■ 宗教・民族から見た同時代世界    荒木 重雄

~複雑にからみあうミャンマーの政治と仏教~

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  ミャンマー(ビルマ)軍事政権は、1990年にその結果を反故にして以来20年ぶ
りの総選挙を年内に実施するとして、3月、一連の選挙関連法を制定した。
ところが、この関連法では、政党への参加や選挙権・被選挙権の条件として「禁
固刑に服していない者」との規定があり、これは、有罪判決を受けて自宅軟禁中
の民主化運動指導者アウンサンスーチーはじめ、多くの活動家が政治犯として投
獄されている民主化勢力を選挙から排除することを狙ったものとして、早速、国
内外から非難を浴びている。

この国が政治の季節を迎えるたびに動向が注目されるのが僧侶である。2007年の
反軍政運動における彼らの活躍はいまだ記憶に鮮やかなところであろう。彼らは
再び動くのか。この国の政治と仏教との微妙な関係を振り返っておきたい。


◇◇他民族征服にはじまる仏教


  ミャンマー(ビルマ)の主要民族ビルマ族が仏教と接したのは、11世紀、彼ら
がイラワジ川上流域にパガン王国をつくっていたとき、南部の海岸沿いにあった
モン族の国ペグーを攻略し、多数の僧侶を捕虜とするとともにパーリ語の南伝大
蔵経三〇部を手に入れたことにはじまる。ペグー征服によって海への出口を得た
パガン王朝はインド、セイロン(スリランカ)と交流を開き、とりわけセイロン
からは三蔵や仏舎利を請来して、上座部仏教を国教とするにいたった。
 
  この急速な仏教受容はなぜか。仏教には、王は前世において無限の功徳を積ん
だ菩薩であり(菩薩王)、仏教の理想を現世に実現する(正法王)という観念が
ある。この観念を王権の正統性と求心力に利用できると目論んだからであった。
歴代の王は自らが菩薩王であり正法王である証しに、夥しい数の壮麗な仏塔・寺
院を建立し、あわせて仏教教団の保護に努めた。


◇◇英国女王は仏教の擁護者に非ず


 王による仏教の振興・保護はその後も各王朝で連綿と続いたが、19世紀末、ビ
ルマを植民地支配した英国によって王制は廃止された。すると人々は、王によっ
て果たされてきた仏教のパトロンの役割を英国女王に求めたが、その期待が裏切
られたとき、新しい支配者への不満を高めた、とは、よく語られる挿話だが、事
実、ビルマの反英独立運動は、仏教徒ビルマ族を中心に、仏教の旗印のもとに進
められることとなった。
 
世紀が変わる頃から各地に仏教の護持と興隆を掲げる団体が結成され、青年仏
教徒連盟などが反英・民族解放運動に乗り出す。一方、自らを転輪聖王と名乗る
僧侶が率いる大規模な農民一揆が英国統治を揺るがせる。

 1930年代からは、自分たちこそがこの国の主人であるとの主張を込めてメンバ
ーが自分の名に「タキン(主人)」の称号を冠すタキン党がラングーン大学の学
生や卒業生を中心に組織され、彼らの多くは共産主義を志向したが、タキン僧侶
団の数千人の僧侶なども一翼に加えて広範な独立運動を展開した。

 こうした動きに対して英国がとった対応は、少数民族を植民地軍に採用し、ビ
ルマ族の運動を締めつけることであった。ビルマには、人口の7割近くを占める
仏教徒ビルマ族の他に、カレン族・カチン族など約50の少数民族が住む。彼らは
もともとは精霊崇拝だが、英国の影響でキリスト教に改宗した者も多い。


◇◇ミャンマーに甦る日本の軍歌


  この仏教徒ビルマ族の不満に目をつけたのが日本の旧軍部であった。鈴木敬司
大佐率いる南機関はタキン党の活動家30人をビルマから脱出させて中国南部の海
南島で軍事訓練を施し、亡命ビルマ人によるビルマ独立義勇軍を編成して、太平
洋戦争開戦と同時にビルマに送り込んだ。この計画のビルマ側のリーダーがアウ
ンサンである。
 
  彼らの働きで日本軍は労せずしてビルマを占領するが、やがて独立を志向する
アウンサンらは日本軍と対立し、ついには戦火を交えることとなる。だが、ビル
マ国軍の誕生に旧日本軍の影響は欠かせない。今もミャンマー国軍の軍歌のメロ
ディーは旧日本軍のそれである。

 言うまでもないが、アウンサンスーチーはこのアウンサンの娘である。そして、
彼女を軟禁下に置いている軍事政権のそもそもを創設したネーウィンは、高杉
晋の日本名をもつ海南島訓練組の、アウンサンの盟友というのも歴史の皮肉であ
る。


◇◇ミャンマーになぜ軍事政権


  独立ビルマの首相に予定されたアウンサンは、国民統合を重視し、民族別州の
編成と州の分離独立権を定めて少数民族をビルマ連邦加盟に導いたが、独立を目
前に反対派によって暗殺される。

 ビルマは1948年1月、ウー・ヌ首相の下で念願の独立を果たすが、ビルマ族内
のイデオロギー対立に加えて少数民族の反乱が重なり、政情不安が絶えなかった。
その原因の一つには圧力団体として肥大化した仏教教団の過剰な政治介入があ
った。61年、ウー・ヌ政権は仏教界の要求を入れて一旦、仏教国教化法を成立さ
せるが、少数民族の信教の自由を巡って事態は紛糾し、緊迫した政情となった。
62年3月、ネーウィンがクーデターを決行し、以後、ビルマに軍部独裁が定着し
たのはこうした背景でのことである。

 ネーウィン軍事政権は仏教思想を加味したビルマ式社会主義を掲げたが、仏教
国教化への道を封じ、仏教教団を政府の管轄下に置き、政治への介入を禁じた。
仏教界には当然そのことへの反発がある。1988年および2007年の民主化運動で仏
教僧の一部が前面に立った背景にはこのような事情もあった。

 ミャンマーの民主化や仏教僧の動きの理解には、こうした歴史的な視点も欠か
せない。


◇◇再び緊張高まる民族・宗教対立


  一方、英国統治に端を発する多数派ビルマ族と少数諸民族との葛藤は、独立以
来、国家の存亡にもかかわる懸案であったが、ビルマ族軍事政権はしだいに攻勢
を強め、1989年以降、カレン族を除く17の主要な少数民族との停戦にまでこぎつ
けた。ところが、最近、両者の間に再び緊張が高まっている。

 原因は、軍事政権が、各少数民族の武装勢力に政府軍の国境警備隊への編入を
迫ったことによる。政権側は、ここで一気に各少数民族の脱軍事化を果たそうと
意図し、他方、完全な自治を条件に停戦に応じた少数民族側は、独自の軍事力を
奪われれば自治の保証さえ危うくなると警戒感を深めている。

 こうした状況のなかで昨年8月、国軍は、武器密造や麻薬取引の口実でコーカ
ン族を攻撃し、3万人の難民を流失させた。警備隊への編入を拒んでいることへ
の懲罰と見做されている。さらに現在、国軍は、同様に編入を拒んでいるワ族や
カチン族に対しても同じような非難や周囲での兵力増強の圧力を強めているが、
しかし、兵力2万~3万人のワ族や5千~6千人の兵力を擁するカチン族が必死
の抵抗を決意し、他の少数民族もそれに同調するとなれば、事態は予断を許さな
い。

 さてそのときビルマ族の仏教僧および仏教徒大衆が軍事政権に対してどのよう
なスタンスをとるのか、これは読者の想像にまかせたい。

           (筆者は社会環境フオーラム21代表)

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