【コラム】槿と桜(24)

「未来ライフ大学」と韓国梨花女子大生の座り込みデモ

延 恩株


 私が勤務する大学では例年通り、今年も梨花女子大学での3週間の語学・文化研修があり、私は8月4日から9日まで学生の送り出し付き添いでソウルへ行ってきました。
 出かける前に、梨花女子大学では社会人教育を巡って、学内での学生の反対運動が活発になっているという情報が先方から入っていました。もちろん研修にはなんら支障はないということが主たる伝達内容でしたが。
 今回はこのホットな出来事について報告することにします。

 韓国では梨花女子大学校(이화여자대학교 イファ・ヨジャ・テハッキョ)といえば、女子大学として名門中の名門で、この大学出身者は最高のインテリ女性と見られ、男性にとって最高の花嫁候補であり、羨望の対象となるほどなのです。 日本でもかつてはこうした女子大学があったようですが、その女子大の学生たちが大学当局に反旗を翻し、総長の辞任を求めてデモ活動をしているというのですから、韓国で大きく取り上げられるのも無理はないと思います。

 それでは何が梨花女子大生たちにこのような行動をとらせたのでしょうか。
 梨花女子大学が「ニューメディア産業専攻」(メディアコンテンツの企画・制作)と「ウェルネス産業専攻」(健康・栄養・ファッション)の2専攻、定員150人の単科大学「未来ライフ大学」を新設、2017年度から新入生を受け入れるという構想が公表されたことが事の発端でした。

 これは高校卒業後、大学へは進学せずに就職した人でも、希望すれば大学へ入学できる仕組みを作ろうと政府が進めている、社会人対象の「生涯教育単科大学」事業を推進する役目を担うものです。
 生涯教育単科大学支援事業は、教育部が大統領の公約事業として推進してきた「生涯教育」政策の一つです。朴 槿恵(박근혜 パク・クネ)大統領の「すべての国民が容易に生涯教育システムに参加でき、大学などでいつでも学習できる」という方針による教育部の重点事業というわけです。

 2018年問題と言われて久しい日本では、あと2年後を境に18歳人口はもはや増加する見込みはなく(2015年度で約120万人)、大学進学率(現在約50%)も伸びず、2031年頃には18歳人口は100万人を切るとの予測まであります。大学淘汰の時代が確実にやってくるわけで、学生獲得に躍起になるのは当然でしょう。
 一方、日本の文科省は大学を生涯教育の場とするため、あれやこれやの通達や指示を出し、大学側もそれに応えるだけでなく、みずから積極的にさまざまな方策を打ち出しています。働きながら学べる多様な仕組みを創出する、資格や免許の取得をしやすくする、履修証明書の発行や学位取得への道を開くなど、社会人教育、生涯教育は大学が取り組むべき当然の事業と日本では見なされています。

 その意味では、朴 槿恵大統領の「すべての国民が容易に生涯教育システムに参加でき、大学などでいつでも学習できる」ようにするという方針は誰もが、いつでも教育を受けられる機会を作るという点でまちがっていないと思います。

 それにもかかわらず、梨花女子大生が総長辞任要求まで掲げて、「生涯教育単科大学」事業の具体的な形を備えた単科大学「未来ライフ大学」の新設に反対しているのはなぜなのか、ということになります。

 もともと生涯教育単科大学は、高卒出身の就業者、あるいは30歳以上の専業主婦を含む無職者に4年制大学の「学士号」を取得する機会を与える場とするものです。

 日本の大学が実施している社会人入学制度では、18歳入学資格者と同じく、その大学が実施する入学選抜方式をくぐり抜けなくてはなりません。また入学後は一般学生と同等の扱いを受けて、社会人だからという特典があるわけではありません。

 そのほかに専業主婦や中・高・老年者を対象に大学レベルの授業を教える教育組織を持つ大学もあります。一般学生と一緒に机を並べて学ぶこともあり、お互いが刺激を受けて活発な雰囲気のクラスが生まれるとなかなか評判の授業などもあります。でもこうして学んだ人に「学士号」が授与されることはありません。簡単に言えば、文科省が定める大学ではないからで、「学士号」を授与するに値する要件を満たしていないからです。

 ところが韓国では国の主導で、大学に別の入り口を作って、大学に入れなかった就業している高校生や社会人をそこから入学させ、「学士号」を授与できる仕掛けを作ったというわけです。そして、このような仕掛けを作らなければならないところに韓国社会が抱える深刻な問題が深く関わっているようです。

 2016年8月8日付け『朝日新聞』朝刊の「国際面」に“韓国マイスター高の挑戦―学歴偏重に一石、実践教育が売り”という記事が目にとまりました。
 「マイスター」とはドイツ語で、名人や達人、職人などを意味し、マイスター制度と言えば、ドイツが取り入れた職人の資格制度のことを言います。
 『朝日新聞』記事は「韓国政府が推進する「(韓国の空の玄関、仁川空港が位置している仁川市の仁川電子)マイスター高校」が存在感を増している。企業と密に連携して技術者の卵を育てる実践教育が売りで、就職率も高い水準だ。大学に行かなくても就職につながる道を広げるとともに、根強い学歴偏重の風潮に一石を投じる狙いがある」としています。
 いわゆる職業人を養成する高校のようですが、私が知っている限り韓国は80年代まで商業系、産業系、実業系の高校が多かったようです。

 たとえば私の義理の姉もこのような高校を優秀な成績で卒業し、韓国で現在でも大手として知られた銀行に就職しましたが、当時の銀行員は必ずしも大学卒ではありませんでしたし、高校卒業者でも有能な人材は多かったと言えます。ところが80年代半ばからは銀行でも大学卒の採用が増えはじめ、当時、兄嫁が「最近、銀行に入ってくる後輩のほとんどが大学卒なので、なんだかプレッシャーを感じる」と言っていたことを覚えています。

 韓国の学歴偏重と異様な教育熱は、親の教育費負担と子どもの精神的負担をますます重くさせています。何を学んだかより、どこの大学を出たかがはるかに重要であり、しかも有名大学を出たからといって、大卒者が望む財閥系大企業への正社員の道が保証されているわけではありません。

 この韓国の学歴偏重社会を、学歴より個人の能力こそ重視される社会へ転換させようと韓国政府が舵を切った一つの政策が「生涯教育単科大学」事業であり、もう一つが『朝日新聞』記事の「マイスター高校」事業の推進だと私は見ています。

 何がなんでもソウルにある有名大学へ、地方の大学へ入学しても意味がないという根強いブランド志向は私から見ると異様です。なぜ自分の好きなことを、自分が気に入った大学で勉強してはいけないのかという、私がずっと抱いてきた思いにようやく韓国政府が気づき動き出したようで、少し安堵感を抱きます。

 ただし「生涯教育単科大学」事業についての梨花女子大の対応を見ますと、金儲けに目がくらんで「学士号」の安売りを始め、学問を捨てたと学生たちから非難されても仕方ないようです。

 これまでも梨花女子大学は他の大学より寄付も豊かで授業料も高い有名大学なのに、政府の財政支援政策に順応し過ぎていると批判されてきていました。たとえば、大学人文力量強化事業により3年間で96億ウォン(日本円で約9億円)の財政支援、年間50億ウォン(日本円で約4億6千万円)の産業連携教育活性化先導大学事業の参加対象校、そして今回の生涯教育単科大学支援事業での30億ウォン(日本円で約2億7千万円)などです。

 今回の騒動には政府からの財政支援事業にばかり目を向け、私立大学としての建学精神や教育方針をないがしろにして、政府の好みに合わせるかのような大学作りをしているという、梨花女子大学の経営姿勢に対する蓄積していた不満が一気に爆発したとも言えるでしょう。

 政府からの財政支援を受ける事業に積極的に手を挙げるという点で言えば、私立大学の経営者なら当然と言えるかもしれません。
 問題はこの生涯教育単科大学支援事業では、就業者や30代以上の無職者や専業主婦が学生として受け入れ対象となりますので、授業は週末での集中講義やインターネット講座などをフルに活用して、2年半程度で卒業を可能にするという構想になっていました。

 梨花女子大生からすれば、選抜方式も違えば、入り口も違う門から入学させ、講義内容やそのシステムも異なる「未来ライフ大学」に、難関入試を突破して入学したこれまでの梨花女子大学生と同じ「学士号」授与するのは、“学位商売”だと映ったにちがいありません。学生たちのデモプラカードに“卒業証書返却”の一文が掲げられていたのも頷けます。
 また大学側が「未来ライフ大学」について、大学側としての姿勢をしっかり固めず、制度設計をせずに、政府の構想案をそのまま公表したことも今回の騒動の大きな要因となったと思います。

 たとえ大学への入り口は異なっても、在学中の学習レベルや成績判定、さらには進級基準は従来の梨花女子大学と同等とし、成績不振者は卒業させない。あるいはまったく違う大学として扱い、「学士号」とは異なる卒業終了証書を授与するといった政府の思惑とは異なる、大学としての毅然とした姿勢を示していれば、学生たちも今回のような「未来ライフ大学」反対運動を起こさなかったのではないでしょうか。

 梨花女子大学は8月3日午前9時から緊急教務会議を開き、「未来ライフ大学」の設立を断念することを決定しました。しかし学生たちは8月11日現在、総長の辞任を要求し、依然として本館占拠座り込みを続行中です。

 (大妻女子大学准教授)


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