■海外論潮短評(4)            初岡 昌一郎

- 資本主義によって圧殺される民主主義 - 

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  アメリカの国際問題専門誌『フォーリン・ポリシー』2007年9/10月号が「いかに資本主義が民主主義を圧殺しつつあるか」という、短いが、興味深い論文を掲載している。  筆者のロバート・ライシュは、バークレーのカリフォルニア大学公共政策学教授であり、かつてクリントン政権で労働長官をつとめたことがある。民主党リベラル派の系譜に入る論客で、民主主義の社会的側面を重視している。ここに紹介するその論文は、『スーパー・キャピタリズム』という彼の近著の趣旨である。


■資本主義は民主主義の基礎 - 通説に疑問


  資本主義と民主主義はその一方が栄えて、他方も発展するものと考えられてきた。しかし、今日、その相関関係が逆転しつつある。  
  30年前は世界各国の三分の一が民主主義であったが、今日では約三分の二が民主主義国とみられている。その間に、世界経済のグローバル市場化は決定的に進行した。
  中国はアメリカと日本に次ぎ、世界第三番目の資本主義的市場経済となって、市場の自由を取り入れたが、政治の自由は入れていない。ロシアからメキシコに至る、経済的には成果をあげている多くの国でも、民主主義は名ばかりである。
  大企業とエリートが経済的成果を横取りするのを許し、市民の関心事に対応すべき政府の能力を低下させているという、近年においてアメリカを悩ませてきたと同じ問題をこれらの国もかかえている。
  自由な市場が多くの人々にかつてない繁栄をもたらしてはいるが、所得と富の不平等を拡大し、雇用の不安定化を生み、地球温暖化などの環境問題を悪化させた。
  民主主義はこれらの諸問題に市民が建設的な方法で対応できるように設計されているはずなのに、ヨーロッパ、日本、アメリカにおいて市民の間で政治的無力感が拡がっている。それは、資本主義と民主主義の双方とも世界的に拡大したが、その間の責任範囲が曖昧になり、前者が民主主義を阻害するようになったからであろう。資本主義が個々の消費者の望むところにすばやく対応しているのに対し、民主主義はその基本的機能を遂行するのに苦闘している。
  民主主義は市民がパイをいかに集団的に分配し、私的および公的な財にたいするルールを決定するのを可能にするはずであったが、今日ではこの機能がますます市場にまかされるようになっている。資本主義の目的は企業が市場で精力的に行動するのを可能とすることであるとしても、これらの経済主体がわれわれの暮らしのルールの決定者となるのを阻止しなければならない。


■企業に社会的責任を期待するのは市民的義務の放棄


  多くの人たちは、消費者や投資家として、そして市民として矛盾する二つの心を抱いている。前者の立場からグローバル経済にハイリターンを求めるが、市民としてはこれらの経済活動に伴う社会的諸影響を好ましくないとみる。
  今日われわれが享受しているものが、労働者に低い賃金を押しつけていることによってもたらされていることを知っている。この成果をもたらしている企業が、コミュニティを犠牲にしたグローバルな供給チェーンを作り、経営者に目の飛び出るほどの報酬を払い、環境を破壊していることを皆が承知している。
  不幸なことに、アメリカでの経済論争は二極化している。すなわち、一方は市場に無規制な活動をさせたがり、他方は雇用を守り、コミュニティを温存させようとする。グローバル化の打撃を緩和し、変化のペースを抑え、敗者を補償する代わりに、われわれは闘いを進めている。そして、消費者と投資家としての市民がほとんど常に勝利している。しかしたまには、新しい貿易協定を阻止したり、米国企業の国外売却反対にシンボリックな巻き返しを行うこともある。
  こうした矛盾した感情の発露は、アメリカだけではなく、ヨーロッパや日本にもみられる。ヨーロッパの消費者と投資家は、今日はこれまで以上にうまくやっているが、市場の不公正に対応するために社会民主主義が確立されているところでさえも、雇用不安と不平等が拡大している。市民が、時折反対を表明するのは、ボイコットやストライキを通じてだけである。
  日本では多くの企業が生涯雇用を放棄し、労働力を削減し、不採算工場を閉鎖した。かつて「総中流社会」を標榜したこの国でも、所得と富の格差が急速に拡がっている。他の多くの自由市場経済諸国と同じく、市場の与える多くの社会的犠牲に直面するにはあまりにも脆弱な民主主義が、グローバル経済に直面している。
  政治的に対極にある中国は、民主主義抜きで資本主義に突進している。これは中国に投資する人々には良いニュースだが、国内の市民にとっては問題が山積しつつある。所得不平等は巨大になった。中国の都市は、都市の貧困と失業に沈み込む地方農民の犠牲によって繁栄をみている。被害を受けている人々は、力によって抑え込まれている暴動による他に、状況を変えるための政治的な道筋をほとんど持っていない。
  民主主義国に住む市民は、ゲームのルールを変更し、社会的犠牲を軽減する能力を持っているにもかかわらず、このような責任を民間部門、すなわち企業自体とその代弁者にまかせているのが実情だ。そして、企業の社会的責任や良き企業市民に期待をつないでいる。しかし、企業自体は不平等の救済や環境保護に責任を負うものではない。市民こそがボトムラインを守る義務を負っていることが忘れられているのにすぎない。


■民主主義の機能は企業ではなく、市民とその代表の責任


  資本主義が成功を収めているのに、民主主義が次第に弱体化しているのは何故か。企業がグローバルな競争を激化させ、ロビイ活動やPRにかつてない金を遣い、賄賂やキックバックも辞せず、競争相手に優位に立つように法律をまげているからである。一般市民の声をかき消す、政治的軍拡競争が演じられてきた。
  企業がますます立法活動を左右するようになっているのに、ある種の社会的責任や道義的権威をもそれに付託しようとする傾向が強くなっている。政治家は「責任ある」企業を賞賛し、そうでない企業を糾弾している。
  しかし、資本主義の目的は消費者と投資家により良い経済的結果をもたらすことであって、企業経営者は公共財のために利益とのバランスを図る責任を与えられているのではない。さらに、経営者は、このような道義的裁量の専門家ではない。
  こうしたことは民主主義の領域であり、市民とそれを代表するものの責任である。民主主義主義の目的は、個人として達成できない目的を市民が集団的に実現させることにある。
  しかし、企業にそれが達成しうる能力や権限もない社会的責任を負わせることで、民主主義はその役割を果たすことはできない。こうした状況では、一方の経済成長と他方の雇用不安、不平等拡大、環境破壊などの社会問題の衝突を不可避なものにする。
  企業の役割と市民による民主主義の役割をはっきりさせることが諸問題の解決のために必要なことである。この任務を達成するためには市民の任務に真剣に立ち向かわなければならない。その第一歩は、しばしば最も困難なことであるが、自らの考え方を正すことである。


■コメント


  企業の社会的責任(CSR)とか企業市民という言葉は、昨今の論壇や、ことに労働界における流行語となっている。こうした用語や考え方はアメリカから入ってきたものであるが、元労働長官として労働界でも評価の高いライシュによって、こうした考え方に正面からの批判が展開されていることは興味深い。彼の論理からすれば、CSR論は市民としての個人の責任を忘却しているだけではなく、カウンターベイリング・パワー(対抗勢力)としての労働組合の任務放棄につながる。
  今日、政府や行政がその立法過程に、多数の企業代表やその代弁者を審議会などを通じて大勢参加させていることは民主主義を弱体化させている。このような政治プロセスは個人にとっては権利の侵害と責任の放棄という両面を持っているが、政治家と公務員にとってはその怠慢と彼らの無責任にたいする隠れミノとなっている。
  ライシュのような民主主義論が必ずしも多数意見ではなく、アメリカでは(そして日本でもそれに影響され)、企業市民(会社)により直接的に大きな政治参加の可能性を与えることを擁護、推進する議論が広く行われている。その大きな論拠の一つは、「投票権なくして、納税なし」との古典的議論を敷衍し、大口納税者の企業に政治的責任と権限を与えるべきとすることである。
  アメリカにおける現在の論議だけではなく、歴史的観点から民主主義を原理的に考えてみるために、アメリカの著名な政治学者R.A.ダールによる2冊の本を推薦しておきたい。

◎『デモクラシーとは何か』(2001年、岩波書店)
◎『ダール、デモクラシーを語る』(2006年、岩波書店)

                   (筆者は姫路獨協大学名誉教授)

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