン、パオなど各少数民族の武装組織も糾合し
た民族民主戦線(NDF)の本拠でもあった。

 そこに、1988年の民主化闘争で軍事政権に追われた学生、知識人、僧侶な
どが集まり、90年の総選挙で当選しながら身に危険の迫った国民民主連盟の議
員なども逃れて、ここは民族を問わぬ反軍政民主化運動の拠点として高揚した。
ところが、95年、軍事政権が同じカレン族の中の仏教徒に手を回して結成した
民主カレン仏教徒同盟(DKBO)の攻撃を受けて陥落する。

 以来、少数民族への弾圧は一層強化され、いまなお、国軍による武力攻撃や強
制労働から逃れて、国境沿いのタイ領に点在する難民キャンプに10数万人が暮
らし、ミャンマー側のジャングル内をさまよう国内避難民は数10万人に及ぶ。
  ミャンマー国内には軍政が立てた「われわれの3つの責務」という看板が数多
く残る。曰く

  連邦を解体しないこと われわれの責務
   民族の団結協力を瓦解しないこと われわれの責務
   主権を確保すること われわれの責務

 ビルマ語でドーというその「われわれ」とはいったい誰なのか。その範囲は?
  「われわれ」のあいだははたして平等なのか?
  民族や宗教に目を向けるとき、いつも問わねばならぬ問いである。安い労働力
と豊富な資源を目当てに「制裁解除近し」と色めく国際社会や日本であるが、少
数民族問題の真の解決はまだまだ先のことであろう。

        (筆者は元桜美林大学教授・社会環境学会会長)

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