■【研究論叢】
  戦時期社会政策と社会民主主義政党政治家

日本育英会と三宅正一(上)             飯田 洋

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  三宅正一(明治三十三年~昭和五十七年)
  岐阜県恵那郡静波村の素封家に生まれた。父弁次郎は若くして自由党に投じ、
長年村長を務めた。
  大正七年、早稲田大学政経学部に入学。在学中、浅沼稲次郎、稲村隆一等同志
と共に建設者同盟創立に参加し社会運動に入った。卒業とともに新潟県に入り、
抜群の行動力と雄弁をもって多くの小作争議を指導した。とりわけ、大正十五年
から始まる木崎争議は、地主側の土地取り上げ、立ち入り禁止処分に対し、無産
農民学校の設立などで対抗し、凄惨な闘争で全国に知られた。日本農民組合、労
働農民党、日本労農党の執行委員を歴任、昭和十一年、社会大衆党から新潟三区
で衆議院議員に初当選、戦後三年間のブランクを経て、昭和二十三年の総選挙に
おいて日本社会党から政界に復帰した。衆議院当選十五回。
  党内では河上丈太郎派(右派なたは中間派)に属し、一貫して党の統一に尽力し
まとめ役としての本領を発揮した。昭和四十三年日本社会党副委員長、昭和五十
一年から約三年間衆院副議長を務めた。


■始めに


  日本育英会(現独立行政法人日本学生支援機構)は昭和十年代に入り軍国主義化
が進む中で、教育の機会均等の理念と当時の大東亜共栄圏建設という国家目的の
達成のための人材養成課題が結びついて国家的育英奨学制度の確立が要請された
結果、昭和十八年に成立した我が国で初めての国家的育英奨学制度である。
  本稿の目的は、日本育英会の成立の経緯と、成立に中心的役割を果たした三宅
正一の活動を検証する。即ち、総力戦下において全ての社会政策が戦時色をまと
って論議されねばならなかった時代に戦時国策の一つとして成立した国家的育英
奨学制度の経緯と、農民運動の延長としての育英奨学制度を目指した三宅が制度
実現のためにどのように対応したかを明らかにすることによって三宅の戦時教育
政策に対する姿勢が戦時国策協力一辺倒であったという批判にはあたらないこと
を論証していくことにある。また、三宅の活動が社会民主主義政党政治家の職能
代表としての活動とは異なったユニークなものであったことを明らかにする。

 なお本稿においては、「日本育英会」「戦時中」という用語について次のように
定義することとする。
  日本育英会は、昭和十八年十月財団法人大日本育英会として創設された。昭和
十九年四月には改めて法に基づく特殊法人大日本育英会として出発し、昭和二十
八年には特殊法人「日本育英会」と名称を変更、平成十六年四月独立行政法人日
本学生支援機構として国家的育英奨学事業を再編・再発足するまでの六十年間業
務を遂行し今日に至っている。このように名称は何度か変わったが、日本育英会
という名称は我が国の奨学金の代名詞として広く人口に膾炙しているため、本稿
では特に区別する必要がない限り、日本育英会という呼称で創立から現在までの
育英奨学事業を呼ぶことにする。
  本稿で戦時中という時期区分を用いる場合は、昭和十二年二月の日中戦争勃発
から昭和二十年八月の第二次世界大戦終了までを指すものとする。
  私は先に論文「戦時期保健医療政策と社会民主主義政党政治家の職能性」にお
いて、三宅正一の戦時期における農村医療運動を通じて社会民主主義政治家の戦
時医療政策における職能代表的側面について論じ、同時に戦時国策協力との関係
を明らかにした。即ち産業組合特に医療組合の政治代表として利害に深く関った
三宅が、両組合の職能代表として国民健康保険法成立を中心としての戦時社会政
策に関与したとした。

 今回取り上げる日本育英会に至る国家的育英奨学制度創設運動の取り組みは、
国民健康保険制度創設の取り組みとはその経過を異にする。勿論両者とも原点は
三宅の農民運動、小作運動を通じて貧農の悲惨な境遇からの救済を目指したとこ
ろにあった。三宅が、農民とその子弟がたとえ家が貧しくても医療と教育を受け
られるよう国家的な健康保険制度と育英奨学制度の必要を感じたのは、彼の長い
農民運動のなかで農民生活との接触から得た体験によるものだった。

 両者への三宅の取り組みの違いは、次の点にある。国民健康保険制度創設の運
動は戦時中の代表的農村更生団体であった産業組合、医療組合を中心として推進
され、制度の必要性に共鳴した三宅は政治的側面における中心的代表として活動
した。従って当時彼が属した社会大衆党には多くの同調者がおり、党の推進する
政策として彼らは共同歩調をとった。三宅の活動は、当時の社会民主主義政党政
治家の医療組合における職能代表としての活動であった。
  それに対し、国家的育英奨学制度の創設の運動は、三宅の個人的提唱によって
産声をあげた。三宅が育英奨学制度の確立に取り組んだ主な動機は、彼の長い農
民運動の中で、農民との接触から体験した「頭の良い少年が貧しさから進学でき
ず、苦学して警官や教員になっても、非常に低い待遇を受けているのを見て、た
とえ家が貧しくても教育が受けられる国家的な育英制度の必要を感じた」ことに
あった。

 三宅は、昭和七年最初の衆議院選挙立候補の時から一貫して育英奨学制度の確
立を選挙公約とした。三宅の初当選は昭和十一年であるが、当時、国家的育英奨
学制度は、彼の属する社大党においても共通の政策課題とはなっておらず、三宅
はその実現の土台作りをむしろ時の政府首脳や政権与党である政友,民政等保守
政党の志を理解する農村出身の議員との共闘に求め、また彼の農民運動を通じて
親交のあった新官僚の協力を求めた。そうすることが実現への早道であることを
認識した三宅は、育英奨学制度実現のために、彼の所属する社民党代議士という
枠を越えて超党派的に主導的活動をおこない、具体的な成案作りにまでタッチし
た。その意味で日本育英会創設運動は、国民健康保険制度創設運動とは異なった
ユニークな運動であった。


■資料及び先行研究


  次に本稿に関係する資料及び先行研究について述べる。
  日本育英会の創立からの通史としては「日本育英会十五年史」「同二十年記念
誌」「同三十年史」「同五十年史」(いずれも日本育英会編集発行)「日本育英
会史 育英奨学事業60年の軌跡」(日本学生支援機構編)があり、創立の経緯
が詳しく資料に基き叙述されている。通史という性格上客観的事実の羅列に終わ
っているが、当時の情勢を知る上では貴重な資料である。教育研究の立場からは
『教育学講座20 教育機会の拡充』(学習研究社)があり、<教育機会の拡充の
制度的保障>の項で、国家的育英奨学制度の確立に触れているが、これも成立に
至る時系列的解説に終わっている。
  研究論文としては、服部憲児「日本における学生財政援助の展開 育英と奨学
の観点から」(『教育制度学研究 第5号』及び「日本育英会奨学生推薦基準の変
遷」(広島大学紀要センター大学集論集)がある。

 服部は学生に対する財政援助分析の視点は次の三点が考えられるとする。(1)給
付か貸費か(返還を求めるか否か)(2)質か量か(少数の者に多額の援助をするか
、多数の者に少額の援助をするか)(3)育英か奨学か(優秀者を対称とするか、経済
的に恵まれない者を対称とするか)である。彼はこのうち国家的育英制度におけ
る「育英」・「奨学」の二原理について分析し、時代により多少の変化はあるに
せよ「育英」に重点が置かれ、「奨学」原理のみに基づく制度はなかったと結論
づけている。しかしながら当該論文は、実態からの結論を導き出しているにとど
まり、なぜ育英制度が「育英」に傾斜したかについての理由、是非など社会的背
景の考察には触れていない。
  従って、戦時の社会政策、とりわけ教育政策の中で国家有為の人材育成に重要
な意味をもつ「日本育英会」の創設運動から創設、発展にいたる理念と中身の変
容について考察した研究は皆無であるといえる。


■三宅の育英奨学制度への関心


  三宅が、農村子弟のために、たとえ家が貧しくても教育を受けられるよう国家
的な育英奨学制度の必要を感じたのは、直接的には彼の小作争議運動を中心とす
る長い農民運動の中で農民生活との接触から得た体験によるものだった。しかし
彼は、それ以前に貧民教育の重要性を認識し、育英奨学制度に目を向ける機会を
経験していた。

 最初の機会は彼の幼少時代から中学時代である。三宅の郷土である岐阜県は小
作争議が全国の中でもっとも早期に展開したいわば小作争議の先進県であり、そ
れだけ貧しい農村地域だった。富裕な地主の旧家に生まれた三宅は名門の岐阜中
学に下宿して通学したが、中学に進学したのは彼を含めて数人に過ぎなかった。
中学から休みで帰郷する度に、彼の家には貧しさから進学出来ずに労働に服して
いる小作の子弟がやってきて、羨望のまなざしで彼の中学生活に熱心に聞き入る
のが常であった。三宅は「中には私よりも頭がいい者もいた。自分だけが何一つ
不自由なく勉強出来ることに子供心に何か済まないような気持ちと自分より向学
心の或る子供が貧しさゆえに進学できないことに矛盾を感じた」と述懐している
。幼少時代におけるこうした印象は、それ自体としては小さな意識の断片として
地主階級の子息としての日常の中に沈潜してしまっていたが、後に早稲田大学に
進学して社会主義理論に接した時、再び意味を持つことになった。三宅の目を社
会運動、特に農民運動に向かわせ、行動へと駆り立てた意識の底には、郷土岐阜
県における農村の暗い厳しい生活の記憶があったことは間違いのない事実であろ
う。
 
  早稲田大学に入学した三宅は、建設者同盟に参加し社会運動に開眼していくが
、彼がロシアの文豪トルストイに心酔したことはあまり知られていない。「トル
ストイの思想に関心を持ったキッカケは、新しい村を創った武者小路実篤や、小
作農民に自分の農場を解放した有島武郎の実践が、トルストイの思想的影響によ
るものだと知ったからだ」と三宅は述べている。とりわけ、トルストイが自分の
荘園の中に「愛と調和を軸にした人間教育」をスローガンに掲げ、労作を通した
全人格的教育をめざして創り上げた農民の子供のための学校実践は、後述する三
宅の木崎争議における農民学校建設運動の発想の端緒となった。特にトルストイ
が学校の教師としてモスクワ大学の学生などを集め、子供と付き合うことでお互
いの人間形成を高めあうという教育活動方法に倣って、木崎農民学校では多くの
学生が教師として子供と寝食を共にした。この実践が三宅に教育における教師の
重要性を認識させ、育英奨学制度の出発点として、教師養成の援助を盛り込むこ
とにつながっていくのである。
  
  三宅を始め建設者同盟の同人は、早稲田大学卒業と同時にそれぞれの分担に従
って各県に散っていくことになるが、三宅は大正十三年九月日本農民組合関東同
盟主任として新潟に入り、それ以後新潟の多くの小作争議を指導した。本稿では
彼の指導した争議の詳細には立ち入らないが、なかでも当時天下を震撼させた木
崎争議における無産農民学校の設立は、彼が長年にわたって暖めてきた教育理念
の実践化であった。
  争議の最中における地主と官憲側に組みする村長と小学校長に対する抗議の同
盟休校に端を発して開校した無産農民小学校には、東京大学を始めとする東京の
大学生や、小学校の教員、新聞記者、クリスチャンなどが多数來村して無償で教
鞭をとった。教師が、生徒の人間形成に付き合うことによってお互いの精神と人
格を高め啓発されていく様を目の当たりに体験した三宅は、教育における教師の
重要性を認識させられた。このことが後述する育英奨学事業の端緒となる教師育
成への財政的援助の発想の基となるのである。
 
  無産農民小学校の発展として三宅が中心として設立した「無産農民のもつ我が
国最初唯一の教化機関」無産農民高等学校の設立趣意書で彼は「暗黒なる農村に
於いて、未だ組織的教化に浴する機会を鎖される優秀なる青少年諸君。奮って第
一期本科生徒として応募されんことを望む」と呼びかけた。このように国会進出
前の三宅は、自前の教育事業構想を実践に移したが、地主の攻勢と官憲の弾圧が
進む中で所期の目的を充分に達成されないままに閉鎖されることになる。しかし
ながら、これらの経験が、「戦前小作人の子は、いかに頭が良くても、小学校を
出るのがせいぜいで、中小地主で中学、大学へ行くのは大地主の子弟に限られて
いた」状況を打破するための国会進出後の教育推進活動、特に国家による育英奨
学制度の創設を目指しての活動の原点となった。
 
  新潟における農民運動は、想像を絶する貧困と圧迫の中で追い詰められた小作
貧農の生存権をかけた必死の生活防衛闘争であったが、三宅は、闘争の指導の過
程で小作農民の教育の必要を痛感することになった。より高度の闘争を展開する
ためには、当事者としての小作農民が自らの置かれた地位の矛盾を自覚し、改善
を要求するための理論武装と社会的開眼が必要であったが、知識と分析力を持た
ない貧農達は、自分の置かれた差別的地位をやみくもに恨み、感情的な暴力的行
為に走りがちであった。一方、諦めから地主の専横的な支配に唯々諾々と従う者
も多かった。
 
  研究者の中には、小作争議は農民的小商品生産発展の過程で中農層を主要な担
い手としたとして、貧農的小作農民運動が小作争議の高揚をもたらしたのではな
いといういわば教育を受けた中農主体説を唱えるものがある。この説は、小作農
民の果たした役割を実証的に検証してないことから導き出されたもので組みする
ものではないが一面の事実をついている。三宅の周辺でも中農、小地主でありな
がら地主制度の矛盾を認識し、小作争議に積極的に加わり指導にあたった者も複
数存在した。彼らは、大学に進学し勉学することによる自己啓発の結果社会的に
開眼していったのである。三宅は、小作争議が"這い回る経験主義を脱して状況
を変革していくための理論武装するためには、何よりも小作農民が教育によって
自ら問題解決能力を養うことの必要性を感じていた。


■衆議院議員として育英奨学事業に関する活動


  三宅は、農村子弟のための国家的育英奨学制度の必要性について最初に選挙に
臨んだ第一声の中で政策課題の一つとした。当時の社会状況は、第一次大戦後の
経済不況そして満州事変以後の戦時下にあって、出征将兵家族、軍人遺家族、一
般勤労者、企業整備による廃転業者の子弟等で経済的理由により進学に困難をき
たす者が激増した。三宅は昭和十一年初当選した総選挙にあたってのスローガン
においては農村子弟にとどまらず全ての貧困子弟を対称とする育英奨学制度の必
要を訴えた。彼は選挙演説の中で「私は過去十余年、貧しい農民諸君のために闘
ってきました。そうして得た貴重な体験を活かして、これからは労働者、農民、
中小商工業者など広く勤労大衆のために私の全生命を捧げて生きたい」と述べて
いるように、運動の軸足を小作農民一辺倒の運動から、中農、一般市民、労働者
などの勤労大衆を含めた幅広い運動へと軸足を移した時期であった。
 
  国会では、まず最初に、三宅は無産農民学校建設の経緯から得た教師の養成の
重要性から教師の育成に対する補助の問題に取り組んだ。
  昭和十二、三年頃の小学校教員の待遇の低さ,悪さは、軍需産業の好況と相ま
って師範学校入学志願者を大量に工場に吸収した。青森県を例にとれば、昭和十
五年ごろ、師範学校二部の入学志願者は百名の定員に対しわずか二名という激減
ぶりを示し、また教員で軍需工場へ転ずる者の数も年とともに増える一方の情勢
であった。 師範学校に生徒を吸収し、危機に直面した小学校教育を崩壊の危機
から守るためには、まずもって小学校教員の待遇の改善が焦眉の急務であり、師
範学校生徒の給付の増額も直ちに対処すべき問題であった。
 
  三宅が議会でこの問題に取り組んだ昭和十五年は、日本は既に戦時体制に入り
、近衛第二次内閣が成立して新体制運動が開始された時期であった。一国一党的
新党運動のもとで「バスに乗り遅れるな」を合言葉にして、時流に孤立すること
を恐れた既成政党は、社会大衆党を始めとして相次いで解党し、労働組合も農民
組合も解散した。その後、新党計画は後退し、当初考えられていた政治力の結集
や政治指導の一元化、軍部への牽制などを意図した強力な国民政治組織構想は、
挙国一致的な翼賛体制へと変質し、大政翼賛会が発足、国家総動員体制が確立し
た。
 
  拠って立つ政党が消滅した中で、政策の実現を図るためには、志を同じくする
議員を党派を超えて糾合する必要があった。三宅はそれまでに培った人脈を生か
し、精力的に保守派の議員に対しても働きかけを行った。同時に、国民健康保険
法成立運動の時と同じく、新官僚の協力を要請した。三宅が後に「陰ながら応援
してくれた官僚の諸君が貴重な情報を提供してくれたおかげで議員の説得がうま
くいった」と述べているように文部省を中心とする新官僚の協力は大きな役割を
果たした。当時、文部省内においては剣木亭弘専門教育課長を中心とする育英奨
学制度について研究しているグループがあった。三宅は、かねてからの知己であ
る他省の新官僚からこのグループの存在を知り、接触を試みた。その結果、彼ら
も三宅を中心とする議員に積極的な協力をすることになった。彼らにとっては、
国家的育英制度のように長期にわたって多額の国費の支出を伴い、かつ多分に社
会的政策的意味を含むものについては、その実現にはよほどの大きな契機と強力
な推進力を必要であり、衆議院議員の存在は欠かせないものであった。その意味
で三宅の存在は、彼らにとって大きな頼りになった。


■国民教育振興議員連盟の誕生


  昭和十六年二月、三宅は森田重次郎,小山亮、山本粂吉,今居新造、西村茂生
などいずれも地方出身の保守系議員と諮って「義務教育費国庫負担法中改正法律
案」を議会に提出し、森田に教員の待遇改善に関する質問を行わせた。この森田
演説は、小学校教員の苦境を如実に訴え、国の教育の将来を憂うる大演説で、議
会の内外に感動の渦を巻き起こし、結果として教員一人当たり一ヵ月十円の特別
手当の支給に加え師範学校生徒の給費についても一年六十円から百円に増額する
ことを政府に承諾させるという成果を挙げた。
 
  森田演説の翌日、上記議員を始め教育問題に関心の深かった議員が集まり教育
問題の重大性、その解決の具体的方策等について熱心に討議した。これがキッカ
ケとなって、この議員達を核として「国民教育振興議員連盟が生まれることにな
るのである。会長にはビッグネームが必要ということで逓信大臣等を歴任した永
井柳太郎に就任を依頼した。自分自身貧乏な小学校教員の子として苦学を重ねた
永井は喜んで就任を受諾した。副会長には山本厚三、西村茂生を迎えその態勢を
整えたが、始めは二三十名だった会員も次第に増えて、一年後には当時の衆議院
の議席の約三分の二の二百十六名を数える各党各派をこえた大勢力となった。三
宅は筆頭世話人として実質上連盟の実務を取り仕切った。


■国民教育振興連盟の建議と政府の確約


  十六年三月に至り、連盟ではかねて懸案であった国家的育英奨学制度創設の問
題を取り上げ、具体的提案によって政府に実現を求めることを決定、研究に着手
することになった。三宅は、かねてから国民健康保険制度を手がけたこともあり
社会保険制度等に造詣が深かったため、育英制度の具体案は、三宅の手元で十ヶ
月の日子を費やして慎重にまとめあげられた。かって国民健康保険法作成のため
三宅に協力した保険会社のスタッフが再び三宅のもとに集まり、献身的に原案作
成に協力した。文部省を中心に新官僚も情報の提供を惜しまなかった。当時のス
タッフの一人であった篠原は「保険会社から出向していきなり育英制度の計画を
やらされ、最初は皆目見当が付かなかったが、三宅さんの熱意を感じて一生懸命
やった。当時は官僚の力が強くて説明に苦労した。三宅さんのお供をして大臣の
ところへ何度も行った。三宅さんの熱意には大臣もたじたじだった」と述べてい
る。

 昭和十七年一月、三宅案の提出を受けた連盟は、同年二月「大東亜教育体制確
立に関する建議案」として議会に提出し満場一致で採択された。建議案は十三の
項目からなっていたが、第二項「国民教育普遍化に対する方策の樹立(興亜育英
金庫制度創設案要項)が育英奨学制度に関する項目であり、趣旨説明に立った永
井会長の演説中、その項に関する部分は、この制度の要望とその背景を理解する
うえで、きわめて重要なものであった。永井は、明治新政以来の我が国教育の基
本的指導理念の一つであった教育の機会均等の精神を強調するとともに、これを
政治の正義と結びつけ国家的育英奨学制度の基底として主張した。むろん戦時下
であったから、趣旨としては、東亜全域に送り出すべき人材の育成についても触
れているが、議員連盟の真意はむしろ教育の機会均等の実現にあった。

 三宅によれば、「社会主義的な案を露骨に提出することは出来ない。そのため
に、戦争への協力としての動員計画として表面を粉飾した」。また小山亮は「そ
の趣旨には東亜全域に送り出すべき膨大な人員の指導者を養成するという要請と
、反面、国民の能力あり経済力伴わない者に教育の機会を均等に提供するという
要望の二面があるが、議員連盟の真意は後者にあった。ただし、当時軍国主義の
傾向ようやく濃厚で、これに逆らうことは、事実上不可能だった為、前者を一応
効能書きに取り入れざるを得なかった。」と述べている。このアイデアを提供し
たのは、当時の東條首相の秘書官であった赤松大佐であったといわれるが、ここ
にも密かに育英奨学制度を応援する人物がいたことになる。

 金庫案は三宅案をそのまま骨子として、これに政治技術的な面から装いをほど
こして、まとめあげたものである。

 まず冒頭にこの育英制度の目標を
―大東亜全域に指導者を送り出す為に―
―戦没有志始め国家功労者の遺児愛児を世に出すが為―民族の中に潜む良能を最
高度に引き上ぐる為に―
広く国民一般に進学の機会を拡充せよ
と大きく掲げた。
  なお育英金庫の名称を興和としたのは、大東亜戦争を記念としたもので当時の
状況が窺われる。

 三宅案にもとづく金庫案の構想では、先ず基本的なたてまえとして、国費の過
大膨張を防ぐために貸費制をとること、資金は国民貯蓄の集積である保険資金を
運用すること、国は興和育英金庫を創設して政府が相当額を出資することなどそ
の他詳細な実施要綱が定められ、財源についても触れられていた。

              (筆者は法政大学大学院博士課程在学)

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